アスリート羽生結弦について:最近、感動したこと(言葉)ふたつ | 覚え書きあれこれ

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記憶力が低下する今日この頃、覚え書きみたいなものを綴っておかないと...

ひとつ前の記事で懐かしいオータムクラシックの思い出にふけったついでに、久しぶりに羽生結弦さんについて記事を書きたいと思いました。

 

ここ最近はりくりゅう関係の記事を多く書いているからだと思いますが、3月に埼玉の世界選手権でブログの読者の方にお会いした時

 

「モモ博士は羽生結弦さんのことはお好きですか?」

 

と聞かれて引っくり返りました。

 

何をおっしゃるうさぎさん。このブログで11年以上に渡って書かれた記事の大半は羽生結弦選手に関連しているじゃありませんか。

 

…とまでは言いませんでしたが、その方からたくさんのユヅグッズを頂いた後、苦笑したことでした。

 

ものすごく確固たる方針があるわけではないのですが、何となくこのブログでは自分の直接見たこと、体験したことを書きたいと思っているので、羽生さんの出たアイスショーや出演した番組をなかなか見る機会のない私としては、彼について書くネタがあまりないのが現状です。

 

昔のことばかり蒸し返して書くのもなんか未練たらしい気もしますしね。

 

というわけで少し時間が空きましたが、書きたいことが溜まってきたので記事にします。

 

まずは「アスリート羽生結弦」について、その次は「アーティスト羽生結弦」について、頑張ってまとめたいと思います。

 

 

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昨年、羽生さんが競技生活を離れるというニュースを受けてデイビッド・ウィルソンにインタビューをしたのですが、その時に羽生さんがフィギュアスケート界においてどんな存在であると思うか、と聞いてみました。

 

デイビッドの答は:

 

「こういう人がレジェンド(伝説的な人物)になるにふさわしいのだ、と。あらゆるスポーツにおいて、そういった人物がいますよね。単に何度か勝利を収めるだけではなく、その競技を圧倒的に支配して、後世までアイコン的存在として語り継がれる。フィギュアスケートにおけるそのような存在がユヅです。そのものです。」

 

でした。

 

なるほどなるほど、確かに私もそう思っていました。陸上ではウサイン・ボルト、テニスではロジャー・フェデレラー(私としてはビョルン・ボルグもここに入れたい)、ホッケーではウェイン・グレツキー、などなど、圧倒的なカリスマ性と強さと持続的なキャリアを誇ったアスリートたちの中に羽生結弦の名も刻まれているのです。

 

そして昨年、羽生さんがプロに転向した折にはそういったテスティモニーが彼に関わったコーチ、振付師、そしてメディアやファンからも数多く聞かれました。

 

 

ところが今年になって、思いがけないところから「ひょい」という感じで、羽生さんについてのとてもすっきりしたコメントが聞けて興味深く思いました。

 

2月の四大陸選手権前に、りくりゅうのコーチのブルーノ・マルコットにインタビューをしていた時のことです。

 

三浦&木原ペアを含めてフィギュアスケート選手がキャリアを重ねて行くうえで、気を付けなければならないこと、といったトピックになり:

 

 

「ペア競技の限界に挑戦し、新しいものを創るのだ、という意気込みを持ちつつ、自分のアイデンティティを見失ってもいけない。これが難しいのです。常に新しいことをやろう、上手くなろう、と思いつつも、自分の本質を忘れてはならない。」

 

とブルーノが話してくれました。

 

おおー、確かに、と思ってノートを取っていると、その流れで次のように続けたのです。

 

 

「ユヅルがあれほど優れたチャンピオンであったのは、今僕が言ったことができたからです。彼は常にクリエイティブであろうとして、競技の限界に挑んでいたけれど、自分が何者であるかを決して見失わなかった。自分に忠実であった。この点で彼は非常に優れていましたね。

歴史的に見ても本当のチャンピオンとはそういった資質を備えていました。創造性、限界への挑戦、そしてアイデンティティを見失わない、この三つの要素を上手く統合すること。それが一番大事なのだと思います。」

 

