◎  ご質問に答えて  ーー  (一)

 

blog NO.279号の途中から、iPadの中で著名な説教者が「死んだクリスチャンは天にいるし、これから死ぬクリスチャンも召天、つまり天へ行く」と講演しているのを見て、筆者はそうではないということをNO. 279号途中からNO.280, NO.281 を使って書いた。それに対するコメント、コメントというよりは質問あるいは反論が寄せられたので、そしてそれはもっともな質問であり、真摯(しんし)な反論であるので、またまた予定稿を中断してお答えしなければならなくなった。

 

◎  質問(反論)は[引越説]に関するものである。引越説とは筆者が名付けたのであるが大分前NO.129号に書いたとおり、「主が昇天された時、よみのパラダイスにいた信者(ルカ16章の乞食ラザロ)もいっしょに天へ連れて行った。したがってクリスチャンは現在天にいる。よみは空っぽ。これから死ぬ信徒も召天、つまり天へ行く」という説。

 

さて、どうしてもクリスチャンは天にいると「思い込」みたい人の質問(反論)

 

Q  ーー ①

確かに聖書に「ダビデは天に上ったのではありません」(使徒の働き2:34)とあるし、黙示録6:9−11に「 …  殺された者たちのたましいが祭壇の下にいるのを見た」とあります。しかしエペソ人への手紙4:8には「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行った」とあります。彼とは主イエスであり、捕虜とはサタンにとりこにされていた者、つまり亡くなったクリスチャンではないでしょうか?したがってクリスチャンは今日よみにはおらず、天にいるのではないでしょうか?

 

A  ーー 

上記の質問(反論)は予期していたものである。

有名な聖書学者スコフィールド(The Scofield Reference Bible)もそのように述べている。スコフィールドはルカの福音書16:23のよみに関して次のように述べている。「キリストが昇天する前のよみは2部分に分かれており、救われたクリスチャンは、アブラハムの懐すなわち慰めの場所(パラダイス)と呼ばれる所へ行き、救われなかったクリスチャン(不信者)は、今日に至るもなお苦痛の場所で終末の裁きの日を待っている。前者は貧しい人ラザロであり、後者は金持ちだった人である。ところが、救われた人すなわちアブラハムの懐にいた人(ルカ16:23)はキリストが昇天した後、よみの楽園から移動し、主イエスといっしょに天国へ行った。したがって楽園すなわちパラダイスは、今日天の神の所にある。今日は教会時代であるから、救われて亡くなったクリスチャンは、肉体を離れて主と共にいる。つまり天の楽園の中にいる。」

さて、この説は正確と言えるであろうか?はたしてクリスチャンはよみから第三の天へ本当に引越したと言えるであろうか?

さて、またしてもギリシャ語に詳しい先生によると、エペソ4:8の「主イエスはいと高き所に上ったとき、捕虜(ほりょ)を連れ行き」のこの部分は翻訳上、非常に難しい所だという。この箇所は「主は敵の虜(とりこ)にする力をやっつけた」という意味であるという。悪魔サタンは、ずっと人を捕虜にしてきた。サタンには人を捕える力がある。サタンのその捕虜にする力とはいったい何であろうか?それは言い換えれば「死の権勢」である。サタンは死の力を持っており、これをもって人を虜にしてきた。主イエスが復活し昇天した時、サタンのこの「死の力」を無力にしてしまわれた。主イエスはサタンの、人を虜(とりこ)にし続けてきた力を奪い取ってしまわれた。これがエペソ4:8の真意である。したがってクリスチャンをよみから天へ連れて行ったという解釈には無理がある。

 

Q  ーー ②

よみのパラダイスが、もし引越したのでなければ、どうして第三の天が有り得るでしょうか?主イエスが死なれた時、パラダイスは確かによみにありました。しかし、第2コリント12章のパラダイスは第三の天にあると書いてありますから、パラダイスはよみから天へ引越したことになりませんか?

 

これもまた予期していたして(反論)である。そしてこの反論は引越し説を主張する人たちが最も有力な根拠としているところであるから、詳細に説明しなければならないと思う。

 

第2コリント12:1「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。」

上記にあるとおり、第2コリント12章のテーマは楽園(パラダイス)にあるのではなく、また天国(または天)に関して述べようとしているでもなく、主の幻と啓示についてである。第2コリント12:2-4「私はキリストにある1人の人を知っています。この人は14年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのかそれも知りません。神がご存じです。私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。彼はパラダイスに引き上げられて、…  」

上記のご質問は「もし引越したのでなければ、第三の天が有るわけがないではないか?」という。

第2コリント12:2のキリストにある1人の人とか彼とは、言うまでもなくこの書を書いた使徒パウロ自身である。

さて、解説に入る前に注目したいのは、なぜパウロは同じことを2度繰り返して言っているのであろうか。すなわち第2コリント12:2で「肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか知りません」と言い、次の節でも「肉体のままであったのか肉体を離れてであったのか知りません」と2回くり返している。これはなぜであろうか?

