◎  聖書とは何であるか   ーー  つづき

 

(三)  聖書は神が啓示したものであり、神が私たちに向かって語られた言葉の証明である

 

聖書が神の啓示であるからには、その中には必ず神の成分、神の内容、神の味わいが含まれていなければならない。またあらゆる宗教倫理道徳の水準を超越し、神の大能を現し、時間空間の制限を受けず、さらには種族や国籍の制限を受けず、一切の奥義を明らかにし、一切の答えを出すものでなければならない。さらに聖書が語ることを信ずる全ての人を救い、神の完璧な救いへ導き入れるものでなくてはならない。

 

※ (1)  聖書の超越性と完全性が神の言葉であることとを証明する

 

①  聖書の道徳水準はあらゆる宗教や道徳の水準を超越する

 

中国の孔子や孟子の書籍の中に書かれている道徳は、極めて高い水準のものであることは世人が公認するものである。しかしそれと聖書を比較するならば、それは立ち後れ、足元にも及ばない。

孔子はこう言う「無礼にして見る勿(なか)れ、無礼にして聴く勿れ、無礼にして言う勿れ」、しかし聖書はこう言う「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのである。」(マタイ5:28) これは外側の行動の表現であるだけでなく、内面の本質の問題である。

また、孔子は言う「自分が望まないことを人にしてはならない」これは一種の人としての作法であり、相互に不可侵を維持するもので、自分を守る処世訓に過ぎない。しかし、主イエスは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ19:19)と言われる。これは一種の積極的な処世訓である。

 

②  聖書の内容は完全であり、いかなる宗教の経典の内容を超越する

 

聖書と一般の宗教の経典とは、完全に異なるものである。一般の宗教の経典は人の由来を語っていないし、人生の意義や将来の結末を語っていない。一般の宗教の経典は人としての道理を語るが、人がそれを行うべき道を告げる方法を知らないし、その道理を行う力を供給することができない。宗教は要求するばかりで、供給が無いので人を救うことができない。

しかし聖書は言う。

真の神とはいったい誰であるか。神はいったいどのようなお方であるのか。神のみこころとはいったい何であるのか。神のご計画と経綸とはいったいどのようなものであるのか。

聖書はまた人に語っている。

宇宙の由来(源)、神の創造、サタンの由来(源)、サタンの反逆と破壊、神はどのようにしてサタンに破壊されたこの地球を新しく造り直すおつもりなのか。どのようにして生物を創造し、また人を創造されるのか。神はなぜ万物の中から人を選択し、恩恵を受けさせる対象としたのか。神はいかにして人の命を造ろうと考えられ、人に人生の真の意義を得させようと考えられたのか。

一方、サタンがどのようにして人を欺きまた惑わし、神のみ心から引き離して、堕落させ、罪を犯させ、悪い者となり、悪魔の支配に下って労苦することになったのか、そして神はどのようにしてその人を暗闇の権勢から離脱させ、神に向かわせたか。神はどのようにして人と成り、自ら種々の過程を経て、贖いの業(わざ)を成し遂げたか。

新約聖書は語っている。人はいかにして悔い改めてキリストを信じ、信仰によって義とされ、神によって新しく生まれ、神の子供となって神が命及び命の供給となったか。

またいかにして教会生活を過ごし、その中で命を成長させ、神の守りの中で悪魔に抵抗し、将来キリストの再来を促し、死人を復活させ、生きているクリスチャンは携挙されて信徒の体は贖われ、朽ちることのない栄光の比類のない体に変化させられ、神の完璧な救いに与(あず)かる。

さらに勝利した主を愛するクリスチャンが、いかにして千年王国の時代に神から褒賞を受け、キリストと共に王となって権力を執(と)るか、そしてサタンとその使いたちが、サタンと彼の使者、反キリストと偽預言者及び悔い改めて神を信じない人々がどんな神の審判を受けるか、また彼らの最終の結末は何か、万物の結末は何か、救いの集大成である新エルサレム及び新天新地の状況はいかなるものであるか、等。神の子供であるクリスチャンが行くべき道筋と救いの根拠と生ける望みを語っている。

 

③  聖書は神が語っていることを明らかに語っている

 

全聖書で2000回以上「これはわたしエホバ(神の名)が言う」と書いている。神がこのように何回も言っているということは、この本聖書が神ご自身から出たものであることを証明している。世の中にあるあらゆる宗教の教典の中で、聖書以外ではコーランとモルモン経の2冊だけが「神が書いた」と述べている。しかしコーラン(イスラム教の教典)天国では多くの妻を持っても良いと記している。また妻を4人娶(めと)ることは罪ではないとしている。その教典の道徳水準は聖書と比べて非常に低いものであるばかりか、一般の正常な社会人にも及ばないものである。人が地上で犯す罪はもっと多い。その罪を天上へ持って行くというのだろうか? したがってイスラム教の教典コーランは絶対に神が書いたものではない。

ではモルモン教の教典を見てみよう。この教典の第1版の内容と第2版の内容とは大きく異なっている。大きく改修している。もし神が書かれたものなら、いいかげんに内容を変えるだろうか?そういうわけで、モルモン経は神ご自身が書いたと自称してはいるが、絶対に真実ではない。

 

                    ーー  つづく

                        2023.9.13

 

 (次回‥[※(2)聖書の預言が全て成就していることは聖書が神の言葉であることを証明する])

 

 

    集会所‥ 札幌市西区ハ軒6条東4丁目4−11