多分、いやきっと…
ニッポンの今ある高校の中で
イチバン歴史が古い学校が和歌山にある
タダシハンコウハノゾク
それが我が母校
その名を
耐久高等学校
…という
今は県立の高校ですが
元は私学からのスタート
多くの公立学校名は
地名から名付けられているけど
我が母校『耐久高校』は地名では無く
『永続』を願って『耐久(たいきゅう)』とした
学舎が永く続き
「自学自労」の精神が
育まれるようにという
そんな願いが込められている
そんなこんなの
我が母校、耐久
建学は嘉永5年(1852年)
ペリーが黒船で日本に来校したのが
嘉永6年(1853年)だからその一年前
創立したのは
濱口梧陵
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が書いた
「A Living God (生ける神)」という物語の
主人公が我が校建学の人『濱口梧陵』
濱口梧陵は、濱口東江、岩崎明岳とともに
幕末の国際情勢に備える人材養成のため
「自学自労」の教育方針で和歌山県広村に稽古場を開いた
嘉永5年、まだ日本は鎖国を続けているときだったが
濱口梧陵はこの時既に目は世界に向いていたのだった
建学時は校名が『耐久社』
学制が制定される前に開学
現在残っている『耐久舎』は
明治3年に建築されたもの
和歌山県指定の史跡となってます
正面に飾られているのは
渡米したときの濱口梧陵の肖像画
これは梧陵翁が海外視察で訪れたナイアガラの滝の前
明治18年頃と推測されてます
実はこの絵にはこんな逸話がある
第二次大戦後、学制改革の折
GHQ進駐軍の将校がここを訪れた際
この絵を前にして感動し、『耐久』という名前が
そのまま残ったという逸話があります
そんな開学の祖
濱口梧陵とはどんな人だったか…
本業は醤油製造業を営む当主で
濱口家7代目濱口儀兵衛を名乗っていた
醤油業は現在の『ヤマサ醤油』
今もヤマサ醤油は濱口家が継承している
製造地の千葉県銚子と紀州和歌山を
行き来していた地域の庄屋さんでもあった
若くして海外に目を向け『開国論舎』となるも
鎖国ニッポンにあって海外留学が認められず
稼業に精を出すこととなるが
人材の育成を願って耐久社を創設したり
政治の世界でも活躍した
■稲むらの火
旧国定教科書にも載ったお話し
前述の小泉八雲が書いた『生ける神』
安政元年11月に広村に到来した地震による大津波の際に
梧陵は自身の田にあった稲わらに火をつけて
安全な高台にある広八幡神社への避難路への明かりとし
村人を誘導することができたコトにより9割以上の村人を救った
それだけでは無く
復興と防災のために私財4665両を投じ
広村堤防を4年の歳月をかけて作った
これにより村人の仕事が出来
村を離れる人もいなくなったという
今も残る『堤防』
昭和南海大地震の際にはこの堤防のおかげで
被害が少なく済んだ
■近代医学への貢献
濱口梧陵は多くの社会事業を手がけた
その一つが…
東京大学医学部の前身である種痘館の再興や
コレラの防疫のために江戸の種痘所に人材を派遣
■政治家としての活動
濱口梧陵は商人の身分ながら
慶応4年には紀州藩勘定奉行に任命され
紀州藩の経済の近代化に尽力した
明治4年には大久保利通の要請初代の
今で言う郵政大臣に就任した
明治13年には和歌山県議会初代議長にも就任
多くの耳石を残す濱口梧陵
かの勝海舟も濱口梧陵の世話になり
亡くなったあと書状を送りそれが
広八幡宮の石碑となっている
多くの偽業をなした濱口梧陵
彼の建学したトコロで学んだ
そんなことをワタシは誇りに感じる
自分自身は偉業は成せないけれど
建学の精神は受け継いでいきたい
そんなこんなの
耐久社
母校の校歌にこうある
讃えよ耐久
我らが母校
なんか歌詞が身に染み入る
…ちゅうことで
ほな
また