先日、とある神社を訪れ、わずかな賽銭とともに、手を合わせてきた。
若いころは、神仏に願いごとをすることがあまりなかったが、
夫と結婚して、子供ができて、だんだんと願いごとが増えている。
最近では、長女の成績不振が重なり、切羽詰まって、
「次のテストでよい成績がとれますように」
「国語の読解がもう少しできるようになりますように」
「クラスが落ちませんように」
と自己中心的で短絡的な願いを思わず心でつぶやいてしまう。
自分でも自分が情けない。
本当にそれらが、親が娘のために神に願い乞うべきことなのか。
親として、娘のこの先長い人生を想ったとき、もっと他に願うことはないのか。
目を覚ませ!あるべき自分を見失うな!
あるミッション校の先生は、さらに深く「祈り」についてこう話されていた。
「毎日のお祈りの中で、あなたやあなたの家族以外の人のために、
あなたからは遠いところにいるだれかのために、ひとつは祈るようにしてください」
「祈り」とは、自己の願望を満たす目的で行うものではなく、他者のために他者を想って神に捧げるものなのであろう。
神の前に立って手を合わせるとき、人は何を願い、何を祈るのか。
神社の寂とした空気の中で、自分を見つめ、あるべき自分の姿を取り戻したい。
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中学受験沼にどっぷり浸かり、そのまま奥深く沈んでいきそうになる自分への戒めとして、思うところをつらつらと書いてみました。
最後までお付き合いくださり、どうもありがとうございました。