その理由は日本語や中国語訳の聖書では判然としないが、英語訳では第2コリント12:3の頭にAndがついている。ギリシャ語に詳しい先生によると、英訳のこのAndはギリシャ語訳聖書にも付いていて、それは「且つ」と訳せるという。この「なお且つ」があると無いとでは文脈がガラっと変わる。このAnd(且つ)があると、使徒パウロがなぜ同じことを2回言ったかが解明する。つまりこの第2コリント12:2節と3節の文脈はこうなる。第2コリント12:2-3「私はこの人が第三の天にまで引き上げられ、なお且つ彼がパラダイスに引き上げられて、」となる。つまり、「第三の天」と「パラダイス」とは別な場所ということになるのである。すなわち「第三の天」は第三の天「パラダイス」はパラダイスであり、この人は2つの場所へ連れて行かれたのである。さらに注目しなければならない言葉がある。それは「引き上げられ」という言葉である。「引き上げられ」というと下から上へ、つまり天へ行ったと思ってしまうが、この「引き上げられ」という文字は「連れて行かれ」とも訳せる。英語訳聖書はここをwas caught awayあるいはsnatch toと訳しており、(和英対照新共同訳他)必ずしも下から上へ、つまり天へというイメージはない。

そのほか多くの訳本を見ると、第2コリント12:2節3節の「肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません」の箇所をかっこでくくっている。そのかっこの中の句を抜いて読むと、こうなる。第2コリント12:2-4「この人は14年前に第三の天へ連れて行かれました。なお且つこの人はパラダイスへも連れて行かれました。」とこうなる。こうして読めば、第三の天イコールパラダイスという思い込みは消えるであろう。

 

宇宙には3つの場所がある。すなわち天上、地上、地の下である。天上とは第三の天、地上とは現在私たちがいる所、地の下とは死んだ人間の霊魂が行く所である。宇宙の中の神と人との物語は、みなこの3つの場所で発生する。ピリピ人への手紙2:9-11にこうある。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それはイエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が[イエス・キリストは主です]と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

神は使徒パウロに最高の啓示を与え、彼が神と人との間のすべての事を理解させようとした。したがってパウロは地上の事については熟知していた。そこで神は彼に第三の天と地の下のパラダイスの事を見せようとされた。神は彼に完全な啓示を与え、彼をまず第三の天へ上らせてそこを見せ、次いで彼を地の下のパラダイスの中を見せたのである。そこでパウロはこう言った。「この人(つまり自分)は第三の天へ連れて行かれ、なお且つこの人はよみのパラダイスへも連れて行かれ、『言い表わすこともできない、人間が語ることも許されないことば』(第2コリント12:4)を聞いた。パウロは言うまでもなく地上の人である。しかし彼は天上にも行き、地の下のパラダイスへも行った。そこで彼が得た啓示というものは、とてつもなく偉大なものであった。そこでパウロは自戒しながらこう言っている。「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように1つのとげを与えられました。」(第2コリント12:7)さらに彼はこの啓示を受けたことを14年間、誰にも話さなかったし、自分のことを「ある人」と言って、他の人であるかのように気を使って語っている。(第2コリント12:2)

○  結論

第三の天は天上にあり、パラダイスは地の下に存在する。したがって主イエスが昇天後、地下の(よみの)パラダイスは決して天上へ引越してはおらず、依然として地の下に存在している。したがって、すでに死去したクリスチャンは、今日も依然としてよみのパラダイスで

慰めを受けながら主イエスの再来を待っている。

                     ーー  つづく

* 筆者所感 ‥

[思い込み]というものはいったん頭に入ったら、それはこびりついてなかなか離れない。若い頃、私は父と何かの会話の中で、江戸時代のある武人の漢詩の1節に「人間(じんかん)至る所青山在り」というのがあると私が言うと、酩酊ぎみの父は猛然と反発して言った。「おまえは大学を出ていながら読みを間違えている。人間(じんかん)だと? 人間(にんげん)と読む。オレは昔、漢文の先生にそう教わった。」と頑(がん)として譲らない。説得するのにひと苦労した。幸い物静かな客人が父の隣におり、たしなめてくださったのでようやく落ち着いた。(なお、青山(せいざん)とは人間が死んで骨を埋める土地)

尊敬する牧師や教師などに聞いた聖書の解釈は盲信してしまう。イエス・キリストは馬小屋に生まれたと今だに信じている人が多い。韓国の著名な伝道者でさえそのように説教しているし、18世紀頃の讃美歌の歌詞にもそのように書いてある。(blog NO.167参照)

 

                2024.2.20

        (次回 ‥   2024.3.1[ご質問に答えて ーー (ニ)])

 

 

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