◎  教会の立場

 

※「聖書とは何であるか」の途中であるが、blog NO.264[「宇宙教会とは何か?ーー友人の手紙に応えて」]の反響が大きかったことを鑑み、多くのクリスチャンが無視し、厭(いと)い、嫌(いや)がり、反発し、反論してやまない表題のテーマに[挑戦]しようと思った。また今こそどうしてもこれを書かなければならないと思ってペンを取った。

 

上述したように「教会の立場」は、今日多くのクリスチャンが口にしたくないテーマである。10数年前、私の妻がある所で数名の姉妹たちと何か交わっている所へ隣家のクリスチャンである20代の姉妹がその姉妹が通っているいわゆる一般的教会の牧師を連れて来た。まだ若い40代のまじめそうな男性であったという。妻はその牧師に「教会の立場」について熱っぽく語ると、その牧師は真剣に耳を傾け、「そうです。ほんとうにそのとおりです。しかし…その実行が…実行が困難なのです。」と言って、丁度あの「富める青年」のように首をかしげながら帰ったという。そのわずか数日後のことであった。隣家のその牧師を連れてきた若い姉妹が血相を変えてわが家に来て、あの牧師が突然死亡したと告げた。特に持病があるわけでなく、その死因は全く不明であるという。

 

さて、聖書の中に「教会の立場」という言葉は無い。そこで多くのクリスチャンは、聖書の中に「立場」という言葉や明文がないのだから「教会の立場」というものは根本的に存在しないと言う。しかし、聖書の中に立場という言葉は無いが、聖書の記載の中から「立場」という確かな事実を読み出すことができるのである。特に中国人のウォッチマン・ニー兄弟(1903-1972)は聖書の中から教会の立場の事実を読み出し、教会が非常に混乱している状況を見、意を決して聖書の中から教会を実行する道を探し出し、「教会の立場」というこの事実を読み出した。また彼は自分が見たこの光を解き放ち、長年に渡って多くの信徒を助け、懸命にこの教会の立場の道を歩き、その結果神の溢れるばかりの祝福に浴した。

しかし近年、この「教会の立場」という真実は次第に信徒によって軽視され、更には面倒なことを引き起こさないために、この問題に関してはいっそのことこのことに触れまいという風潮が支配的になってしまった。

今日このような言い方が流行している。すなわち「キリストが教会の土台(基)であるのだからキリストを語ればそれで十分である。なぜさらに教会の立場などを語る必要があるだろうか?」

いかにもキリストは教会の基(もとい)であり、これは絶対に正確である。しかし教会に基(基礎、土台)

があるからには、教会は建造される必要がある。ではその基はどこに立てるべきであろうか?もしも1軒の家を建てようとするならば、まずそれに合う土地を求めなければならない。家の基はその土地の範囲内にしか建てられない。この土地こそがすなわち「立場」なのである。

旧約時代イスラエル人は神のために神殿を造ろうとしたとき、彼らは自分たちの思いのままに勝手に造ることはできなかった。彼らは必ず神の定めたエルサレム、すなわち神がダビデに現われたモリヤ山の上に建てなければならなかった。

○  申命記12:5「ただ、あなたがたの神、主がご自分の住まいとしてみ名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。」

○  第1歴代誌23:25「ダビデがこう言ったからである。[イスラエルの神、主は、御民に安息を与え、とこしえまでもエルサレムに住まわれる。]」

○  第2歴代誌3:1「ソロモンは、エルサレムのモリヤの山で主の宮の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自分を現され、ダビデが準備していた場所である。」

教会の建造もかくの如しであって、必ず1つの場所が必須なのであり、主が命じた所に建造されなければならない。それはキリストの合一の証しのためである。

わたしたちの神は「1 」である。したがって神の教会も「1 」であらねばならない。教会の立場の中心的な目的は、ひとえに合一のためであり、栄光なるキリストの証しのために他ならない。

さて、教会の立場には2つの基本的な条件がある。それを述べたいと思う。

 

①  聖霊の権威

 

まず、教会の誕生は完全に聖霊によるものである。

教会はユダヤの地エルサレムで生まれたが、それは五旬節(ごじゅんせつ)の日の聖霊の圧倒的な満たしによるものであった。

○  使徒の働き2:1-4「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現われ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊(みたま)が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」

続いて教会が異邦の地(イスラエル以外の地方)に誕生した時も同様であった。(使徒の働き11:15) したがって教会誕生の源は聖霊である。人自身は教会を生み出すことはできない。人は慈善機関や孤児院や神学校を開設することはできるが、しかし、人は決して教会を開設することはできない。聖霊が教会の中で絶対的主権を取らなければならない。

