「後悔ばかりの人生」だったと
右足を切断した谷津嘉章は言う…。

今回谷津嘉章の自伝を読んで感じた事は
凄く人間臭く素直な人なんだと思った
誰もが持っている欲や傲慢を
谷津はストレートに言葉にしている



本名 谷津嘉章 

ニックネーム 荒武者・幻の金メダリスト

身長186cm 体重115kg 

誕生日1956年7月19日 

出身地 群馬県邑楽郡明和町 

スポーツ歴 レスリング 

トレーナー ヒロ・マツダ 

デビュー1980年12月29日


以前谷津嘉章が右足を切断された時に一度ブログには書いた事がありましたが今回は谷津嘉章自伝本の事を書きたいと思います

【さらば闘いの日々】
☆第1章 右足切断
2019年6月24日…谷津嘉章は右足の切断を宣告された
35歳の時に糖尿病が発覚し63歳で糖尿病の怖さと向き合うことになった
そして右足切断を宣告された翌日25日手術が決行された…
切断を宣告された翌日に切断って気持ちの整理がつかないですよね
…そして右足切断した翌日6月26日は長州力の引退試合だった。

★第2章 新日本プロレス入団
1980年10月23日…谷津嘉章は新日本プロレスに鳴り物入りで入団
レスリング出身の谷津嘉章は自信があった…夢もあった…それはプロレスはガチだと思っていたからだ…プロレスこそが【キング・オブ・スポーツ】だと信じていたから
入団当初はプロレスの世界を知らない谷津はプロレスの神様カール・ゴッチを変なオッサン呼ばわりをし周りから反感を買ったり…新日勢から陰湿な洗礼を受けたりと当時の裏話は昔ながらのプロレス体質な体験が面白いです
そしてプロレスのイロハを教えてくれたのはキラー・カーンとヒロ・マツダだったりと知らなかった貴重な話など盛り沢山です



そして最低最悪な国内デビュー戦…1981年6月24日にアントニオ猪木と組みブッチャー&ハンセン組と対戦!!大物ルーキーが華々しいデビュー戦と思いきや大流血のノーコンテストとなった試合…
本当は嫌だった維新軍入り…そして長州力との繋がりがここから始まった。

☆第3章 ジャパン、全日本、そしてSWS
1984年9月に長州力率いる維新軍が新日本プロレスを退団しジャパンプロレスと名前を変え新団体となり同年12月に全日本プロレスに乱入

1987年にジャパンプロレスは新日本へUターンをするが谷津嘉章は全日本に残った
そしてジャンボ鶴田との五輪コンビタッグ結成秘話

1990年5月14日…2代目タイガーマスクが試合中に自らマスクを脱ぎ捨て三沢光晴に戻った時の試合でマスクを脱がせる案は実は対戦相手の谷津嘉章だった
90年7月全日本プロレス退団…その理由は三沢光晴と川田利明がいたから…高校の後輩にあたる三沢と川田は谷津が居る事で上に行けないんじゃないか?と後輩の事を思い辞めた
そしてSWSへ移籍し馬場に訴えられる
トラブルだらけのSWS…そして解散を頼まれ最終的には裏切られ悪者扱いにされた谷津
1992年5月22日にプロレスを引退し…引退式でジャージを観客席に投げ入れたがそれを投げ返される屈辱を味わった…そして離婚

★第4章 モントリオール五輪アマレス代表
バイク好きだった少年時代…中2の時に柔道の団体戦のメンツが足りないと駆り出され団体戦では優勝出来なかったものなんと個人戦では優勝!格闘技センスに目覚めた瞬間だった
足利工大付属高校へ入学しレスリング部へ勧誘されここから谷津のレスリング人生が始まる
国体、インターハイと優勝しアマレスの名門・日本大学に進んだ
1976年モントリオール五輪のアマレス代表に選ばれ出場

☆第5章 モスクワ五輪ボイコット
78年世界選手権メキシコ大会でアントニオ猪木と最初の接触を果たし…この時に猪木から3000ドルの小遣いを頂きプロレス入りが脳の引き出し奥に入りプロレスという運命の足音が近づいていた
足利工業大学の大学職員になった時に付属高校に入って来たのが三沢光晴と川田利明…とくに三沢には谷津が直接レスリングをみっちりと指導し教え込んだ
幻となった1980年モスクワ五輪出場…日本がボイコットをし人生で最も衝撃を受けたと谷津は語っている
そして谷津嘉章はプロレス界へと足を踏み入れたがエンターテイメントのプロレス界は谷津にとって不向きだった

★第6章 SPWF、アマレス復帰、PRIDE参戦
92年5月に引退したが翌93年に社会人プロレス連盟・新団体SPWFを旗揚げし谷津がプロレス界へと戻って来た
94年に新日本に長州に請われ出戻り…その記者会見でまた長州にハメられる⁉︎
和解していた長州とのこの時期に【WJ】の芽が出始めていた
2000年10月31日PRIDE・11そして翌01年PRIDE・16に参戦…連敗してしまった谷津…「あと20年早ければ」…モスクワ五輪出場が消えた時に目の前に総合格闘技があったら

☆第7章 “ど真ん中”WJ入団
2003年3月1日に旗揚げしたWJ…谷津は選手兼営業本部長に
運営に対しての谷津と長州の考えの違い…そして03年9月28日に谷津はWJを退団
WJで物別れしてから7年後の2010年11月30日に2度目の引退試合をSPWFで行った…その時長州力にも参戦を呼び掛けたが反応はなかった
WJ退団後の第3の人生…借金3億5千万円

