花の命は短くて… 中井にて林芙美子を想う | The Sam's Room

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花の命は短くて苦しきことのみ多かりき…
 
名言ですな。
作家・林芙美子さんがよく使った言葉ですね。
 
『放浪記』の一節?
『浮雲』の?
 
いえいえ、違うンですよ。
色紙にいつも書いていた言葉で、ジッサイは『赤毛のアン』の翻訳で有名な村岡花子さんに贈った詩の一節だったとか…
ドウデモエエケド…

『花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき…』   乙女の悩みやな…
『オヤジの髪は短くて、ハゲることのみ恐ろしき』    オヤジの悩みやな…
『オバハンの命は長大で、楽しきお喋り多かりき…』 オバハンはやかましいな…
 
で、そんなこんなの『林芙美子』…
 
お江戸は新宿区落合にある『林芙美子記念館』に行ってきましたというお話しでございます。
 
♪ ぐるり廻るは 山手線~ ♪ 
                       http://www.youtube.com/watch?v=rd6fEK7LI7c
 
という歌を口ずさみつつ…、山手線に乗って… 
 
ン!?
知らんって!? 
うっそぉ~、佐々木新一さんの大ヒット曲『あの娘たずねて』ですぞ!
かの三橋美智也の再来とまでいわれた高いトーンの名調子…

 
まぁ、エエけど…
 
イメージ 1その都内とぐるりと廻る山手線は高田馬場駅から西武線に乗り換え2つ目の駅『中井駅』に降り立つワタシ。

ホンマの目的は、とあるゲ~ジュツ家のお宅を訪ねるコト。
 
そのゲ~ジュツ家は遙か昔に亡くなっているのですが、ご家族を訪ねてこの地にやって来ました。
ここ、中井… いや下落合には以前『佐伯祐三記念館』に来たことがあったな。ゲ~ジュツ家が集うトコなのですよね、ここ。

 
用事を終えて…
 
そうだ!
ゲ~ジュツ家ではないけれど、ここに居を構えた巨匠がおりましたな…ということで、やっと本題の『林芙美子のお宅』を訪ねるという話しに戻ります。
 

イメージ 2中井駅から歩いて10分程度でしょうか、都内とはいっても閑静なこの地のもっと静かな森に囲まれたところにデッカイデッカイ林芙美子邸が建っておりました。
 
林邸だけに、ホンマモンの林やんか…
 
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流石にベストセラー作家やな、こんなでっかい敷地の家に住んでたんやなぁ!
 
 
イメージ 5ホンマの玄関はココやけどな、閉まってる…
 
そうや…、
有料に施設になってるさかい、ここから入られヘン…
 
ヘンナカンサイベンヲツカウノハヤメトコ、ココハオエドヤカラナ!?

 
 
 
 
 
さてさて、そんなこんなで『林芙美子記念館』に入ることにしましょう。
 
入場料150円…
安いな。新宿区立ですから安いのかもしれませんね。
 
公立ですから安くしてる…?
でも安ければ儲けのコウリツ(効率)悪いな!?
 

 
林芙美子…
 
言わずと知れた著名な小説家ですね。
 
『浮雲』、『めし』、『うず潮』などで有名ですが、なんといっても代表作は『放浪記』。
 
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『放浪記』といえば、森光子で有名になりすぎて林芙美
子という作家の存在をややもすると忘れてしまう方もいらっしゃるのでは…
 
この『放浪記』のポスターはかなり昔のモノ。森光古参、まだ若いモンね!
 
