◎  レーマ(RHEMA)と栄光の教会 ーー 張兄弟主宰の集会の内容の補充(完)

 

神のみこころにある教会と、経験の中の教会とは全く異なる。神のご計画の中の教会は、全く罪の無いものであった。それはかつて、罪というものを知らなかったし、いかなる罪の歴史も持っていなかった。罪の痕跡すらなかった。それは全く霊的で完全にキリスト[から]であった。他方、歴史上の教会は失敗し、堕落している。

今日、主は倒れた人々の間で、彼らを神の本来のみこころ通りの教会に連れ戻そうとして、働いておられる。主は倒れた、堕落した、荒廃した、罪と汚れに満ちた人々の間で、彼らの間から教会を得る為に働くことを願っておられる。神は、永遠の過去において目指された所へ、彼らを連れ戻そうとしておられる。それは永遠の未来において、神の願いを満たす者を得ようとしておられる。

神の壮大な事業において、主は教会を神の本来の目的に連れ戻すため、「道具」として彼の語られる「言葉」を使っておられる。従って私たちは主のみ言葉を軽視することはできない。私たちは知識と霊的な成長とは全く別物であることを知らなければならない。全ての教理、説教、神学また知識は、人から人へ、ただ通り過ぎているならあまり役に立たないだろう。実際の成長は私たちが神から直接み言葉を受けることに掛かっている。神は自分の働きをするために「レーマ(RHEMA)」(神の主観的な生きた言葉、時機にかなった聖書的な言葉また感覚、主イエスが2度目に人に語る言葉)を使っておられる。そして、彼は私たちが語ることを願っている。聖書の実際の価値は、神がそれらを通して人に語ることができることである。もし私たちが、主のみ手の中にあって役に立つ者でありたいと願うなら、私たちは主によって語っていただくことが不可欠である。知識と教理とは霊的には役に立たず、私たちの中での主の語りかけだけが、霊的に言って価値がある。私たちは、こう祈らなければならない。「主よ、祈ります。どうぞ私にお語りください」と。

人は知識を持つかも知れない。しかし、神の言葉が無いかも知れないのである。多くの人々は聖書の知識と教理の理解とが霊的なことのように考えている。そんなことは全くない。聖書の知識は決して霊的なことの代用品となることはできない。神の私たちへの個人的また直接的な語りかけだけが実際の価値がある。神がみ言葉を通して私たちに語りかけられる時、私たちは照らされる。み言葉を通して私たちは清められる。み言葉を通して私たちは成長させられる。私たちは何が生きており、何が死んでいるか、何が単なる知識で何が霊であるかを知らなければならない。

私たちは「レーマ」すなわち神の生ける言葉によって清められる。そのキリストの働きの目的とは、エペソ人への手紙5:27の「栄光の教会」をご自分の前に立たせる為である。「栄光の教会」とは教会が栄光にもたらせられること、言い換えれば、教会が栄光を着せられることである。エペソ4:13によれば教会は信仰の一致に到達し、ひとりの成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身の丈(たけ)にまで達する。それから教会は栄光を着せられてキリストに迎えられる。私たちは今日の教会の有り様を見るとき、「どのようにしてそんなことが有り得ようか?」と思ってしまう。しかし、主は働いておられる。ある日、教会は信仰の一致に到達するに違いない。ある日、彼女(教会)はキリストの満ち満ちた身丈(みたけ)にまで到達し、彼女は栄光を着て、キリストの前に立つだろう。(エペソ5:27)

◎聖書の言葉であるロゴス(Logos)が無用であるという意味ではなく、全ての神の「レーマ」は「ロゴス」の上に基礎づけられている。

 

 

            2022. 6. 10

        (次回‥2022. 6. 20[「安息日」とは何か?])

 

 

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