[よみがえりの神]とは何か? ーー ①    第2コリント1:9

 

◎ [よみがえりの神]を悟るためにクリスチャンは患難に遭う

 

◎  どういうわけで、人はクリスチャンになった後も、なお苦しみを受け続けなければならないのか?

 

クリスチャンになった者、すなわち救われた者は誰でも、少なくても[神は生ける神である]と証しできる経験を持っている。しかし、聖書は[よみがえりの神]を知らなければキリスト者として未熟であると言っている。

また、「聖霊の管理」の学課(blogNO.217−218)を学ばなければ、クリスチャンの外なる人は砕かれず、救われる以前の天然の人のままである。

では、[よみがえりの神]とはいったい何であろうか?

よみがえりの神という語をはじめて使ったのは、使徒パウロである。第2コリント1:8−9 ーー「兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生ける望みさえ失うほどでした。実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、[死者をよみがえらせてくださる神]に頼る者となるためだったのです。」

さて、神が人の姿をとられたことによって(つまり、イエス・キリストが生まれたことによって)宇宙に重大な区分がもたらされた。受肉以前(つまりイエス・キリストが生まれる前)には、神は神であり、人は人であった。神には人の要素がなく、人には神の要素が少しもなかった。神と人とは全くかけ離れていた。しかし、ある日「言葉は肉体となり」(ヨハネの福音書1: 14)、それによって宇宙の歴史は大きく区分された。それは1つの時代を終わらせ、別の時代(すなわち新約時代)を到来させた。

ところで、受肉(言葉が人となる)は奥義の半分に過ぎない。他の半分は[よみがえり]である。受肉は神が人の中に入ることであり、よみがえり(復活)は、人が神の中へ入ることである。受肉は人の中に神の内容をもたらし、よみがえりは神の中に人の内容をもたらした。受肉の後、神の要素を持った1人の人が地上にいると言うことができた。しかし、よみがえり(イエスの復活)があるまでは、[人の要素を持っている神が天におられる]と言うことはできなかった。

 

では、「生ける神」と「よみがえりの神」を区別することに重点を置くことがなぜ重要なのか?

ベツレヘムで起こったこと(つまり主イエスの誕生)は、2つの性質を持ったおかたの誕生だった。すなわち神と人とがそのひとりのおかたの中で結びついた。その時まで、アダムの裔(すえ)はただ1つの性質を持つだけだったが、それ以後は2つの性質、すなわち、人と神との性質を持ったおかたが存在するという歴史的大事実が起こったのである。主イエスは100パーセント人であり、また100パーセント神であった。このおかた、すなわちナザレのイエスは、神でもあり、人でもあって、多くの人を惑わせる原因となった。人々は互いに「このかたはいったいどんな人か?」と尋ね合った。彼らから見ればイエスが人であることは明白であった。それにもかかわらず、イエスには神の性質が余りにも多くあるので、当時の人々にとってイエスは実に難問だった。

受肉は神が人の中に入ることであり、よみがえりは人が神の中へ入ることである。さらに言えば、受肉は人の中に神の内容をもたらし、よみがえりは神の中に人の内容をもたらすことである。受肉のあと、神の要素を持った1人の人が地上にいるということができた。しかし、よみがえり(復活)があるまでは、人の要素を持っている神が天上におられるとは言えなかった。

 

では、なぜ「生ける神」と「よみがえりの神」を区別することが重要なのか?

それは、生ける神が人のために多くのみ業をなされても、生ける神の性質は人の性質と混ざり合うことができないからである。

たとえば、むかしイスラエルの民が、荒野で絶対絶命の苦境におかれたとき、生ける神は彼らのために道を開いて紅海を渡らせた。紅海を分けるということは、神が、生ける神であることを彼らに示す大奇跡であった。にもかかわらず、彼らのために神がなさったその奇跡によって、神のご性質、あるいは神の聖なるいのちが、彼らの内側に入ってきたかと言えば、神のいのちは少しも彼らの内側に入ってはこなかった。イスラエルの民は荒野でなされた他の多くの神のみ業を目の当たりにした。ー たとえば神が彼らに天からパンを与えられたことや、岩から水を流れさせたことなどである ー しかし神が、彼らのためになされたこれらの驚くべきみ業にもかかわらず、それによって神はご自身を分け与えることはなかった。

この事と対照的に、

使徒パウロは生ける神だけでなく、[よみがえりの神]をも知っていると証ししている。(第2コリント1: 9)

パウロはあまりにひどい試練に出遭ったので、生きる望みさえ失った。しかし、パウロは幾多の苦難を経験してこそ自分を死者の中からよみがえらせてくださる神を頼みとするに至った。[よみがえりの神]が彼を死からよみがえらせようと彼のために働かれたとき、その神のみ業はパウロのために何かを成し遂げたばかりか、神ご自身の性質をパウロに分け与えられたのである。

※ 第2ペテロ1:4  ーー「……  あなたがたが、欲望をもたらすこの世の腐敗を免れ、[神のご性質]にあずかる者となるためです。」

※    ヘブル人への手紙12:10  ーー「霊の父は私たちの益のために、私たちを[ご自分の聖さ]にあずからせようとして訓練されるのです。」

 

荒野でイスラエル人のためになされた奇跡は、[生ける神]のみ業であった。しかし、彼らのために多くの奇跡がなされたにもかかわらず、彼らイスラエル人の性質の中には、[神のもの]が何1つ造り込まれなかった。聖書は多くの苦難の中でパウロは[生ける神]ではなく[よみがえりの神]を知るに至ったと記録している。(第2コリント1:9)  パウロのためになされた奇跡は、よみがえりの神によってなされた。苦難や奇跡は、パウロのうちに神ご自身を新たに増し加えたのである。

私たちキリスト者はただ[生ける神]のみに興味を持っていないだろうか?[よみがえりの神]については何ら認識をしていないのではあるまいか?

次の号に、この事をわたしたちの日常生活にあてはめて述べてみようと思う。

 

                          ー ー つづく

 

            2022. 10. 8

        (次回‥2022. 10. 18[よみがえりの神とは何かー ー ②])

 

         集会所‥札幌市西区八軒6条東4丁目4ー11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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