『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)
監督 黒沢清(『アカルイミライ』『贖罪』『散歩する侵略者』他)
脚本 黒沢清、万田邦敏
洞口依子、伊丹十三、加藤賢崇、麻生うさぎ、暉峻創三(てるおかそうぞう)、他。
田舎に住む秋子(洞口依子)は高校時代好きだった吉岡先輩(加藤賢崇)を訪ねに東京の大学へやってくる。吉岡の所属している音楽サークル「ベラクルス」を探し当てのぞいてみるが、そこにはセックスしている学生がいるだけ。次なる手がかりは心理学の平山ゼミ。開放されたキャンパスを歩き、自由な学生たち、さもするとハレンチとも言えるその生態、その恥知らずさにがっかりする。
先程セックスに興じていた女学生エミ(麻生うさぎ)に案内され平山ゼミにいくことになり、そこで新自由心理学を提唱する平岡教授(伊丹十三)と出会う。そしてようやく吉岡を見つけられたかと思ったら、その吉岡までもがエミとセックスをしており、変わり果てていることに失望してしまう。そのエミにいたっては誰とでもセックスし、秋子がそこにいるにも関わらず自慰行為をするような女(この映画のテーマにもなっている「恥とは」を強調させたかったのだろう)。そして平岡は若い娘への「辱め」に執着しているきらいがあり(学問に昇華させるものではなく、ただの性癖ではないかな)、ついに秋子に恥ずかしさに関する実験の協力を依頼する。
恥ずかしさについて考えよう、何をもってして恥ずかしいとするのか、裸が恥ずかしいのか、行為が恥ずかしいのか、いったい、恥ずかしさはどこからきてどう他や己へ影響するのか(意訳)…。
処女ではないことから秋子は自分がエミら大学生と何ら変わらぬ恥知らずであると平岡に言う。しかし平岡は極限的恥を求め秋子の体を開く。果たして、実験でいったい何がわかったというのか…。
恥どうのでなく、人間の持つ性欲を特徴づけて見せただけ。
これ、もともと日活ロマンポルノ用作品だったらしく、タイトルもそれらしいものだったらしいが、没り、編集し直して一般で出した作品とのこと。随所にポルノ色は見られるが、この時代性もあり、前衛的とも見れなくもない。「なぜ」の問いや、ドレミファの絶対音についてを追求する哲学的シーンがあったり、観念的な映像の羅列があったり、途中ミュージカル調になったり。なんていうか、とんがってるというか、今にして「若いな…」といった印象の作品。良い意味では時代性が見える。
私は映画には詳しくなく(本当に観ていない)、時代性もわかるかっていったらわからない方なのだが、なんでもゴダール及びヌーヴェル・ヴァーグへのオマージュが入っているらしい。長回しだったり、やたら正面アップで語らせたり、わざと画面を荒くしたり、シーンのつなぎに関連性がなかったり、棒台詞だったり、奥行きを意識した構図だったり、大学校舎が舞台になっているはずなのにそこにあるはずのない海や河川が組み込まれたり(つまり場面が飛ぶ)…のことかな? わからん。
この作品が発表される少し前、80年前後は音楽にしても若者文化にしても欧米からの新風が入り、影響を受け日本独自の(サブ)カルチャーも湧き上がってきた時でもあり、男女ともにスカして斜に構えたようなものがカッコよかった(印象)。その一方で、エロもとことん表現されていて、女性の体は60〜70年代の学生運動〜ウーマンリブと地続きでだいぶ解放されていた(印象)。これからすぐ後にバブルがやってくる。なんだか、その前兆も感じるような作品だった。
面白いかと言えば、面白くない。
高校が同じだったテルオカ君(暉峻創三)の登場、フリップを持ちバケツを叩いてる演劇サークルのような集団の存在理由もわからなかったし、ラスト、銃撃に逃げ隠れする秋子含む彼らがやってる死闘の意味もわからなかった。そしてブラームスの子守唄である。
伊丹十三若い。
★★(★)
CMNF(Clothed Males and Naked Females=服を着た男性と裸の女性)としても注目されてるようだけど、時代なのか、まったく違和感もなく特に刺さるものもなく。では絵画など芸術作品についてはどうかといえば、マネやティッツァーノ、そのシチュエーションでは不自然で違和感を感じる。そう思うのは、シチュエーションと実際着装している者たちとの落差があるかないか。普段着レベルに裸婦なんて、珍しくもない。そういう時代になってしまったのかもしれないし、もしかしたら元から差異がないものにはそうなのかもしれない。意味を持たせる意味もない。
そういえば、普通エンディングロールとなるキャスト&スタッフクレジットがオープニングロールとなって流れる小技。当時なら「おおっ!」となったかもしれないが、現代ではとんがり具合がうかがえるだけだった。やはりオーソドックスなスタイルに勝るものはない…のかもしれない知らんけど。