「不快≠苦しみ」とは?

 

 

 

 

 

不快があってもそれに抵抗する

 

自我がいなければ、苦しみは

 

ありません

 

 

 

 

それなら、不快を受け入れれば

 

苦しみはなくなるのか?

 

 

 

 

実は、そう単純な話でもありません

 

 

 

 

なぜなら、その受け入れも自我

 

自体がやることだからです

 

 

 

 

この不快に抵抗しないでおこう

 

という選択が自我の「受け入れ」

 

ということになります

 

 

 

 

そうは言っても、

 

不快=「心地良くない」というのは

 

偽らざる人間本来の感覚です

 

 

 

 

 

そもそも無理矢理その感覚を否定

 

しているわけなので、

 

しばらくすると我慢できず、

 

この不快を消したいという

 

感覚が沸き起こってきます

 

 

 

 

 

本当の“受け入れ”とは、

 

感覚をジャッジする自我は

 

実在しないということに

 

思考ではなく感覚的に

 

気づいている状態です

 

 

 

 

 

ただし、これは、言うは易し

 

ですが、実際難しいんです

 

 

 

 

自我が実在しないとは、

 

言うならば、ある意味頭の中の

 

巡るめく思考が止まるという

 

ことです

 

 

 

 

 

ただし、それらを止めるのは

 

一筋縄ではいきません

 

 

 

 

 

なぜなら、例えば禅僧達が

 

気の遠くなるような期間、

 

厳しい修業によっても得る

 

ことが難しい

 

悟りそのものでもあるからです

 

 

 

 

そもそも、不快を嫌悪するのは

 

太古の昔から培われた人間本来の

 

本能的な反応でもあるのです

 

 

 

 

 

だとすれば、1日10分でも何にも

 

考えない時間を作る意義は大きい

 

でしょう

 

 

 

 

瞑想又は座禅もどきでいいので、

 

形にこだわることなくやってみる

 

ことです

 

 

 

 

なお、無音だとすぐに頭の中が

 

ぞろ騒がしくなります

 

 

 

 

そこで、ヒーリング音楽などを

 

かけて音そのものに意識すると

 

集中しやすいです

 

 

 

 

少なくとも頭の中の騒々しさは

 

多少なりと収まりますから