真田丸 4~5話 本能寺の変 | mmドラマ

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     2016.6.26、今まで書きちらしていた『真田丸』感想を再掲しようと開始。    

※ 「真田丸」が終わって1年後に書いています。

 

●本能寺の変の描き方

 

「真田丸」では本能寺の変が4話の最後に突然出てきたので、とんだ不意打ち感があった。それも、炎の中で兜が落ちるという象徴的なシーンのみ。なまじ自害シーンを映すよりも恐かった。

NHK「真田丸」公式サイトより
 

そして、5話で信長の2代目である信忠の自害が描かれた。信長自身の死よりも後継者がいなくなるという点に目を付けたのは従来の本能寺の変の描き方にはない視点であると同時に、二代目の悲劇を描くという「真田丸」のテーマを印象付ける描き方だった。「真田丸」では2話で勝頼の死を丁寧に描き、4話で後継者である信幸を温存しようとする昌幸を描き、5話で信忠の最期を描いた。

 

そして、この後ドラマが進むことで分かるのだが、5話までに描かれた二代目の悲劇(武田家滅亡と織田家滅亡)は、真田家が天正壬午の乱で表裏比興の活躍をせざるをえないきっかけとなるのである。そして、織田家が滅びたのは信長と後継者の信忠が共に死んだからだと、秀吉死後に家康が秀忠を江戸に返した時に昌幸に指摘させている(→ 真田丸 32話 応酬(2)嫡男 参照)。あっという間に終わった本能寺の変が、ドラマを通じて重要な意味を帯びていたのだ。

 

●原因は重要ではない

 

さて、近藤正高氏は各大河ドラマの本能寺の変の描き方を比較して、「真田丸」の特徴を次のように述べている。


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「真田丸」では本能寺の変の原因と結果をわずかなカットで描いた。その手法は新鮮だったが、そこで採用された原因じたいは光秀の信長に対する怨みという、これまで何度となくドラマなどでとりあげられてきたオーソドックスなものであった。

ただし、この怨恨説は研究が進むにつれ史料的な根拠に乏しいとされつつあるらしい。

 

★引用元:

「真田丸」信長死す(2年ぶり14回目) 歴代大河ドラマ、この「本能寺の変」が凄い

エキサイトレビュー 2016年2月7日 11時00分 ライター情報:近藤正高
http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20160207/E1454809119356.html

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ここで残念なのは、「信忠の死が描かれた」という「真田丸」ならではの視点に近藤氏が気づいていないこと。確か、信忠の死が描かれたのは今回が初めてのはず。各大河ドラマの本能寺の変を比較した記事なのだから、近藤氏にはそこに気づいてほしかった。

 

近藤氏は「真田丸」における本能寺の変の原因はオーソドックスだったという点を指摘し、その後に最近有力な説を紹介し、こんなドラマもできたはずと自説を展開するのだが、私に言わせれば、三谷氏は事件の原因に関心がなかっただけだと思う。ここで重要なのは真田氏の行く末なのであり、本能寺の変はきっかけに過ぎない。そして、その本能寺の変の原因が史実の上でもあまり判明しておらず、主人公一家も全然関与していないのであれば、「原因不明の事件の余波に振り回される主人公たち」の姿だけを描く方が良い。何よりも視聴者の視点をドラマの本筋から逸脱させずに済むのだから。それに、ドラマもよく見れば、信長が光秀を折檻する場面を信繁が目にしたという描写だけで、それが原因となって本能寺の変が起きたとまでは描いていない。


●「太閤記」での描かれ方

 

上で、近藤氏の記事を引用したけれど、「真田丸」の分析はイマイチだが、他の部分には有益な情報が多い。私が惹かれたのは大河ドラマ3作目の「太閤記」の本能寺の変に関する描き方の部分。備忘録として以下に引用。

 

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NHKの大河ドラマで本能寺の変が登場した作品は少なくない。私が数えたかぎりでは「真田丸」まで14作におよぶ。(中略)

 

大河ドラマで最初に本能寺の変が登場したのは、歴代3作目にあたる「太閤記」(1965年)だ。(中略) 第1回冒頭で開業まもない東海道新幹線が出てくるなどドキュメンタリーの要素も盛りこまれ、新境地を拓いたとされる。

 

(中略)

もっとも、本能寺の変の描写は、その後の大河作品とは微妙に違う。よくありがちなのは、信長が本能寺で寝ていたところ、外から馬のいななきなどが聞こえ、異変を察知する……というパターンだが、「太閤記」では事件のはじまりを信長の側からではなく、まず攻める側から描いていた。…

 

明智方の先陣を切った斎藤利三(高桐真)が本能寺の門前で呼びかけ、なかに信長がいるかどうかを確認したのち、襲撃を開始する。寺のなかにいる信長はこの異変に起床してからもしばらくは気づかず、のんきに歯を磨くなどしている。それどころか、家来に光秀の謀反と伝えられてもすぐには信じず、呵々と笑い飛ばす。その後の作品とくらべると、悠長ともいえる展開だ。これは、襲撃までの段取りをはじめリアリティこそ重視した結果だろう。本作のディレクターの吉田直哉はもともとドキュメンタリー畑の人だから、こうなったのは必然だったのかもしれない。

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「太閤記」がドキュメンタリー風に描かれたという点は、殺陣指導の中川邦史朗氏も林邦史朗氏から聞いたとして語っている。

 

※ この時のインタビューは 5/7 中川邦史朗氏トーク/九度山 にまとまっています。

 

「真田丸」の本能寺の変はドキュメンタリー的であると言う点で、この「太閤記」に匹敵するのではないかと私は思っている。現場にいなかった人(信繁)が、確かな事件情報が得られず右往左往する様子が私にはとてもリアリティがあるのだ。私も海外で暴動だのデモだのテロだのが起こった/起こりそうな状況にニアミスした(巻き込まれたわけではない)経験があるだけに、そう感じるのである。

 

●事件夜の月

 

実は、4話の本放送時、本能寺の変が起きた夜にわりと満月に近い月が画面に出ていて、それが再放送ではカットされるということがあった。夜景の安土城、互いを思って空を見上げる松(織田への人質)と小山田(夫だが松の付き人としてもぐりこむ)―確かこの辺りで明るい月の映像が挿入され、みるみる黒雲がかかった――、寝苦しく感じる信繁、「敵は本能寺にあり」と繰り返し、ぬかるんだ道を歩む明智…が描写され、ナレーションでも、「その夜のことである」と言っていた。しかし、これは有り得ない光景である。本能寺の変が起こったのは天正10年6月2日未明。旧暦では1日は必ず新月、つまり月が出ない日で、2日未明でもほとんど見えないからだ。再放送でカットされたのは、その点を指摘する声が多かったからだろう。

 

しかし、なぜ、月を映したのだろうと思っていたところ、下記のように、「安土城と松・小山田の愛情が時代の闇にかき消されていく象徴」のつもりだったらしい。これでは、制作者の旧暦に対する知識が不足していただけだと思われても仕方がない。象徴表現としても、あまり出来が良くなくて、本放送を見ていた私(この時点では、本能寺の変が旧暦の2日未明に起こったことだという点には気づいていなかった)には、この月にそんな姉夫婦の愛情の未来という象徴表現があるようには全然感じられなかった。月が出ていない夜という現実を映像で示した方が、よっぽど、織田家が滅んで真田家の先行きが全く不透明という象徴表現になっただろうに…、そしてそっちの方が話の本筋だろうに…、と思う。