疾うに深夜を過ぎたヨットハーバーには、杭に係留されているヨットの群れが、大人しく浮かんでいるだけで、他には誰もいなかった。
ただ、濃厚な潮の香りが、厚かましいほどに、存在を主張していた。
ヨットハーバーに入ってからも、尚も疾駆していた女だてらのレインボーハンターは、桟橋の先端まで辿り着いた時に、漸くその足を止めた。
そこで本のページを捲るように、クリューゲルの方へと、ゆっくりと振り返った。
そんな彼女の背後には、黒々と塗り潰されたコールタールのような海が広がっていたが、その見た目だけでは、海だということを疑ってしまうような、どす黒い光景だった。
それが海であることを知らせるのは、穏やかに繰り返される波の音と、濃厚な潮の香りくらいのものだった。
彼女は、挑むような目付きをして、こんなことを口にした。
「あなたは、レインボーハンターなんでしょう?
だったら、虹を捕まえるようにして、私のことも、捕まえて。
そうじゃなかったら、ハンターとは呼べないわ」
そんな強気な彼女の言葉でも、何となく詩的だと感じたのは、その声が、穏やかな波音を縫うようにして、クリューゲルの耳に届いたからかも知れない。
穏やかに繰り返す波の音や、万雷の拍手のように聴こえる葉擦れの音は、その時の現象を、とかく詩的に演出してくれるものだ。
女だてらのレインボーハンターは、再びクリューゲルに背を向けると、ウエッジソールを脱ぎ捨てて、裸足になった。
それから、桟橋の先端を蹴り上げるようにして、黒々とした海の中へと飛び込んだ。
飛沫を跳ね散らかし、水音を立てて、のっぺりとした海が、彼女の身体を飲み込んだ。
クリューゲルは、咄嗟に水晶のペンダントを口に咥(くわ)えると、デッキシューズを脱ぎ捨てるなり、桟橋の先端まで走って行った。
最早、あれこれと考えている余裕などなかった。
女だてらのレインボーハンターを追って、潔く海に飛び込んだのは、殆ど本能のなせる技だった。
何故ならば、男たるもの、獲物が逃げれば、追い掛けなければいけないと思うものなのである。
そうしてこそ初めて、男であることを証明出来るようなものだった。
しかし、その場の勢いで飛び込んだものの、そのことを直ぐ様、後悔する羽目になった。
初秋の海水は、思わず鳥肌が立つほど、冷たかったからだ。
その冷たい海水が、シャツやチノパンツを通して侵入してきて、クリューゲルの身体から、次第に体温を奪って行った。
そんな中、女だてらのレインボーハンターを波ごと捕まえると、彼女の首筋に、水晶のペンダントを取り付けた。
「これで捕まえたぞ。水晶に宿る虹も、あんたのことも」
クリューゲルはそれまでも、自らをレインボーハンターとして、認識していたつもりだった。
しかし不思議なことに、その時に初めて、名実ともに、レインボーハンターになれたような気がした。
それは、水晶に宿る虹と、女だてらのレインボーハンターという、実体のある物を捕まえたからなのかも知れない。
やはり天空に架かる虹は、どんなにカメラのフィルムやビデオカメラに収めようが、結局は、幻に過ぎないのだ。
水晶に宿る虹や、女だてらのレインボーハンターと比べると、捕まえたという実感が薄いのだ。
その後で、黙って見詰め合った二人は、どちらからともなく、口付けを交わした。
その時に、海の波に揉まれながら交わした口付けは、やけに塩辛い味がした。
けれども、冷たい海水に奪われて行った体温が、一瞬で甦るほどの情熱を、点火してもくれたのだった。
・・・レインボーハンターが集うバー〈全七夜~第五夜~〉へと続く・・・
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