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good days' diary*

20代会社員。
旅行・読書・カフェ巡りなどがすきです。

もう日付は変わってしまったけれど、やはり3月11日になると震災のときのことを思う。


と言いながら、4年前の今頃のわたしは、と思い出すことすら、なんだか難しくて、そして辛気臭いテレビ番組をシリアスに見るということにもなんだか違和感を感じてしまう。

この日は毎年、レトルトのカレーを食べることにしていたのに、今日はすっかり忘れてしまっていた。


4年という年月は、そういうものなんだ、と思う。

忘れることに対して、罪悪感を感じるわけではなく―まぁもちろん寂しさというものはあるけれど―、それでいいんだろうと思っている。


あのとき私のことを一番心配してくれて、私が一番会いたくて、私が絶望的な状況の中でも希望を見出せた思い出の中にいた人は、今ではもうほとんど連絡もとらない、赤の他人となってしまった。


あれだけ物資がなくて、みんな困って、分け合うこととか、本当は十分なだけあれば良いってこととか、物の有難味とか、わかったはずなのに今日もコンビニには、全て消費されるわけではないであろう量の商品が並ぶ。


テレビ等のメディアが発信する、「忘れてはいけない」、みたいなメッセージ。

取ってつけたような会社での黙祷。

なんか違うんじゃないの、と思うけど。じゃあ何が正しいのか、はよくわからない。

少なくとも支援を継続する意味では、メディアは役に立っているんだろうし。


忘れればいいと思う。辛い気持ちなんかは。きっと。


あの頃経験したことは、考えたことは、今でも実践できているのか、と言われるとわからないけれど、そんなおぼろげなものだけれど。でもたくさん私の生き方に影響を与えていることはたしかなんだと思う。


人にはどうすることもできない力。絶望したときに笑うことが大切なこと。人の温かみ。自分は何もできないこと。人生において大切なことは何なのか。そして人生において大切なことはそんなに多くはないこと。


大きな悲しみや、人の力を超える何かに向き合ったとき。

何もできないなりに、何かしていくこともできる。でもそれはなんとなく、「何もできない」状況から目をそらすことにもなるんじゃないかという気はする。

もちろん行動力のある人は素晴らしい。


何もできなかったエネルギーを、少しずつ燃やし続けることも、生き方の一つなんじゃないかと思う。


そう思えば、「何もできない」ことにたくさん向き合った4年前。


今の私では。一人では。何もできない。

4年後のわたしは、少し条件を増やすことができたかな。



哀しみやあの頃のことを、思い出す必要は必ずしもないと思う。

ただ、まっすぐに生きていたいと改めて思った今日。

まぁやっぱ辛いよね。

今日休暇をとって1日おやすみ。
平日ってかなり仕事のことで頭いっぱいになったりして- それは集中してるとかいう話じゃなく、勤務中はちゃらんぽらんなんだけど、なんとなく自分がどう見られてるか、とか、頑張らなきゃなって気持ちとか、自分の出来なさに向き合うこととか含めて- 視野が狭くなる気がしていて。
少しゆとりがあれば気が軽くなったりすることも今まで多かったから、今回もそういう効果を求めて休みとってみたわけ。

それでもやっぱり昨日無理やり終わらせてきた仕事のこととか、明日何言われるかなぁとか、次どんな仕事できるかなぁとか、休んでても不安になってしまうものは変わりなかった。

今してる仕事は、やっぱり私にとっては少しハードルが高い。まぁそりゃそうで、誰でもすぐできる仕事なら意味がないということもそうだけれど。

心の持ちようとかそういう問題じゃなく、やっぱりきついよなぁと思う。

時間どれだけかけても何も言われないけれど、アウトプットの質は求められる。
何言われても仕方ないけど、少なくともちゃんと検討したうえでアウトプット出したい。そう思う。
だから検討が足りなかったんじゃないか、と思うようなことについては休んだことによって余計に不安になる。
それが今まであまり休暇取らなかった理由かもしれない。

加えて、最近は仕事のスピードとか、レスポンスとか、コミュニケーションの取り方とか。そういうところも気をつけた方がいいなぁというか、気をつけるべきだなぁということにも意識が向いていて。
意識すると余計に気疲れする。