使徒の働き5章に次のような記録がある。

アナニアは自分の地所を売って、その代金の1部を自分のために取っておき、残りのお金を持って来て使徒の足もとに置いた。その時、ペテロは「なぜわれわれ使徒を欺いたのか?」とは言わずに、「なぜ聖霊を欺いたのか?」と言っている。ここから聖霊こそが教会の主人であることを見出すことができる。続いてアナニアの妻が入って来て同様にペテロを欺いた時、ペテロはやはりこう言っている。「なぜあなたがたは心を合わせて主の御霊(みたま)を試みたのか?」(使徒5:3,9)

主は死んだが復活し、天に上げられた後、聖霊を教会にもたらした。(「最後のアダム(すなわちキリスト)は命を与える霊となった」 ー第1コリント15:45、口語訳) 以後聖霊が教会を司り、教会が主の証しとなり、父なる神に栄光を帰すようになった。聖霊の権威こそが教会が教会である立場であり、教会は聖霊の出口である。人は誰であれ、教会の権威となることはできない。(辞書でカトリックの教皇を引くと、キリストの代理人と書いてあるが、これは間違っている。)

 

②  教会の地上における境界(範囲)

 

NO.264にも書いたとおり、宇宙の中には、ただ1つの教会がある。なぜなら神はただお1人であり、キリストもお1人、聖霊もお1人である。教会とはキリストのからだであり、キリストはただお1人であるのだから、キリストはただ1 つのからだを持つ。したがって教会もただ1 つであり、宇宙の中には古今東西、ただ1つの教会が有るのみである。しかし実行上、教会は地上に出現し、その場合1つの地方(1つの都市) に1つの教会の形をとる。聖書の中に出てくる全ての教会には、別の名称を読み出すことはできず、その教会が存在している地方すなわち都市の名称だけである。1つの都市に2つ以上の教会を見い出すことはできない。エペソにはただ1つの教会しか無かったし、スミルナにもただ1つの教会しか無かった。エペソもスミルナも都市であった。ガラテヤは当時の1つの省(日本でいえば県、郡)であり、その中には多くの都市が有った。そこで聖書はガラテヤの諸教会といっている。(ガラテヤ1:2) わたしたちは1つの都市に1つの教会の証しを確立しなければならない。わたしたちは人にバプテスマ(俗にいう洗礼、洗礼という語は聖書には無い。)をしたといってもわたしたちは決してバプテスト教会ではない。バプテスマの真理がわたしたちの立場ではない。わたしたちはローマ10:4から「義は信じる

者すべてに与えられる」と伝道したからといってルーテル教会ではない。わたしたちが福音を伝えたからといって伝道団とか宣教会とか福音館になるわけではない。どんな教理も教会の立場となる根拠とはならない。ただ都市の境界(範囲)だけが、教会の唯一真正な立場なのである。

わたしたちは1つの地(自治行政が独立している各市町村)の上で多くの学課を学ばなければならない。もし2人の兄弟が一緒にいることができない場合、互いに愛し合わなければならない。(これはその教会が唯一、地方のみを立場としている場合であって、人物や他の諸教理を立場としている場合はこれに当たらない。)

また、A兄弟がこの通りで集会を持ち、B兄弟が彼と合わなくて別の通りで○○教会と名乗って集会を持った場合、直ちに合一の証しは失われてしまうであろう。よって、地方の境界(範囲)は教会の合一を守る唯一の道なのである。しかし、注意すべきことは、この「教会の立場」を専売特許にして、自分たちと合わない他の信徒を排除してはならない。1つの教会がもし地方の立場に立つならば、すべての真実に救われている信徒を皆受け入れなければならない。またその中で聖霊が主権を取ることを学び、互いに愛し合い、主の命の中で相互に供給し合うことを学ばなければならない。教会が初期の頃、多くの信徒間に紛争があった。ある者はパウロにつくと言い、ある者はアポロにつくと言い、ある者はキリストにつくと言い合った。おそらく互いの見解が違い、実行の上でも相違があったのであろう。しかし結局、彼らは依然として1つのコリントにある教会であった。(第1コリント1:11-12)

※  聖書の原則は、教会の主権者は絶対に聖霊であること、地方(すなわち、市町村)を教会の境界(範囲)とすることである。聖書の最後の書である黙示録は、聖霊の権威及び地方の境界の2つを原則としている。(黙示録2,3章)

 

※ 「教会の立場」は実は、blogNO. 184からNO. 199まで連続して詳述している。今号はそれのダイジェスト。

  

                  2023.10.13

           (次回‥  2023.10.23[ユダヤ民族に関する預言(一) ])

 

 

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