★第8章 義足の人生最終章
切断しないはずの右足が痛む
俺の人生は失敗人生…モスクワ五輪に出場していたら…あの仕事を辞めずにプロレスをしなければ…でも逃げ場として選んだのがプロレスだった
プロレスって何だろう?…右足を切断した翌日に長州力の引退試合…何のためにプロレスの入ったのか?考えれば長州が正しかった…長州は可愛らしい人なんです…思い出がいっぱいあるからこそ「この野郎」って思うんです
谷津はプロレスラーとしての自分を不向き・中途半端と言う…谷津にとってのプロレスラー向きとは?スピリット・ハングリー精神・ルックスをもった選手だと
3億5千万円の借金を背負い…道路工事の作業員…そしてDDTに参戦…もっと早く高木三四郎に会っていたら引退なんてしなかったかも?
順風満帆なんてひとつもない人生…そして自分専用の義足での練習が始まった
俺は強い。特別な人間だ…新たな目標は2020年の東京オリンピック・パラリンピックの聖火ランナー!タイミングを逃し続けてきた谷津嘉章…ありのままの自分を受け入れる時が来たのかもしれない

30年のプロレス人生のベストバウトは…90年5月14日の谷津嘉章&サムソン冬木VS2代目タイガーマスク&川田利明戦でのタイガーマスクだった三沢光晴が試合中にマスクを脱ぎ素顔で戦った試合だと…そしてこの日の試合が谷津嘉章にとって全日本プロレスでの最後の試合となった

プロレスに苦しみ、プロレスに生きてきた男は…残された人生の最終章を義足で一歩踏み出した。

そしてまた歩けるようになったら…3億5千万円という借金が再び目の前の現実となる…それでも谷津嘉章は一歩前に踏み出す。この笑顔があればきっと大丈夫って思います

各目次ごとに簡単に触れましたがあとは是非手に取って読んで頂きたいなと思います

赤裸々に語った谷津嘉章の自伝本
オリンピックに出場した大物ルーキーとし鳴り物入りで入団した新日本プロレス…本当は新日本隊のエースとして期待されていたはずなのに…維新軍へ入り…全日本へ移籍し…歯車がどんどんと狂っていた谷津嘉章のプロレス人生
長州力とのシングル戦は実現して欲しかった
長州や鶴田と組んでいる時の谷津の一歩引いている姿勢の上手さの反面常に2番手として重んじてしまう優しさが邪魔をしてもう一つ突き抜けられなかったのがテッペンに立てなかった要因の一つかも?しれないですね
長州力との確執の真実…長州力への思いなども書かれていて常に谷津の前には長州力が居たのかもしれません

不器用な優しさが邪魔をして結局自分が損をしてしまう性分なんですよね
もしもプロレスラーじゃなく教師になっていたら…レスリングの指導者になっていたら…人生の分岐点で決断するのはいつも後悔する方ばかりを選んでしまう

でも人生って大体が後悔ですよね?きっと違う道を選んでもきっとまた後悔をするだろうし…答えなんてないんだなと思います
それでもその後悔の中でも楽しんでいる自分もいたりしますよね?

まぁここに書いてある事が全て真実ではなく盛ってある話もあるかも?しれないが谷津本人のズルい部分や勘違いしていた思いなども包み隠さず書いてあるのが潔く読んでいて面白かったです…やっぱりこの世代のプロレスを良く見ていたのでとくにね!

そしてこの自伝を読んでると自分の重なる部分がある事に気がついた…俺も結構貧乏くじを引いてしまうタイプという事
でも俺は意味のない正義感とかではなく…ただ困っていたら可哀想と思いきっとこれを助けたり協力したら自分がバカを見て後悔すると分かった上でその道を選んでしまう
周りからは【お人好し過ぎる】と言われるし…俺自身もバカな奴だな〜と毎回思うがでもあとで助けなくて後悔するよりは裏切られても傷つけられてもその時に後悔した方が諦めもつくし自ら選んだ道なので「まぁ仕方ないか」と思ってしまう

谷津嘉章は自分の人生を後悔ばかりの人生や失敗人生など悲観的な言葉が並べられているがそれでも前向きに生きている不器用な格好良さがあると思います

人生は何が起こるか?分からないから面白いと言うが…それは綺麗事
やっぱり岐路に立たされた時に少なくとも後悔したくない道を選びたいものだ…。

俺はそう思う…それでも僕らは生きている。

➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖

糖尿病のため6月に右足を切断し、義足で歩き始めたプロレスラーの谷津嘉章(63)が初の自伝「さらば闘いの日々」(宝島社、1870円)を出版した。表紙は義足姿の谷津が、上半身裸になって往年のセミロングタイツをはいてポーズを取っている。


足利工大附属高校でレスリングを始め、日本大学レスリング部時代、1976年のモントリオール五輪に出場(8位)。1980年のモスクワ五輪でも日本代表に選出されるが、日本のボイコットにより出場できなかった。1980年モスクワ五輪は日本のボイコットで“幻の金メダリスト”となって、新日本プロレスに入団。その後、ジャパンプロレス、全日本プロレス、SWSと主要団体を渡り歩き、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、長州力、三沢光晴ら主要レスラーたちと交わった。アマレス界の栄光とモスクワ五輪ボイコット、新日本入団と離脱、長州との複雑な人間関係、馬場夫妻、鶴田との蜜月、SWS移籍と団体崩壊、社会人プロレスSPWF旗揚げ、悲劇のWJ(ワールド・ジャパン)プロレス、借金3億5000万円、総合格闘技PRIDE参戦など、昭和、平成のマット界を彩った異能レスラーが、自身の半生と右足切断を余儀なくされた病魔について赤裸々に明かす。


谷津嘉章は【ダメなヤツ】じゃない

【スゴいヤツ】なんです!