頑張りたい、頑張れない、仕事のこと忘れたくても忘れられない。そんな毎日で、まぁやっぱり辛いよなぁと思う。

今までは、仕事のこと頭から離れないのがよくないことだと思ってた。
でも、なんかそれも仕方ないのかもね。
不安で、ついつい考えてしまう。そんなものなのかも。
challengingなことできてるのは嬉しいけど、それにつきまとう代償というか。
もう少し細かいこと気にしない程度に、忙しければいいのかな。
無理に忘れようとしないこと。今日思ったのはそれだ。

最近悩んでいることがある。


自分の自意識の強さだ。


今までどうやって生きていたんだろう、と思う。

とりあえず自分のやることなすこと気になるのだ。

自分ができない、と思われると嫌。

自分の思ったとおりに見られないと嫌。

うまくしゃべれない、自分の言ったこと、表情、しぐさなんかが気になって1ターン終わるたびに自分にダメ出ししたり自分を褒めたりする。


周りはそんなに自分のこと気にしていない、ということが、この状況に対するもっともメジャーな解答だろうけど、自分はそれほどまでに他人がどうしているか、を気にしてしまうので周りも気になっているんだろうという結論になり解決しない。

それに、仮に他人が何も気にしていなかったとしても、何より、一番近くで、「わたし」が見ているのだ。

情けない私、うまくしゃべれなかった私、さぼった私、、、、、をわたしが見ている。


ここまで書いて、書けば書くほどなんかおかしくなりそうなことに気づく。溜息。


そして、どうにかできる方法がどこかにあるはずだと思って一度インターネットで検索した。

「自意識 強い」とか「自意識過剰 直す」とか入れて。

検索から出てきた結果は、もう、“メンタルの世界へようこそ!”感が全開で、それこそ病気じゃなくても私なんかもうダメなんじゃないか、少し体調悪い時に病院行って生気のない人たちに囲まれてなんか余計に具合悪くなって帰ってくるみたいな、そんな感覚を覚えた。

もう少し誰でも気にしていることかと思ってたのに、意外とそうじゃないのか、検索するってよっぽどなのか、わからないけど。

さらに言えば、少し参考になりそうなサイトを開いて、コラムを読もうとしたらなぜか音声のみの掲載だった。律儀に再生してみたものの、やはり余計にその世界に引きずり込まれそうで急いで止めた(ちなみに情報もなかなか有益とは言えなかった)。

もう少し、「冷え症 対策」とかで検索したときにイラスト付きのなんか女性向けのサイトが出てくるみたいなさ、そんなライトさが欲しかった。

とりあえず「私はそこまでじゃない!」と思ってそこからは一歩引いてきた。


それはさておき、なんだか今までこんなに自分のやることなすこと気になったことってあったっけ、と考えていて、そういえばたぶん思春期の頃くらいにはそんなこともあったんじゃないか、それで割と辛かったかもしれない、なんて思い返しており、最近こんなに自意識に悩まされる原因とか理由ってなんなんだろうな、って考え出して、その理由についてブログに何かしら文章を書きつけておきたいと思ったきっかけ。


理由として考えられるものは、ぱっと考えて3つくらい浮かんだ。


1つは、単純に仕事のハードルが上がっていること、環境が変わったこと。


実は私はプライドなんてないと、人に比べれば小さいものしかないと思っていた。

しかし。しかしだ。

私にはとても高い高いプライドがあった。

よくよく考えたら、今までなんだかんだで私はやれば何でもできる、と思っていたのかもしれない。

中学、高校は勉強すれば成績は伸びたし、大学の成績はいまいちだったけど、ちゃんと勉強すればちゃんとした成績が取れるんだと思っていた。会社入ってからも3年間は、そういえばまぁ仕事のハードルはそんなに高くなくて、私なりに頑張っていたといえばそうだけど、「すごいねー」と言われることの方が多かった。

要は井の中の蛙、だったんだな。

こんなにできないことがたくさんあるなんて思っていなかった。できない、ということを自分で受け入れられていないのかもしれない。


そうであれば、猶更、今の職場に来たことはこれからの私にとっては正しい選択だったと思えるし、一時、「自分に足りないものばっかり見つけてもがきたい、若いうちにもっと自分に足りないものを知りたい」と思っていたくらいだ。そんな気持ちもある。


