Part 1 では私の人生に大きな影響を及ぼしたビートルズとの出会いを取り上げました。彼らのレコードを初めて聞いたのが11才の時でしたから、本当に早い時期に重要な difference maker に出会ったものだと思います。
Part 2 のテーマは人生後半(よりも実は遅いのですが)に私が遭遇した difference maker について書きます。
なお、前記事にも書いた通り、当然ながら「身内」(家族や恩師など)の中に、私の人生の行方を左右するような重要な人物は少なからずいました。このシリーズの記事で取り上げているのはそういった直接の人間関係がないケースに限定しています。
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たびたびこのブログに登場して、皆様にも親しんでいただいている私の母ですが、そんな彼女が深刻な病を患っているらしい、と兄に知らされたのは2011年5月のことでした。それから間もなくして主人の父親が亡くなり、我々の家族に何となく暗雲がのしかかって来たように感じられた時期でした。
私が急いで帰国すると、数日後に母の検査結果が出て恐れていた診断が下りました。「サイレント・キラー」として知られるその病は5年生存率が極めて低くく、本人はもう諦めの境地。ですが、あの頃の私には何故か「絶対に助ける・助かる」という確信がありました。その病気の治療に関しては定評のある病院にすぐ受け入れてもらえたのもラッキーでしたが、とにかく妙に頭が冴えまくって、明確なプランに沿って色々な段取りを次々と決めていくことができ、「そうか、これまで長年、私が蓄積してきたリサーチ・スキルは学問のためじゃなく、こういった場面で活かせるためだったのか」と思ったくらいです。
それから母の看護のため、私は度々カナダと日本の間を往復することになりました。長時間のフライトに加え、不安と緊張感を伴う用件のために帰るのですから、最初のアドレナリン噴出状態が収まるにつれて徐々に疲労やストレスが溜まって来ます。おまけに手術を経て家で療養するようになっても母は気分が落ち込んでいて、そんな我々が一番、安心して楽しめることと言えば料理やスポーツの番組を一緒にテレビで観ることでした。
日本のスケート選手がどうやら国際試合で良い成績を収めているらしい、若手のホープがどうのこうの、というニュースを度々、耳にするようになったのは秋も深まった頃。画面に映し出されたその選手の姿を見て「なんだかこれまでの日本の男子スケーターにいなかったタイプだな」という印象を受け、興味が湧いたのを憶えています。「羽生結弦」という名前もその頃から認識するようになりました。
ここで正直に言いますと、当時はまだ羽生選手について詳しく知らなかったので後から調べて分かったことになりますが、グランプリ・シリーズの中国杯(2011年11月4-6日)やロステレコム杯(同年11月25-27日)に出場していたのを日本で見ていたようです。
しかし12月初旬にカナダに戻った頃には私もしっかりと羽生選手の存在を意識していて、ケベックで開催されたグランプリ・ファイナルの活躍をリアルタイムでフォローしました。
その時の羽生選手のFSのCBC解説についてはこちらでどうぞ:
The Future! :思い出のCBC解説「2011年GPF」
それ以降の私の羽生選手応援歴については、皆さまご存知かと思いますので割愛するとして、とにかく母と私にとって、けっこうドン底の精神状態の中で出会ったユヅ君は、爽やかな風のように感じられた、ということなのです。
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それだけ(と言うのも何ですが)であれば、私は羽生選手のことを自分の人生においての difference maker として取り上げることはなかったでしょう。
だって、ミーハーな私には過去にも熱烈応援したスポーツ選手がたくさんいたんだもん。
たとえば古くはテニスのビョルン・ボルグやギエルモ・ヴィラス
もすこし最近ならホッケーのカーティス・ジョゼフ
などはかなり真剣にフォローして、試合も観に行ったし、サインをもらったり、情報を集めまくった対象でした。
でも彼らを熱く応援していたからと言って自分の日常生活の方向性までが変わったわけではない。せいぜい似顔絵を描いたり、スポーツウェアを真似たりしたくらいでした。
ところが羽生選手との出会いは、私の人生のこの期に及んで、大きな変化をもたらしてくれたのです。
2013年3月にカナダのロンドン市で開催された世界選手権でさえも最初は観戦に行くのを(面倒くさくて)ためらっていた私なのに、その秋には重い腰を上げてGPスケートカナダの大会ボランティアに応募する気になったのはやはり、羽生選手が出場すると知っていたから。それでも普段あまりボランティア活動に熱心ではなかった私、申し込んでから「うわー、何てややこしいことしたんだろう。試合を観に行くだけで良かったのに」と思ったことを懺悔します。
