コロナ禍で春夏の甲子園大会が中止となった2020年当時の高校球児が、甲子園球場などで試合をする大会が29日、開幕しました。20年夏、地方大会に代わり、各地で開かれた独自大会優勝校など42チームの選手が甲子園で入場行進と、ノック練習などを行いました。この日は4チームが試合を行い、残るチームも12月1日まで兵庫県内の他球場で試合を行います。
予選で優勝しながら、戦禍のため、出場校が多いため、そして今回のコロナ禍のためと、大会名が変わったり、甲子園でプレーできなかった球児は、予想より多くいました。
まず、太平洋戦争中の1942年は、「全国中等学校優勝野球大会」が中止となりました。代わりに「全国中等学校錬成野球大会」が甲子園球場で非公式な形で行われたが、ユニホームのロゴはローマ字は禁止で漢字のみを使い、試合時、サイレンは鳴らされず、進軍ラッパを代用。「打者は球をよけてはいけない」と、投球が当たっても死球とはならないなど、特別規則で行われました。出場選手は、甲子園球場でプレーはできたものの、複雑な心境で試合に臨んだと想像されます。
また、1958年と63年の第40回、45回の記念大会では出場校を増やしたため、日程進行を重視して、3回戦まで甲子園球場のほかに西宮球場を使用しての大会となりました。このため、出場校の選手の中には、全国大会に進んだのに、甲子園球場でプレーできず、西宮球場で試合を行ったため、「甲子園でプレー」の夢は中途半端な形で終わったことと思われます。
巨人のエースとして活躍した堀内恒夫・元巨人監督は、甲府商業(山梨)のエースとして全国大会に進んだが、組み合わせで3回戦まですべて西宮球場での戦いとなりました。1回戦は武雄(佐賀)に10ー2、2回戦は宮崎商業(宮崎)に2-1で勝ち、3回戦で勝てば「甲子園でプレーできる」と臨んだ明星(大阪)戦に11ー0と敗れ、ついに甲子園の土を踏めないまま、去ることになりました。ちなみに明星はこの大会の優勝校でした。
堀内は「甲子園球場のプレーの思い出は、プロでしかないんだよ」と、寂しそうに話していました。
◇◇◇◇
1984年の王監督の時から藤田、長嶋、原監督の時代まで20年以上、巨人を担当した某新聞社運動部元記者。