それに加えて、一緒に仕事している人に心の中の中まで見せたくない気持ちがある。でもそれは東京はそんなもんなのかもしれないな。

前の上司に対しては、評価されるとかどう思われるとかまったく気にならなくて、とにかく自分が仕事を進めること、それが一番だったから私のことどう思ってるか気にしなかったしたまには強くあたったりもした。

今できないのはやはり慣れないのか、慣れればいいものなのか、慣れた環境でしか思いっきり自分を出せないとしたらそれはどうなのか。

など気になる。


2つ目、恋人がしばらくいないこと。

これはやはり大きい。


今まできっとたくさん自分のことが気になることはあったんだ。でもきっとそこまで深く自分と向き合おうなんて思わなかったのは、自分より向き合いたい人が他にいたからだと思う。

さらに、恋人がいることで、たいていは常に自分を肯定してくれる人がいる。それは生きるうえで本当に本当に大きなことだと思う。無条件で自分の価値を評価してくれる人がいないこと、これによって自分の自信がどれほど変わってくるものか。

彼氏やそれなりに一緒にいる人がいるときは、彼氏がいない人はどうやっているんだろう、と思っていたけれど、真相はわからないが、とりあえず私は恋人がいてくれることによって得られる自信以上の自信を自分で生み出すことができない。


簡単に言えば常にだれかに褒められていないと頑張れない末っ子の甘ちゃんということなんでしょうが。



3つ目、好きな人が職場にいること。


実際にこれまで、たとえば前の職場とかで自分がどう見られているか、があまり気にならなかったのは、どう見られてもいいという実態があったからにほかならないという理由が確実にある。

今は一日のうち12時間くらいを好きな人がいる環境で過ごす。長らく遠恋なんかをやっていて2か月に1回会えればいいレベルだった私からしたらこれは確かに、自意識が爆発していいレベルだ。

常に彼は私のこと見ていないとは思うけど、見られているかもしれない、という意識が常にある。


それに加え、私も彼のように活躍したい、というか、彼に置いつきたいという憧れがあり続ける。

女としても、同僚としても、“ちゃんと”見られたい。

結局、「どう見られているか」がすごく気になる。彼だけでなく、私の評判が回りまわって彼の耳に入るかもしれないから周りの人の目も気になる。


ここまで書いていて、そして「自意識が爆発していいレベル」とまで書いて、本当にこれだ、と思った。そして「爆発していいレベル」の的確すぎる言葉選びに我ながら感心するレベルだ。



そんな3つの要因。


今まで悩んでいたのは自意識の強さには悩まされるのに、悩んでばかりで、現実に向き合うことはできなくて、具体的な行動(ダイエット頑張るとか)になかなか結び付かなかったことだ。

でも今日、自分で自分を褒めたいと思ったのは、少しずつだけど、具体的な行動に結びついているし、前よりも自意識に悩まされず行動できるようになっているということだ。


たとえば英語の勉強もようやく始められて、さぼる日もあるけど続いているし、ダイエットも一応、カロリーを気にする食生活は続けられている。仕事でも積極的に話せるようになった。


何が誘発要因となったのかはわからないけど、最近はみっともない自分と少しずつ向き合えるようになってきている。

思い返せば、

「妄想も後悔も現実の自分と向き合えていない証拠」

という言葉をどこかで見た、それがなんとなく刺さっているような気がする。

どこで見たのか、もしかしたら“メンタルワールド”だったかもしれない。笑

あとは

「欠点は、向上心を持つための最高のモチベーション」

というような言葉もどこかで見た。できないこと、足りないことがたくさんあることは、“劣等”なのではなく、“自分を変えるチャンスに恵まれている”ということなのだと。


具体的な行動を少しずつできるようになってきたことも、

自分の現実の姿、至らなさに向き合うことができるようになってきたことも。

できたことが少しずつ、自分の自信になりつつある。それは事実。


自分と向き合う、これは本当に体力がいる。

でもきっと今まで、恋愛とかお酒とか適当な理由つけて向き合わなかったことがツケとして回ってきているんでしょう。だから、きっと、今ががんばりどき。


こんなに溢れるように長文を書いたのは久しぶりだ。