「YUZURU」という名前が「すらり」とブルーノの口から出てきたことが妙に新鮮だったので印象に残ったのですが、後から考えてちょっと納得したことがあります。

 

ブルーノ・マルコットコーチは確かに昔から日本の選手を指導してきているので、日本のフィギュア界とは密接な関係を築いているけれど、彼が羽生さんを引き合いに出したのはそういったことが理由ではないのでしょう。

 

むしろ、国に限らず、そしてシングル競技に携わっているかどうかに限らず、コーチたちの間では本当にごく当然のように羽生結弦は「偉大なチャンピオン」の代名詞としてインプットされている。

 

だから指導哲学などについて語っている時も、彼の名前が自然に引用されるのだろうな、と思いました。

 

 

うーん、どうでしょう。私の感じたこと、上手く伝わるでしょうか?

 

つまりわざわざ羽生さんの功績を称えるためのインタビューではないにもかかわらず、シャンペンならドンペリニョン、車ならロールスロイス、山ならエベレスト、という最高レベルのものの喩えとして出てきたところにすごく感動した、ということです。
 
 
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さて、エベレストが出てきたところでもう一つ、素晴らしいアスリートについて語られた言葉をご紹介します。
 
ご存知のとおり、カナダではアイスホッケーが最も人気の高いスポーツとされています。歴代の人気のアスリートもホッケー選手が多くを占めていて、中でも前述のウェイン・グレツキーが1980年代から90年代にかけて、史上最高のプレイヤーとして君臨しています。
 
しかしそのグレツキーをもしのぐ才能の持ち主ではないかとされているのが現在、エドモントン・オイラーズのキャプテンであるコナー・マクデイビッドという選手です。
 
 

 

 

 

1997年1月生まれというから現在26歳。

 

子どもの時からすごい素質の持ち主として注目されてきたマクデイビッドですが、18歳でプロデビュー、2シーズン目で史上最年少のNHLチームキャプテンに任命され、しかもそのシーズンはいきなりリーグMVPなどの賞を総なめ。

 

それからも毎シーズン、マクデイビッドは数々の記録を塗り替えて行くのですが、彼の控えめなキャラも手伝ってか比較的、メディアでも取り上げ方が地味に思えます。

 

そんなマクデイビッドについて、日々すぐ近くで見ている彼のコーチのジェイ・ウッドクロフトが言った言葉をラジオで聞いたのですが、とても印象に残りました。

 

 

 

 

「エベレスト山の麓に住んでいるような感じかな。見事な山、世界一高い山を毎日、見ている。すると時には感覚がマヒしてそれがどれだけ特別なことなのかを忘れてしまうんだよね。僕自身、コナーに関して、そう感じることがある。」

 

ツイッターではこのように書かれていますが、私がラジオで聞いたバージョンは少し違っていて、

 

あるいはウッドクロフト・コーチがこれに少し補足して

 

'We should not become numb to greatness"

 

と、しみじみと言ったのでした。

 

これがもんのすごくズドーンと刺さって、いつかブログで取り上げようと思っていたのがこんなに遅くなってしまいました。

 

意訳・解釈しますと、

 

「偉大なアスリート、あるいは偉業を成し遂げるアスリートに対して、繰り返しその素晴らしさを目の当たりにしているからと言って、決して感覚を麻痺させてしまってはならない。実際、特別なものを見ているのだから」

 

でしょうか。

 

私は競技者であった頃の羽生選手に対して、彼の偉大さに「numb」になってはならないと自分に言い聞かせてきたつもりでしたが、彼がプロに転向してから時が経てば経つほど、まだまだ認識が甘かったのだと思い知らされている気がします。

 

エベレストに登って、山頂から見渡す景色がとんでもなく美しく壮大であることは分かっていたはずなのに、下山してからまた上を見上げて「こんなに高かったのか」と腰を抜かす、みたいな。

 

あるいは山頂だと思っていたものが実は5合目だったということに驚愕しているのかも知れません。

 

ああ、比喩力が全く足りていないなあ。。。

 

 

とちょっと恥ずかしくなってきたところで、いったん、記事をアップしますね。

 

 

 

「山頂どこー?」