 
 
『放浪記』…
私は宿命的な放浪者である、私は古里を持たない…したがって旅が古里であった…

そんな出だしで始まる放浪記は芙美子の自伝的小説だともいわれてますよね。
 
幼少の頃、芙美子は実父に母と共に家を追い出された。その後、義父や母と共に行商をして廻り、貧しい生活を送っていた。
15歳で女学校に入る頃から彼女の文才が開花し始める。卒業した芙美子は恋人の後を追い上京するが、恋人との結婚も破棄され、苦しい生活が始まる。女工、事務員・女給など何の仕事でもしながら転々とし、また俳優や詩人などと同棲を重ねるがこれも上手く行かなかったが、友人の紹介で画学生の手塚緑敏と知り合い、ようやく落ち着いた結婚生活を手に入れた。
昭和3年にそれまで書きためた『放浪記』を発表。女流作家ブームにも乗って芙美子は一躍流行作家となる。その後は頼まれれば断らないという活発な文筆活動を続け、また外国などへの取材旅行も積極的に行う。1951年(昭和26年)、6月26日の夜分、医者の忠告を聞き入れず『主婦の友』の連載記事『「私の食べあるき』という企画で料亭を2軒回ったのち自宅に帰って発作を起こし、翌27日払暁心臓麻痺で急逝。47歳だった。
 
まさに駆け抜けた人生…
壮絶な生き方だったのですね…

 
林芙美子がこの落合の地に移り住んだのは昭和5年(1930年)。
そして、昭和14年(1939)12月にはこの土地を購入して、新居を建て始めたそうです。
 
芙美子の建物に対する思い入れは強く、約200冊にも及ぶ建築の文献を読みあさったり、大工を連れて京都の民家を見て回ったり、様々な建築の勉強をするなど並々ならぬモノがあったといいます。
 
なんでかな?
何でそんなに家造りに拘るんだろう…
 
それは林芙美子自身に聞いてみないとわからないことですが、ワタシが思うに…
それは生い立ちにも起因しているのかもしれませんね。
幼い頃から家を出され、行商とかで転々とした記憶、貧しかった子どもの頃、そして若い頃の東京での不安定な生活等々。
 
こんな環境の中で育った彼女には落ち着きたい何かがあったのかもしれません。
その何かのヒトツが『住まい』というカタチであったのかもしれません。流転生活をおくった原体験が家へのコダワリに通じているといってもそれは無理の無い推論とも言えるでしょう…か!?
 
では、芙美子のご自宅を少し紹介しましょう…
 
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芙美子は苦労はしたとは言っても1930年(昭和5年)、27歳の時に『放浪記』が50万部が売れて一大ベストセラー作家の地位を得ました。
 
それからも書きに書き、その地位を不動のモノにしていった芙美子はもはや極貧ではなく大富豪。
世界各地を廻り、また、仕事でも人並み外れた活躍をしている。
 
生涯に書いた原稿は3万枚というから驚きです。47歳の若さで亡くなったというのにこの数!
自由奔放に生きたという彼女ではあるけれど、ある意味仕事でその命を削ってしまったのかもしれません。でも、それはきっと彼女が望んでいたことなのでしょう…
 
何だかわかるような気がします。
なぜかって?
だから…
 
何だか…わかるんですよ。
 
 
生き様は決して誉められたことばかりじゃ無いけれど、それは彼女の流儀であったのでしょう。
 
芙美子の葬儀に川端康成氏が葬儀委員長を務め、弔辞の中でこう言ったそうです。
『故人は自分の文学生命を保つために、他に対しては時にはひどいこともした。しかし、あと二、三時間もすれば
故人は灰になってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますので、どうか故人を許してやってください』…と。
 
芙美子はライバルの作家や新人上流作家が台頭してくると、あらゆる手段を使って追い落としを図ったといいます。こういうこともあったのを川端氏が言及したのかもしれません。
どん底から這い上がって地位を築いてきた芙美子、大作家になっても筆も休ませること無くこの世界に君臨し続けることを望み、自らの地位に拘ったのかもしれません。
作家としてのエピソードはそうかもしれませんが、この近所に住む多くの人々に慕われた芙美子でもあったということは間違いの無い事実でしょう。
葬儀の際には多くの近所の人々が見送ったことがその証拠なのかもしれませんね。
 
 
林芙美子…
その本質はワタシにはわかりません。
ただヒトツ間違いの無いことは、紛れもなく『素晴らしい作家』であったということでしょうか。