ところが実際に大会を手伝ってみたらその面白さにハマり、それをきっかけに毎年、(羽生選手が出ない時でも)手伝うことになって現在に至っています。
スケートカナダのボランティア活動は私に二つの楽しみを与えてくれました。いや、蘇らせてくれた、と言った方が正確かも知れません。
一つは通訳という仕事:
私は、将来の職業として「同時通訳」を志していた時期があったのですが、父に「お前みたいなシャベリな奴は、他人の言うことを通訳するだけで満足できるはずがない」と言われて大学入試以降、学問の道に進むことを目指しました。それはそれで後悔していないのですが、やはり自分の語学力や異文化間コミュニケーションの知識を活かせる仕事をさせてもらうと、大きな満足感が得られるのだな、とつくづく思います。
スケート関係のボランティアを機にトロント国際映画祭の通訳グループに登録するようになり、ついこの間はドキュメンタリー映画祭にも関わる機会を得ました。トロントの文学作家祭(International Festival of Authors)から声が掛かったりもします。思いがけず、何十年も経て若い頃の夢がかなった気分です。
二つ目としては、「スポーツ」というもの自体に関われる喜び。
私は筋金入りのスポーツ(観戦)オタクです。
朝、ネットでニュースを検索する時はまず昨晩のNHLやNBAの試合結果からチェックする。新聞はもちろん、スポーツ欄から読む(かつては通学電車の中でスポーツ新聞を広げる奇異な女子高生でした)。車に乗っている時はスポーツ専門のラジオ・チャンネルしか聴かない(← 主人に言わせるとこれはオッサンの習癖)。
そんな私ですから、スケートカナダの舞台裏を目の当たりにしたおかげで大きなスポーツイベントの開催、ということ自体に興味を持つようになりました。なので必ずしも通訳のスキルが求められない国内大会でも手伝いに行きますし、今後はスケート以外のスポーツ大会にも範囲を広げて応募してみようかという気になっています。
今のところは(一応)本業と両立できる程度に、つまり趣味として通訳も大会ボランティアもこなしていますが、将来リタイアしたらもっともっとやるぞー、というワクワク感で一杯です。
この年になって私がこれからの人生を楽しみにして迎えることができるのは、きっかけを与えてくれた羽生選手のおかげだと思っています。
彼の演技を見て心を動かされたのが始まりでしたが、出不精で面倒くさがりの私に実際の行動を取らせた。それが次々と新しいドアを開けることにつながり(もちろんその中にはこのブログの執筆や、スケートを通して出会った多くの方々との交流も含まれています!)、数年前は思ってもいなかった可能性を私に示してくれています。
初めてのボランティア応募から4年が経ち、これからも続くことは間違いない。これはもう、私の人生に長期的な変化をもたらしたと言っても良いだろう、と確信しました。
というわけで、羽生選手を私にとっての difference maker として認定させていただきます。
皆さんにとっての difference makers は誰ですか?
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最後にもう一つだけ。
こちらの子供たちが学校で「将来の夢は?どんな人になりたい?」と聞かれてしばしば答えとして出すのが
"I want to become someone who makes a difference"
つまり、
何らかの形で世の中に、多少なりとも、(もちろん良い意味での)変化をもたらせるような人間になりたい
ということです。
(↑ここの部分については次の記事でちょっと追記しましたのでそちらもご参照ください)
人間、一番空しい思いをするのは自分が何の力も発揮できない、何をやっても何も変わらない、といった「無力感」を覚える時ではないかと思います。
反対に言えば存在意義が感じられるのは自分がやったことで何か事態が動いた時、何らかの変化が見られた時ではないでしょうか。
そう考えると、羽生選手の「物事を動かす力」はもはや凄まじいレベルに達していると言えましょう。
数々の世界記録を更新し、技術と芸術性を兼ね備えた選手としてフィギュアスケート競技の向上を現在促していることはもちろんですが、羽生選手に憧れ、インスピレーションを受けた子供たちが日本だけではなく、世界中でスケートに勤しんで未来のオリンピック選手を目指すようになっている。
膨大な数のファンを大会やテレビ・ネット観戦に引き付ける彼は、その人々に勇気や感動を与え、様々な交流の場を作らせ、有意義な社会活動へと駆り立てる。それがメディア、イベント開催者、スポンサー企業の注目を集め、経済の活性化にもつながる。
羽生選手を中心として大きな渦が巻き、どんどん拡大して行っている、という気がします。
ソチの試合後の会見で「無力感がある」と吐露した青年は、今や確実に時代のdifference maker となり、平昌に乗り込もうとしています。
その勇姿をこれからも追うのが楽しみです。