記事を書くのが全然追いつかないのだけれど、前々回の記事で、ヒーローたる「永遠の少年」について書いたので、今回は49話で人物像が明確に示されたヒロイン・きりについて書いておきたい。
大河ドラマのヒロインは、従来、主人公が最も愛した正妻/正室、そうでなくても静御前のように手元に置き続けた愛妾という形で、主人公と一対をなす存在として描くのが基本だったように感じられる。しかも近年は、その正妻との結婚も恋愛がベースにあるかのように偽装されていた。
今回のきりの描き方は従来のヒロイン像とは異なっている。従来のヒロインは、最初から主人公の最愛の人として設定されており、子供を産んで母となる。しかし、きりは最愛の人でもなければ、母になることもなかった(★1)。主人公の身近にずっといたけれど、最終回の前回に至ってやっと主人公に愛おしいと思ってもらえた人物なのだ。きりは、従来のヒロインのように、主人公の愛情を頼り、主人公に愛され評価されることに価値を見出して生きた人物ではなくて、主人公が好きで役に立ちたいという自分の思いに忠実に能動的に生きてきた人として描かれる。そこが、ヒロイン像として新しい。
では、従来のヒロイン像はなぜ上述のように描かれてきたのだろう。
それはやはり、大河ドラマが放映されていた時代を反映しているからだ。以前の記事: 真田丸 本格大河とは で書いたように、「本格的な」大河ドラマは放映開始の1963年頃の価値観を反映している。当時、日本の製造業は高度経済成長路線に乗っていた。その企業のあり方は、軍国主義の時代に支持された「領土拡大をめざす戦国時代」という歴史観(時代考証者によれば、誤った歴史観)に沿っており、この時代を支えていた人たちの価値観に合致していた。だから、その時代に肯定された大河のヒロインもまた、一夫一婦制度の下の専業主婦、内助の功で夫を支える良母賢妻という当時の社会(あるいは政府)にとって望ましい女性像を反映している。これは、特に「企業戦士」である男性にとって理想的な――悪く言えば都合の良い――女性像だ。
また、現在の私たちが考えるドラマというものは、根底に近代西洋で生まれたロマン主義がある。ロマン主義は、個人的な感情を物語の出発点に置く。大河ドラマといえど、そこから全く自由なわけではない。男女の出会いは個人の恋愛感情に始まり(個人主義的)、自由な交際の末(民主主義的)、結婚というハッピーエンドに至る(または、結婚に至れず悲劇に終わる)という型を、どこかで肯定している。高度成長期に内助の功で夫を支えた妻は、戦前の家制度から解放されたとはいえ、夫個人に従属するという形でやはりまだ抑圧されていた。しかし、だからこそ、フィクションであるドラマには結婚の基盤に恋愛があるという女性側の憧れや幻想が反映されていたのではないか、あるいはそのように男性制作者は考えていたのではないかと私は思う。そして、一夫一婦制だからこそ、ヒロインたる妻は最愛の人でなければない。
ちなみに、大河ドラマが始まった時代は核家族化が進行した時代でもある。wikipediaによれば、「核家族」という語はまさに1963年に流行語になった。大家族が身近ではなくなり、夫婦2人+両者の間の子供という構成が家族の単位として浸透した。今年、三谷幸喜氏は家族で楽しめる時代劇である点を強調していたが、彼が指す家族とは親子二世代であろう。時代劇で扱う三世代+さらに縦横の親類縁者に広がる大家族の形態が想像しづらいものになってきた時代に作られたのが大河ドラマなのだ。
★1
時代考証・丸島和洋氏の著作『真田四代と信繁』(平凡社)によれば、高梨内記の娘は信繁の三女(ドラマでは正室の子のお梅に当たる、伊達の片倉家に嫁ぐ)、四女を生んだことになっている。なので、うざいと言われるきりを最初から応援してきた視聴者(筆者も)は、九度山編ではきりは側室となるだろう、信繁の子を授かるだろう、ということを心の支えに視聴を続けてきた。ところが、丸島氏は九度山編1回目の38話「昌幸」放映後のtwitterで、以下のように呟いている。
あ、阿梅の生母の件がありました。幕末に編纂された真田氏の正史のうち信繁伝である『左衛門佐君伝記稿』には、高梨内記の娘(きり)の子とありますが、真田六文会(真田氏子孫の会)の調査では高梨内記の娘じたいが登場しません。
阿梅は最終的に片倉重長(白石城代)に嫁ぎますが、菩提寺当信寺の過去帳には、竹林院殿(春)の記載はあるものの、高梨内記娘(きり)に該当しそうな人物はいないようです。わざわざ京都に在住していた竹林院殿の供養をしていることからすると、竹林院殿の娘の可能性が否定できません。