阪神の遊撃手として活躍し、監督としても1985年に球団初の日本一を達成した吉田義男さんが3日、脳梗塞のため91歳で亡くなりました。

 京都・山城高校から立命館大学を経て、53年に阪神入団。1㍍67と小柄ながら軽快、華麗なグラブ捌きで1年目からレギュラーとなり、「牛若丸」の異名を取りました。64年には打率3割1分8厘をマークするなど、現役17年間で2007試合に出場し、1864安打、打率2割6分7厘、66本塁打、464打点、350盗塁、264犠打と、献身的なプレーが光りました。ベストナイン9度、盗塁王2度獲得。

 阪神の監督も75年から98年の間に3度、計8シーズン務め、通算484勝511敗56引き分け。現役時代の背番号「23」は永久欠番。海外への野球普及にも尽力し、フランスに渡って90年代に代表チームの監督として指導。92年に野球殿堂入りしました。

 走攻守に秀でた俊敏な選手だったが、特に際立ったのが守備。グラブでゴロを捕った瞬間、右手で素早くボールを握る技術は「捕るが早いか、投げるが早いか」と言われるほど華麗でした。遠征先の宿舎で、自室の壁にボールをぶつけては捕球をする「コトン、コトン」という音が、夜遅くまで響いていたエピソードは有名でした。

 入団1年目は38失策したが、当時の松木謙治郎監督が辛抱強く起用してくれたことが強く印象に残り、自身が75年に監督となると、若手の掛布雅之内野手を使い続けて「ミスタータイガース」に育て上げました。

 初の日本一で「阪神フィーバー」を巻き起こした翌年の86年は3位、87年は最下位に転落。ファンやマスコミに持ち上げられて、突き落とされる天国と地獄を味わったことで、当時の球団関係者で結成した「天地会」は固い絆で結ばれました。

 報道陣に対する態度も誠実で、若手記者や初めて会うテレビマンの質問にも丁寧に答えていた姿を何度も見ました。阪神ファンの歓声、怒声を受け止め、さらに野球界全体を支えた「ムッシュ」に合掌ーー。

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 1984年の王監督の時代から、藤田、長嶋、原監督まで、20年以上巨人を担当した某新聞社運動部元記者。