9月10日 カール・ラガフェルド/シャネルのデザイナーの誕生日
.
カール・オットー・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)ドイツ出身のファッションデザイナー、写真家。1933年9月10日生まれ- 2019年2月19日没。
.
ラガーフェルドは1933年、当時のドイツ・ハンブルク近郊で生まれました。
第二次世界大戦後のドイツではなく、ナチス時代のドイツで少年時代を過ごした世代です。
そして1952年、まだ10代だった彼は母親とともにパリへ移住します。
.
彼はパリに来たときは、まだ「デザイナーとしてパリで働く」という考えはなかったそうです。
ただ「パリこそ自分が生きる場所だ」と自覚していたそうです。
フランス語を覚え、パリの社交界に入り、ファッション界の人々と交流し、ファッションの道に進んだようです。
.
パリオートクチュール組合が経営する学校にてファッションを学ぶ。この時の同級生にイヴ・サン=ローランがいた。1955年、国際羊毛事務局(International Wool Secretariat)の支援するデザインコンテストのコート部門で優勝。デザイナーとしての華々しいデビューとなり、ピエール・バルマンのアシスタントとして雇われた。
コンテストで優勝した作品
.
ラガーフェルドはフランス人のように振る舞いましたが、自分がドイツ人であることを隠そうとはしませんでした。むしろ、「私はドイツ人です。でも私はパリに住んでいる。」という距離感。
そしてフランス語、ドイツ語、英語を使い分けました。
「私は3人の人間です。英語を話すときは一人、ドイツ語では別人、フランス語ではまた別人です。」これは単なる冗談ではなく、彼自身が言語によって人格まで変わることを面白がっていた発言です。
.
1983年、ラガーフェルドはシャネルのアーティスティック・ディレクターになります。
当時のシャネルは、現在ほどの巨大ブランドではありませんでした。
ココ・シャネルが1971年に亡くなってから時間が経ち、ブランドはかなり古臭いイメージになっていました。
そこへラガーフェルド。
彼はシャネルを、「昔のココ・シャネルを再現するブランド」にはしませんでした。
むしろ、「ココ・シャネルなら2000年代に何をするか?」という発想で作り直した。
Chanelに迎えられる
.
彼が非常に詳しかったのが、18~19世紀フランスの美術・建築・服飾・文学・装飾芸術。
つまり、「フランス人が忘れかけているフランス」まで研究していたんです。
これがシャネルで猛烈な威力を発揮します。
シャネルには、
ココ・シャネルのツイード
パール
カメリア
ゴールド
黒
パリのエレガンス
という「過去」がありました。
普通なら、「古いシャネルを現代化する」ところですが、彼は、「シャネルのDNAを残したまま、毎シーズンまったく新しい世界を作る」ことをやった。
.
ラガーフェルドはシャネルを乗っ取ったのではなく、
ココ・シャネルという歴史上の人物を、自分の想像力の中で再生した。
例えば、
シャネルのチェーンバッグ
CCロゴ
ツイード
カメリア
バイカラー
などを、何度も何度も変形させる。それなのに、「これはシャネルだ」と分かる。
これはデザイナーとしてものすごい能力です。
.
ただファッションだけに留まりませんでした。演劇、建築、美術、広告、社交界を全部一つにする。彼は非常にフランス的な美意識を持っていましたが、仕事のやり方はかなりドイツ的でした。
とにかく働く。
シャネルだけではありません。
Fendi
Chloé
Karl Lagerfeld
を同時に掛け持っていました。一時期はH&Mも担当していました。
さらに写真、出版、広告、イラスト、家具など。
写真家としても非常に活動的でした。自分がデザインしたブランドの広告写真まで自ら撮影し、雑誌の写真も撮影。さらに建築、映画、出版、イラストなどにも手を広げました。
つまり彼は、「服を作る人」ではなく、「イメージそのものを作る人」だったんですね。
普通なら一つのブランドだけでも大変なのに、複数ブランドを同時に動かしていました。
しかも、「毎年、新しいものを作る」という猛烈な生産力。
この「規律+知性+大量の仕事」という部分は、フランス的ではなく、彼のドイツ的な背景と無関係ではないでしょう。
.
