◎  ユダヤ民族に関する預言(ニ) のつづき 

 

エレミヤの預言が発せられてからまもなく、およそ606年B.C頃、カルデア人の王(すなわちバビロン王ネブカドネツアル)はエルサレムへ上ってユダヤ人を攻撃し、彼らが宮殿の中で使う刀で若者をはじめ老若男女を情け容赦もなく皆殺しにした。カルデア王は神殿の中の大小の食器や財宝、さらに王と首領たちの財宝をことごとくバビロンへ持ち去った。カルデア人はまたエルサレムの城壁を破壊し、宮殿を焼き、市内の貴重な食器類を破壊した。カルデアの王は、生き残った者を皆彼らの子孫の奴隷とし、それはペルシャ国が起こるまで絶えることはなかった。

 

⑤ ダニエルが見た「70週の7」の預言

 

まず、70週の7の中のどの「7」も7年を現す。

ダニエルは70週の7を2部分に分けた。つまり、7×7=49と62×7=434(ダニエル9:25)、合計483年を前半とし、7を後半部分とした。つまりこれで70×7=490年となる。前半部分と後半部分には空隙(くうげき)時期があるが、その時期が、どれほどであるかは誰にもわからない。なぜなら預言の中には何も明らかにしていないからである。しかし、聖書のその他の記録の中からそれを推察でき、後半部分の「7」は世界の末期、つまり主の再臨の前に発生する事を指して言っている。

○  世界の末期の預言は後に預言⑥から⑨ 再臨のところで詳述しようと思っている。

NO.263号の「聖書は神と神の選民との間に立てられた契約である」の中で、すでに述べたように旧約聖書から次のことを見い出すことができる。すなわち、ユダヤ人の間には1つの思想、1つの望み、1つの約束がある。それは将来、1人の受膏者(油注がれた者) 、すなわちメシヤが到来して万物を復興させる。イスラエルも復興し、万民(世界中の人々)は皆、神に帰するというものであった。以前にも述べたようにメシヤとはヘブル語の訳音であり、ギリシャ語の訳音ではキリストである。ところがユダヤ人は神の約束に対して正確に理解していなかった。彼らユダヤ人は神のみ心と神の贖いのご計画に対して無知であった。彼らは、ひとたびメシヤが来るなら、丁度、昔モーセやヨシュアのように、イスラエル人を率いて敵を打ち負かし、イスラエル国を復興するものと考えていた。この潜在的な誤った先入観念は彼らを困惑させ、神が肉体を取って地上に来られた時、彼らは、主イエスこそ彼らが歴代以来待望して来たメシヤその人であること、また主イエスご自身が自分こそ神のみ子キリスト(すなわちメシヤであり、ダニエルが預言していた受膏者、油注がれた者)であることを認識することができなかった。その結果、ユダヤ人は主イエスをローマの総督ピラトの手に渡し、主イエスを十字架に磔(はりつけ)にしてしまった。ところが、これらすべての事は神の主宰下にあり、神の贖いのみわざを完成させ、且つ預言者たちの預言を成就する結果となったのである。

 

ダニエルは預言して言った。「エルサレムを再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが7週。そして苦しみの期間である62週の間に、広場と堀が造り直される。その62週の後、油注がれた者は断たれる。」ー ダニエル書9:25

その後、ペルシャの国王がおよそ454年−457年B.Cの間にユダヤ人がエルサレムを再建し、約束された油注がれた者(すなわちメシヤ)が来ることも許可した。ところがそのメシヤであるイエス・キリストは、およそ26年ー29年B.C頃十字架に磔(はりつけ)にされてしまった。( 註‥ 現在、全世界各国が公認し、採用しているのはキリストの年号である。紀元前を「B.C」と標記するが、

これはBefore Christ 「キリスト誕生以前」という意味であり、紀元という年号を「A.D」と書くが、これはギリシャ語のANNO DOMINIを簡略したものであり、「われらの主の年」という意味である。つまりキリストの誕生以後、この世界はもはやいかなる君主にも属さず、主キリストが統治する時代であるというわけである。したがってキリストの誕生の年が紀元(A.D) 1年となる。

紀元の年号は、1人の修道士が533年A.D頃に設定した。この年号は紀元後、全世界各国によって公認され、あまねく採用されるようになった。しかし、この年号が採用されてかなりの年月を経た後、当初制定した時に、ある事実が計算違いによって誤りであることが発見された。キリストが誕生した年代は実際には紀元1年よりも4年から7年ほど早いはずである。

しかしこの誤りが発見された時、紀元の年号が施行されて、すでに久しく経っていたので、プロテスタントの中に大きな混乱が起こるのを避けるために、やむなくこの年号をそのまま使用して来た。)

ペルシャ王キュロスがエルサレムの再建を命令してからメシヤ(すなわちイエス・キリスト)が十字架上で殺されるまで丁度7×7+62×7で合計483年、預言者ダニエルの預言がこのようにして不思議に成就した。

○  残りの7年については後日、預言の他の部分と一緒に説明したいと思う。

⑦  エルサレムの宮殿は数回の戦禍を経て、破壊された後再建された。最後の1回は主イエスが誕生する前、ユダヤの地の領主であったヘロデがユダヤ人の機嫌(きげん)をとるために宮殿の再建に取りかかった。それは実に46年の歳月をかけて完成した。(ヨハネの福音書2:20) 建築の工程は広大で華美であり、その費用たるや莫大であった。ユダヤ人はこれを自慢する余り、本筋である宮殿の真正な実際であるキリストを拒絶し、かえって神に対して大きな罪を犯してしまった。彼らが宮殿の石や装飾の美を談ずる時、主イエスは預言して言った。「この宮のどの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」(マタイ24:2)  A.D70年、ローマの皇太子タイタス(テトウス)が率(ひき)いてエルサレムに進攻し、ユダヤ人約200万人を殺害し、さらに火を放って宮殿を焼き滅ぼしてしまった。その結果、宮殿内の金の器が大火の高温で溶(と)けて流れ出し、石と石の隙間に入り込んだ。ローマ軍の兵隊は、その金(きん)を得るために全ての石をこじ開けた。かくして先に述べたマタイ24:2の「この宮のどの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」の預言が成就したのである。(兵士はみな貧しい。金(きん)は彼らの貴重な収入源であった。)

ユダヤの地が預言者の預言どおり、絶えず戦災に遭(あ)い、剣(つるぎ)が彼らを離れなかったとしても、しかし、もしもその他の原因がなければ、ユダヤ人は完全に故国故郷を離れ、その結果、彼らの地が荒れ果てて荒涼となることもなかったであろう。戦災は暫時一定の時間を避けた後故郷へ帰ることができる。主要な原因は70年A.Dにエルサレムがローマに滅ぼされた後、ユダヤの地は呪(のろ)われ、1917年A.Dの間、それから70年を引いて1847年の間、秋の雨も春の雨も全く降らず、もともと肥沃(ひよく)であったその地は、完全に渇水して人間が生存できなくなり、世界でも著名な廃墟となってしまった。ユダヤ人は自然災害の上、更に戦災に見舞われ、やむなく世界の各地へ散ることとなった。かくしてレビ記やエレミヤ書に預言されている「わたしはその地を荒れ地にする」とか、「その全地は荒涼となり、人々は驚くであろう。」などの預言が成就したのである。

 

                    ーー  つづく

 

                         2023.11.12

        (次回‥  ユダヤ民族に関する預言 ーー (三) )

 

 

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