◎ [3で1の神]のつづき

 

第1テモテ6:16に「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、だれひとり見たことがなく、見ることもできない方。」とある。この神が「子」の形態となり、人に臨まれた時、元々見えない「父」が「子」によって明らかに現された。しかし父なる神が人の中に入り、命となるためには、なお死、復活、昇天し、さらに命を与える霊と成るという過程を経なければならなかった。一面、人の消極的な難点すなわち人の罪の行為、罪の性質、そしてサタンと肉の情欲等を解決し、もう一面積極的に神ご自身の栄光の命を解放してこそ、この命を増大することができる。「3で1の神」が「その霊(THE SPIRIT )」の形態をもって信徒の中に入ってきた時、「聖霊」が信徒の中にあるだけでなく、「み子」も中にある。(○ エペソ1:13「… あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」○ 第2コリント13:5「… 自分のうちにイエス・キリストがおられることを自覚しないのですか。」○ コロサイ1:27「… あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」さらに「父」も中におられる。○ ヨハネ17:21「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、…」これはちょうど家庭に流れる電気のヒューズが切れると、電気器具が使用できなくなる。しかしヒューズが繋(つな)がると(つまり贖いのみわざ、福音を受け入れるならば、)スイッチがONになり、電気が通り、電気は明るく灯(とも)るし、扇風機が回転を始めるのと同様である。すなわち聖霊が人の中に入り、人を再生させ、人の命となり、人の内容となる。家庭内の電気品は通電によって電力が電気器具の中に入って作動するとき、電流が通り、電力がその中にあり、電圧もその中にある。

ある日、福音を聞いて感動し、悔い改めてキリストを信じ、心を開いて神に向かった時、真理の聖霊がその人の中に入りこみ、それまで死んでいてその効用を失っていた霊が復活して正常な働きをするようになる。さらに神の霊が人の霊を活かしただけでなく、聖霊も信じる者の中に入り、聖書にあるとおり、「霊から生まれるのである。(○ ヨハネの福音書3:6「肉によって生まれた者は肉です。み霊(たま)よって生まれた者は霊です。」)

○ 第1ペテロ1:3「新しく生まれさせ…  」

○ 第1ヨハネ5:1「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。」

○ ヨハネの福音書3:16「み子を信じる者は1人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」

「聖霊」があなたの中にいるだけでなく、「子」と「父」もあなたの中にいる。ちょうどヒューズが新しくなれば、スイッチをONにすると直ちに電気が通り、全ての電気器具が正常な働きを始めるのと同様である。

このたとえの中で絶対的に異なる点は、スイッチがOFFになった時に電気器具の中の電気は直ちに消失するが、わたしたちの神は、信徒の中に入ったからには、永遠に信徒の中から離れることはなく、聖霊は永遠に信徒の中に同在する したがって神を信ずる人は「永遠の命」を持つ。なぜなら唯いつ神ご自身こそ「永遠の命」であるから。

前述した電気のたとえは、わたしたちが「3で1の神」を理解する上で幾分は役に立つものではあるが、限界がある。しかし、神は偉大であり、奥深い方! 十分に適切なたとえは1つとして無いであろう。いと小さな人間が神を明確に解釈説明するのは永遠に不可能であろう。そこで以下に聖書の中から「3で1の神」(俗に三位一体)に関わる聖書の箇所を示すことにした。願わくは真理の霊が神という奥義を神自ら読者へ啓示してくださいますように!

 

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(一)  唯一の神ではあるが、「父」、「子」、「聖霊」とも呼ばれる理由について

 

○  創世記1:1

「はじめに神が天と地を創造された。」

この1節の中にすでに神はお1人であるが、多数の格位を持っていることが暗示されている。すなわち「はじめに神」の神は複数の名詞であるが「創造」は単数の動詞である。続いて創世記1:26にもこうある。「神は仰(おお)せられた。」の神は複数形であるのに、次の「さあ、人をわれわれのかたちとして」の形は単数である。この節の中にも神を複数形である「われわれ」としながら、続く「形」を単数形としている。ここからも神は複数であると同時に「1」であることを暗示している。

○  イザヤ書6:8「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」神は一面ご自分のことを「わたし」と呼び、別の一面でご自分のことを「われわれ」と呼んでいる。ここに単数でもあり複数でもある神を見ることができる。

さらに旧約にも新約にも3つの「…  れますように。」がある。

旧約では民数記6:24−26  ①「主が…  あなたを守られますように。」②「主が…  恵まれますように。」③ 「主が…  平安を与えられますように。」

新約では、マタイ6:9−10  ①「父よ。… されますように」②「…  来ますように」③「…  行われますように」 また、旧約にも新約にも、3回「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」と出てくる。○ イザヤ書6:3, ○  黙示録4:8「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。」

聖なる、とは誰であろうか?神ご自身だけが聖である。神以外皆聖ではない。であるから聖書の中で、神に帰属するものはすべて「聖別」という言葉が使われている。(たとえば第2歴代誌5:1)また出エジプト記29:36では「聖なるものとなる」という言葉が使われている。

ではなぜ「… れますように」とか「聖なる」という言葉が、2個でもなく4個でもなく3回使われているのであろうか?

ここに秘(ひそ)かに単数にして複数、3で1の神が述べられている。先述した民数記6章の3つの祝福とマタイ6章の3つの祈りは相対しているのである。

マタイの福音書28:19まで来るとさらにはっきりと明言されている。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け…  」主イエスはここで明確に「父、子、聖霊」の3者を語っている。しかし「名」という文字は複数ではなく、単数なのである。

 

                  ーー つづく

 

             2024.2.10

 

    (次回 ‥   2024.2.20[ご質問(反論)に答えて])

 

 

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