『燕 Yan』(2020)
監督 今村圭佑
脚本 鷲頭紀子
水間ロン、山中崇、テイ龍進、平田満、一青窈、長野里美、田中要次、宇都宮太良(うつのみやたいら)、南出凌嘉(みなみでりょうか)、林恩均(リン エンジュン)、他。
以下、内容と解釈がごっちゃになった、文章的にもまとまりのない感想になります。すみません。
早川燕(水間ロン/幼少期:宇都宮太良)は癌を患い後始末をし始めてる父親(平田満)に呼び出され、久しぶりに実家を訪ねる。実家には明るく頼もしい継母(長野里美)がいる。実母(一青窈)と父親は燕が5歳の時に別れたのだ。実母が生まれ故郷の台湾へ、兄の龍心を連れて帰るという形で。確かに、なかなか日本語に慣れない、台湾の文化を生活に持ち込む台湾人の母親の存在は、まだ幼かった燕の自尊心を傷つけもした(燕は実母に「イェンイェン」と呼ばれていた。燕は台湾語でイェン)。けれど、まさかいなくなるなんて、しかも兄だけをつれて…と、燕は捨てられたことの事実の方が、成長するにつれて大きくなっていった。そして連絡を取り合うこともなく、亡くなった実母の葬式に出向くことさえもなく月日は過ぎた。
さて、父親の頼みは借金があるために相続を放棄するよう龍心のサインを得てきてくれというものだった。本来であれば父親が直に出向けば済むことだが、父親は父親なりにわだかまりを持った兄弟関係の修復、そして実母がどんなにか燕を愛していたかを肌で感じとってもらうためにも、台湾に行き、龍心と会うことを望んだのだった。
いざ台湾に着いてみると、騒がしく、燕は不快感をあらわにする。それは幼い頃からの実母への恋慕の裏返し、抵抗のひとつなのかもしれない。
龍心の友人だというトニー(テイ龍進)を介してようやく会えた兄龍心(山中崇/幼少期:南出凌嘉)には子供(林恩均)がいた。離婚していて、たまに会う存在。ちょうどその子供が緩和剤的存在にいるのだが、龍心は壁を作り、燕は線を越えられない。けれど、トニーの悩みを聞いた燕は龍心にようやく本心をぶつける。
言いたいことを言い合い、母親の愛の深さを知り得た燕、燕が自分と同じように苦悩していたことを知り得た龍心。今後のそれぞれの生き方が変わっていくかもしれないし、まだまだ自我と向き合う時間が必要なのかもしれない。そんな感じの終わり方だった。
龍心が離婚しているのは、おそらくハーフであるということと関係があるのではないか。この作品のテーマでもある人種の問題だ。
台湾人でも日本人でもない、日本にいたかったけど、自分が母親についていかないと母親が心配だという犠牲心が働いたと思える龍心の選択。龍心は龍心なりにうまく歩めていなかったのだ。それが兄弟喧嘩で現れる。痛々しい。
ハーフである苦悩が子供にあり、そんな子供を他国の社会で育て、自身も生活していかねばならない、文化の違いが母親に重くのしかかる。愛しているからだけでは乗り越えられないこともある。切ない。
大人になったらなったで龍心の我慢の人生が悔いとなって生活に現れる。どちらの国の者でもない自分をおさめきれない苦しさがよく描かれていた。親の愛情だけでは乗り越えられない多感な子供時代は特につらい。
龍心の子供に自分は台湾人と日本人、どっちに見えると聞くシーンが最後の方にある。どっちでもいいよと答える。子供はわがままで残酷で正直で、基本自分以外のことには無関心だ。それが大人のこだわりに響く。
他人ではない、近しい人間でもない、自分の中に二国の人種がいるのだ。どちらの国に暮らそうと、折り合いをつけるのは難しい(かもしれない)。
兄にくってかかる弟の立場、喧嘩から気持ちの吐露にうつる過程も丁寧でいい。その前に中国人であるトニーの居場所のない自身へのジレンマ、悩みが話され、きっかけとなるのもいい。
もちろん借金を子供に残さない策ではあっても、父親が設けた兄弟の和解(およそ23年ぶりに会う)…というか相互理解のチャンスというそんな親心も良い。
監督がこれまでカメラマン、撮影監督をやってきたということで、光の使い方、何を写すと効果的か、その画で語らせることに力を注いでいるようで、映像が雄弁。役者の、殊更水間ロンの表情が各シーン良くて、その表情をとらえる監督、素晴らしい。映像力がすごい。幼い頃母がまだいる時暮らした実家の様子、思い出につながるものがチラホラと面影を残している映像は秀逸だった。
子供と親とどちらの愛が長く続くか、無性の愛について言及するところもある。一般的には愛は親の方が強いかもしれないけど、一生親が親であることは変えられない。切っても切れない、そういう関係で繋がっているのだと改めて思った。
映画って2度見ると見えなかったものが見えてきて驚いたりする。
とても良かった。
★★★★★
燕は台湾で生まれ、季節がくると海を渡って日本へ行く、とあった。台湾に限らず、東南アジアの燕が渡って来るようだ。まさに、生まれも育ちも、終の住処も、本人が心地よく過ごせればそれがどこであろうといいのだ。そのくらいおおらかになる人間力が試されるような映画だった。
私はまだまだ小さい。