ラガーフェルドは、フランス人デザイナーのようにフランスの伝統に縛られませんでした。
例えば、「これはフランスらしくない」という発想を恐れない。
中国風、日本風、ロシア風、アメリカ風、古代ギリシャ風……
何でもシャネルに取り込んでしまう。
だから彼のシャネルは、フランス文化を守るブランドではなく、フランス文化を世界中に輸出するブランドになったとファッション評論家の言です。
.
そして「自分自身」をブランドにしました。
晩年の彼を想像してください。
白いポニーテール。
黒いサングラス。
黒いジャケット。
黒い手袋。
白い襟。
彼は、「Karl Lagerfeldというキャラクター」そのものを作った。
だから街で彼を見れば、「あ、ラガーフェルドだ」と誰でも分かる。
デザイナーであると同時に、映画スター、芸術家、評論家、広告塔になっていたわけです。
.
普通、ファッションデザイナーのスケッチは服を作るための設計図です。
ところがラガーフェルドの場合、スケッチそのものが芸術作品でした。
彼は非常に速く大量のデザイン画を描き、技術的な設計図でありながら、同時にファッション・イラストレーションとして完成していたのです。
メトロポリタン美術館は彼のスケッチを、通常の「制作過程の道具」とは違い、それ自体が表現作品になっていると評価しています。
.
ラガーフェルドのシャネルのショーは、単にモデルが歩く場所ではありませんでした。
例えばグラン・パレを、スーパーマーケットにしてしまう。
別の年には、空港にする。ある時は、巨大なカジノ。
しかも商品までシャネル風。
例えば、スーパーマーケットの時は、
Corn FlakesをCoco Flakesなどとして棚に陳列しました。
買い物カートやショッピングバッグまでファッションアイテムになりました。
また、2007年には万里の長城でもショーを開催しました。
つまり、服を見せるのではなく、シャネルという「世界」を見せる。これをやった。
スーパーマーケットを模したランウェイ
カジノを模したランウェイ
万里の長城でのショー
.
ラガーフェルドはファッションだけでなく、猛烈な読書家・本のコレクターでした。
個人蔵書はなんと30万冊以上ともされています。
本人の有名な言葉が、「本を買うことは私の病気。でも治してほしくない」というもの。
そして本が多すぎるので、自宅の壁を取り払って巨大な書庫のような空間を作っていました。
パリの自宅は「普通の家」というより、本+写真+アート+デザインの巨大な研究室だったわけです。
彼の蔵書
.
ラガーフェルドを語るなら、やはりシュペット(Choupette)です。
2011年、モデルのバティスト・ジャビコーニから「旅行中の2週間だけ預かって」と頼まれた白いバーマン猫。
ところがラガーフェルドは、「あまりにも可愛かったので、返さなかった」という、とんでもない展開に。
そしてシュペットは、普通の「飼い猫」ではなくなります。
専属メイドが2人
プライベートジェットで旅行
食事はラガーフェルドと同じテーブル
床では食べず、テーブルで自分の食事
枕の下で寝る
写真集まで出版
広告・コラボ商品にも登場
という生活。
ラガーフェルド本人も「彼女は私のミューズ」と公言していました。
しかも彼は一時、「法律で認められるなら、シュペットと結婚したい」とまで言っています。(英紙・The Gardianの記事)
.
私が勤務するレストランにも何回か来店されましたが、いつもアシスタントが注文し、彼の声を聞いたことはありませんでした。
.
2019年2月19日没。享年85歳。
葬儀は2019年2月22日、ナンテールで行われた。その後、ラガーフェルドは火葬された。生前の遺志に従い、遺灰の一部は母親の遺灰と、残りは1989年に亡くなるまでパートナーだったジャック・ド・バシェールの遺灰と混ぜられ、秘密の場所に埋葬された。(彼は同性愛者であった。)
.
.
.Youtubeの「CHANEL 2014/2015 秋冬ショー」スーパーマーケットにて
<追記>
1419年9月10日 ― ジャン無怖公が暗殺され、百年戦争が複雑化、この後、ジャンヌ・ダルクが登場する。
1977年9月10日 ― フランス最後の死刑執行







