肺腺ガンの告知を受け、何をどうしていいかわかりませんでした
ただ、ガン=死という文字だけが頭をよぎり
主人の事、娘の事など考える余地などありませんでした
実母に話した時は、言葉はありませんでしたが、
泣きじゃくる事はありませんでした
先に旅立った兄の事で母は頭が一杯になっていて
私のことはあまりピンとこなかったのでしょう・・・
それにしても、この1年の間に起こった不幸には驚きでした
娘が高校受験の一番大事なときに
主人の解雇、兄の死、そして・・・私のがん発覚
それも、兄弟同じ時期に同じがんにかかるとは
思いもしませんでした
肺がんは、タバコを吸う人だけがなる物だと思い込んで
いたために、タバコを全く吸わない私が、肺がんなんて
考えもしませんでした
ストレスは人より何倍もあったので、もしなるなら胃がんと
思っていたのに、とても不思議でなりません
聞くと、副流煙とストレスで最近タバコを吸わない女性が
肺腺ガンになる確率が倍増しているとか・・・
本当に人生わからないものです
それに、母を全面扶養していたので、経済的にも余裕がなく
私自身のガン保険に入っていなかった事で
金銭的な面にもこれからの治療に不安もありました・・・
娘の高校受験も、大変でした
この頃は、兄の死で娘が悲しみ、受験勉強になりませんでしたが、
兄も娘の高校合格を楽しみにしていた事を伝えると
それまで泣き明かしていた娘が一粒の涙も見せず、
無事合格したことに、喜ぶのもつかの間、
転移がないか全身をエコー・MRI・CT・血液検査・骨シンチと
ありとあらゆる検査を受け、絶望感に浸っている暇はありません
おかげで、肺のみに留まっているとの事で、手術可能
急ぎ、専門の呼吸器外科で手術をする事に・・・
それが、娘の高校入学に重なり、外科の先生が
入学式を済ませて入院する事を勧められ、
入学式を終え、即入院、手術となりました
手術前の状態は・・・
右肺中葉全摘、ステージⅠbで、転移なし、
生存率も60%前後と少し希望が持てたものの、
手術をして摘出物の臨床検査の結果、転移一つ発見
ステージは手術前と変わって、Ⅲaと生存率も30%未満・・・
生きる希望が薄れてしまいました・・・
帝王切開の痛みを知っている私でも、臓器摘出は初めてで
麻酔が切れた後の痛みは、半端ないものでした・・・
管が至る所につけられ息苦しさも少しあり、それでも
昔とは違い、術後2日目から歩く事を言い渡され、
管をつけたまま、点滴も持ち歩いたまま歩行練習・・・
その上、乳腺にエコーでガンらしき組織が見つかったらしく
術後、1週間にして乳房の指針細胞の検査で
ショックと、痛さでその夜は、病室で泣きじゃくっていました
1週間後、乳腺の検査の結果、良性腫瘍と判明・・
ほんの少し、安心しました・・・
が・・
術後抗がん剤も待っていました
抗がん剤と言えば、脱毛、吐き気、口内炎など
辛い副作用が待っています・・・
5月の連休が近いという事で一度帰宅を許されたので
術後、3週間未満で一時退院することに・・
自宅に帰れる喜びで一杯でした・・
そんな喜びと裏腹に・・
後で聞いた話でしたが、自分のことで精一杯だった私は
自分だけが苦しいと思っていました
でも、娘が一番苦しい思いをしていたのです・・・
家では、母が私がガンになったのは父親のせいだと
毎日のように言い聞かされ、主人も仕事と家庭の両立、
莫大な出費、母との同居・・・で、ストレスの発散場所を
娘にしていたようなのです・・・
それに耐え切れなくなった娘はリストカットに走ったようです
病院にお見舞いにきても、主人と娘だけの約束で
私の前では、「泣かない・愚痴を言わない」
と頑なに守っているようでした
その約束どおり、娘は私が泣きじゃくってばかりいれば
「お母さんが、そんなことでどうするの」
「お母さんが、頑張らなきゃ私たちはどうすればいいの」
「自分が治そうと思わなきゃなおらないんよ・・ 大丈夫だから・・」
と、まるでどっちが母親かわからないくらい言い聞かされていましたね
病院で娘の涙も見たことがありません
主人と娘が二人で帰る後姿は本当に微笑ましく思いました
家庭では、そんなことが起きてるなんて
微塵にも感じられなかったのです・・
一時帰宅をして1週間家族と過ごし、
抗がん剤治療が始まる覚悟と不安を持って5月連休明けに
再入院しました・・・
その後に続く・・