ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ | これ観た

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基本アマプラ、ネトフリから観た映画やドラマの感想。9割邦画。作品より役者寄り。なるべくネタバレ避。演者名は認識できる人のみ、制作側名は気になる時のみ記載。★は5段階評価。たまに書籍音楽役者舞台についても。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001/日本公開2002)

原題は『Hedwig and the Angry Inch』で、もとはジョン・キャメロン・ミッチェルが主演を務めたオフブロードウェイのミュージカル。それを映画化。

 

監督・脚本 ジョン・キャメロン・ミッチェル

 

旧東ドイツに生まれた少年ハンセル(ジョン・キャメロン・ミッチェル)はロックが大好き。母親(アルバータ・ワトソン)からプラトンの思想から生まれた「愛の起源」(神話・寓話)を聞かされ育ったハンセルは、やがて未完の自分を自覚して離れ離れとなった自身の片われを追い求めるようになる。その最初がアメリカ軍人のルーサー(モーリス・ディーン・ウィント)と恋に落ちたことであり、アメリカへ渡る。その際に、結婚をする必要がある。しかし見た目は女っぽくもハンセルは男。母親から母親名義(ヘドウィグ)のパスポートを贈られ、ハンセルは性適合手術も受けるのだが、手術は失敗をして、股間に1インチの突起物が残ってしまう。以降、ハンセルヘドウィグにとって体に残った突起物が、より悩ましい存在になっていってしまう。

渡米後、幸せな時はそうは続かず、ルーサーは新しい恋人をつくり出ていってしまう。ヘドウィグは子供の頃憧れたロックバンドを組み、同じく音楽を目指すトミー(マイケル・ピット)と出会い、恋人同士になるものの、“怒りの1インチ”の存在が別れにつながる。しかもその後トミーはヘドウィグの曲を我が物とし、爆発的人気を得た。ヘドウィグはマネージャーであるフィリス(アンドレア・マーティン)の指示に従いながらもトミーのツアーを追いかけやり込めるつもりだった。そんな自分の意のままにバンドを動かすヘドウィグにメンバーは疲弊していき、解散となる。

だけどそんなヘドウィグは結局愛を求めていたに過ぎなかった…。

 

ラストはひとつの裸体(ヘドウィグ)が夜の路地を歩く。自身を受け入れられ、完全な一個体になったということか。

 

物語は「愛の起源」が根底にあって、それは昔々人間は二人でひとつで、男と男(太陽の子)、女と女(地球の子)、男と女(月の子)と三種類いた。しかし神によってその体が引き裂かれ、一体が二体になり、離れ離れになった。二体で完全体になる故、人はその片われを探し求め生きる。それが愛の形であり起源。ということらしい。

 

ヘドウィグは自分のアイデンティティ、ジェンダー(男とも女とも言えない、しかし女でありたいという不完全な体への嫌悪)に悩み、思うのと違う現実に生きることがつらくて、どうしていいかわからなかったのかも。自由の象徴でもあるロックに惹かれたのは、自身を放ちたい一心かもしれない。

 

ミュージカルだったと知って、2年だか前に三上博史でやってたのを思い出した。初演も三上博史だったということで、観に行きたかったけど上演期間が短くチケット取り損ねたのだった。やはり舞台で観たい作品だった。次にあれば絶対観たい。

 

★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

ネタバレ少し。

 

バンドメンバーのイツハク(ミリアム・ショア)もゲイ。というかドラァグクイーンになりたかった人。ヘドウィグの手前それが出来ない。印象としてニューハーフと言われる部類というか、ヘドウィグより女性っぽい。バンドにクイーンは二人いらず、イツハクは男性っぽいなりをしている。ヘドウィグに疲れを感じてバンドを抜けるタイミングを狙っていたところへミュージカルのオーディションを見つける。合格し、バンドを去ろうという日、バンドはバラバラになる。それぞれの道を行ったはずだが、イツハクはうまくいかなかったのか、ヘドウィグのところへ戻ってくる。

 

トミーとはバンド解散後、トミーのリムジン車の中での和解のシーンがある。トミーはヘドウィグを想う気持ちを処理できなかったようだが、話すことで許し合える。しかし甘いキスシーンの直後事故が起こる。幸い命は助かるがスキャンダル化と同時にヘドウィグも注目され始め、バンドメンバーも戻って人気が出る。そこには腑抜けになったイツハクもいた。打撃を受けてるイツハクへの気持ち、トミーの深い謝意と慈しみ(替え歌だがトミーオリジナルの歌詞から読み取れる)に対する気持ち、表現手法であるロックへの気持ちから、自分自身を受け入れるヘドウィグは、これまでのスタイルを脱ぎ捨て、ありのままの自分でステージに立つ。そしてイツハクにはドラァグクイーンとして生きる道を与える。