10月下旬に「朗読会」に出ることになりそうです。
主にトロント在住の日本人を対象に、日本語で何か面白い小説とかエッセイを読んで聞かせる、という趣向です。3年前にこのイベントに参加した時は桂三枝の絵本落語『鯛』を読みました。
今回の題目はおそらく米原万里のエッセイになると思います。
米原万里は残念ながら故人となってしまいましたが、日本で最も優秀なロシア語同時通訳者であったとともに、数々の素晴らしいエッセイを残した作家でもありました。
その経歴がまたなんとも珍しい。
以下はウィキベディアからの引用ですが:
日本共産党常任幹部会委員だった衆議院議員・米原昶の娘として東京都に生まれた。
小学校3年生だった1959年(昭和34年)、父が日本共産党代表として各国共産党の理論情報誌 『平和と社会主義の諸問題』編集委員に選任され、編集局のあるチェコスロバキアの首都プラハに赴任することとなり、一家揃って渡欧した。
9歳から14歳まで少女時代の5年間、現地にあるソビエト連邦外務省が直接運営する外国共産党幹部子弟専用のソビエト学校に通い、ロシア語で授業を受けた。
さて、プラハとパリとの違いはありますが、私の家族が渡欧したのもちょうど1960年代半ば。
米原さんのエッセイには学校での授業の様子がたくさん出てきますが、そこで描かれている文房具や教室の備品が非常に、私の記憶にあるフランスの学校の様子に似ていて共鳴します。
そして彼女がプラハから帰国してすぐ、日本の学校に戻った時に驚いたことの数々も、私が神戸の女子校に編入した時に感じたこととよく似ています。
中でも「日本人の女の子はトイレに行く時、友達と一緒に行きたがる」というのがあります。
フランスの学校で、友達とたまたま休み時間に同時にトイレに行く、ということはあっても、わざわざ連れ立って、ということはありませんでした。
なのに日本では「トイレ行こう?」と誘い合い、手をつないで行く子もいるのにはとてもびっくりしました。
別にそこまでして行くような所ちゃうやん、と。
そして米原さんが続けて書いているのには:
「不思議なのは、わざわざトイレまで付き添わせる同性に、用を足している際の音を聞かれるのを極端に恥ずかしがって、個室に入っている間中水を流し続けることだ」
『パンツの面目ふんどしの沽券』より
ということで、私もこの行動を理解するまでしばらく時間がかかりました。
あれ、水、なんで途中で流すんだろう?と。
(ちなみにカナダでの生活が長くなった今は、またその習慣がなくなっています。)
米原さんはこれを「羞恥心の迷宮」と称していますが、確かに文化によって恥ずかしいと思うことは違いますね。
日本人の女性は笑う時に口を手で隠す、というのも彼女は不思議に思ったそうです。
歯や歯茎が見えたら恥ずかしい、ということだそうですが、テレビの料理番組などで食べている最中にも口を隠す人(これは男女とも)を良く見ます。
レストランで出て来た料理を一口食べる。
「んー!」
と唸って、大きく目を見開き、素早く口に手を当てる。
「これ、美味しいー!」
あるいは
「ウマッ!」
と(手越しに)叫ぶ。
でもそれなら食べながら喋るなよ、とも思いますが。
ヨーロッパ系の文化では食べ物が口に入っている間は決して話してはいけないことになっていますよね。子どもにも厳しく躾ける点です。
もうひとつ、私が思ったのは、日本人は人前で鼻をかむことを嫌がる、ということでした。
もちろん、堂々と目の前でされて気持ちの良いものではありませんが、鼻をかみたくないがためにずっと鼻水をスンスンとすすり続けられるのも気持ち悪いです。
カナダではむしろ、そうやって鼻をすする方が行儀悪いとされています。
私も何度か大学のゼミの途中で学生にティッシュの箱を勧めた経験があります。
学生はおそらく「あの先生、人前で鼻をかませようとするなんて、なんて無神経」と思ったでしょうが。
そんなことを考えながら、米原さんのエッセイ集を幾つか取り出して、読み返しました。
私のお薦めの著書は:
『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』
米原さんがプラハで出会った友達にまつわるエピソードを背景に、鋭い政治的な考察が繰り広げられています。
『パンツの面目ふんどしの沽券』
タイトルどおり、下着に関する比較文化的な解説が満載。めっちゃ面白い。
ぜひお試しください。