◎  「クリスチャンは天国へ行っても訓練を受ける」のつづき

 

* 来たるべき時代における清め

 

神から来る清めの訓練は、この時代に限られるのであろうか? それとも、来たるべき時代にもあるのか?

聖書によれば、「死」は決して人を変えることがない。死によって人が変化したという例証は、聖書全体のどこにも見出すことはできない。わたしたちは将来、世々限りなく、神と共にいることを知っている。主が聖であられるのと同じように、わたしたちも聖なる者に変えられるだろう。しかし今日、わたしたちは、主と同じように聖いと言えるだろうか?わたしたちは今日、自分は永遠にわたって主と共にいるのにふさわしい者であると言い得るだろうか?

主イエスの血がわたしたちを清め、もろもろの罪の記録を消し去られたことは確かであり、事実である。しかし、わたしたちは主観的にわたしたちの内側で、果たしてキリストが生きておられるという経験を持っているだろうか?さらにわたしたちは、復活のキリストを生かし出しているだろうか?わたしたちの歩みは、永遠の中での歩みと比較する時、両者はあまりにもかけ離れているように思われる。今日、わたしたちは主の聖と義と栄光に比べるに値しない。多くのクリスチャンは今日、依然として、もろもろの罪と汚れに満ちている。

そういうわけで、ここに問題がある。事態が、今日非常に悪くても、将来は非常に良くなるのであれば、あるいは事態が今日非常に不完全であっても、将来完全になるとすれば、いったいその変化はいつ起きるのだろうか?あなたが今日、完全でなくても、将来には完全な欠けた所のない人になるとすれば、そのような変化はどこで起こるのか?永遠の将来、新エルサレムにおいて、わたしたちが神と子羊と共にある時、わたしたちは神が光の中にいますのと同じように、わたしたちも光の中にいるだろう。しかし『いつ』わたしたちは、そのような人になるのだろうか?

人の観念では、変化するのは人の死ぬ時である。しかし聖書は、肉体的死が人を聖なるものに変えるとは決して言っていない。これは人の思い込みに過ぎない。聖書は、死が人を変えることができるとは言っていないのである。

もし死がクリスチャンを変化させ得るとすれば、死はまた救われていない人をも変化させるだろう。しかし死はいかなる人をも変えない。『怠け者のしもべ』(マタイ25:26)は復活してもやはり怠惰であるに違いない。『愚かな娘たち』(マタイ25:1)は復活しても愚かであるに違いない。(10人の娘のうちの賢い方の5人の娘は信者で、愚かな5人の娘は不信者だと言う人がいるが、それは違う。多少の違いはあれ、油を持っているのだから双方ともクリスチャンである。)

彼らが復活する時、その怠惰と愚かさは無くなっているだろうか?決してそのようなことはない!

もし人がこの時代において変えられなくても、新天新地において変わるとすれば、あるいはまたもし死が人に何ら変化を起こさないとすれば、いったい変化はいつ起きるのだろう?

聖書は、来たるべき時代には、やはり主の訓練があり、その訓練はわたしたちを『刈り込み、手入れ』し、(ヨハネ15:2)わたしたちをきれいにすると明らかに告げている。

 

※   神の僕(しもべ)のある者は、来たるべき時代に裁かれる

 

将来においても、神の訓練があることはあまり知られていない。聖書を挙げたいと思う。

○  ルカの福音書12:45-48

「もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い、男女の召し使いたちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、そのしもべの主人は予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与えます。主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。」

さて、ここに出てくるしもべはクリスチャンであろうか、救われている人であろうか?

このしもべは確実に救われた人である。なぜなら、先ず新約聖書では、神はご自分のものではない人を、決してご自分のしもべと見なさないから。旧約から新約の時代に移行すると、人は、はじめはしもべ(奴隷)だったが、次いで息子となる。したがって旧約聖書には多くの救われていない僕(しもべ)がいる。しかし新約聖書では、順序はその逆となる。もし人が神の子でないなら、神のしもべとなる資格はない。神のしもべはすべて、新約では『神の子』である。そういうわけで、前述したルカ12:45-48で言われているしもべは、明らかに救われている人に違いない。

さらに、『しもべ』が救われている人であることを示す証拠がある。

その証拠は上記のみことばのすぐ前、ルカ12:42-44である。

○  ルカ12:42-44

「主は言われた。『では、主人によって、その家の召し使いたちの上に任命され、食事時(どき)には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。」

さて、上記の箇所の『むちでひどく打たれる』しもべと、この箇所の『主人が全財産を任せると主人に褒(ほ)められている幸いなしもべ』とは、いったい同一人物であろうか?それとも別なしもべが存在するのであろうか?答えは同一人物である。つまり、同じしもべでも、

良いしもべがおり、また悪いしもべもあり得ると主は語っておられる。

2種類の人がいるようにみえるこのしもべは2つの異なる心を持っている。もし、一方のしもべが家の主人の命令に忠実であり、時に応じて定めの食事を家の者に準備しておれば、主人はそのしもべに報いて、主人の全財産を管理させるだろう。しかし、しもべが『主人の帰りが遅いのだから、わたしは自分の好き放題ができる』と心の中で思い、男女の召し使いたちを打ち叩(たた)くとすれば、主人は帰ってきて、しもべのその罪を裁くだろう。以上から、救われた人つまりクリスチャンは、良いしもべと悪いしもべの両方になり得ることを知るのである。

もし信徒が、不幸にして悪いしもべになったとすれば、その人の最後は前記のみことばルカ12:46にあるとおり、「そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与え」る。

ところで、「思いがけない日、気がつかない時、」とは、いつのことを指すのか?それは疑いもなく、主の再臨の時に違いない。ここに、来たるべき時代、つまり将来においても、クリスチャンは懲らしめを受ける聖書の根拠がある。

 

                 ーーー  つづく

 

              2024.6.9

       次回 ‥   2024.6.19      特稿『ある年長のクリスチャンとの交わり』

 

 

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