香炉峰の雪 | もとろーむの徒然歳時記

もとろーむの徒然歳時記

山が好き、花が好き、クラッシック音楽や絵画、演劇に歴史好き…気ままに書かせて頂いています。

 

2月の末、今シーズン最初で最後のスキーです。

 

朝食を終え、板を履く前に、美しい遠景を楽しみました。

 

   雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子(みこし)まいりて、炭櫃(すびつ)に

   火おこして、物語などしてあつまり候(さぶら)ふに「少納言よ、香炉峰(こうろほう)   

   の雪いかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、 

   笑はせ給ふ。

 

 

枕草子の一節です。

 

雪が見たいから、すだれをあげるように、と言うところを、

 

中宮定子(藤原道隆の娘で一条天皇の妻)は

 

「香炉峰(こうろほう)の雪いかならむ」とおっしゃったところ、

 

定子に仕えていた清少納言は、白楽天の句、

 

香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る

 

を思いだして、すだれを上げたのでした。

 

平安時代の宮廷女性たちの教養をしのばせる有名な一場面です。

 

香炉峰とは廬山(ろざん)連峰の中の一つの峰で、

 

作者の白楽天は当時の江州の司馬に左遷されて

 

廬山の香炉峰の下に居をかまえており、

 

七言律詩をその居の壁に書き記しています。

 

その中にこの句があります。

 

 

                  

日高睡足猶慵起

小閣重衾不怕寒

遺愛寺鐘欹枕聴

香炉峰雪撥簾看

匡廬便是逃名地

司馬仍為送老官

心泰身寧是帰処

故郷何独在長安

 

白居易「香炉峰下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁」第四首

 

        日高く睡(ねむ)り足りて 猶(な)お起くるに慵(ものう)し

        小閣に衾(しとね)を重ねて寒きを怕(おそれ)ず

        遺愛寺(いあいじ)の鐘は枕に欹(そばだ)てて聴き

        香炉峰(こうろほう)の雪は簾(すだれ)を撥(かかげ)て看る

        匡廬(きょうろ・廬山)は便(すなわ)ち是れ名を逃るるの地

        司馬は仍(な)お老いを送るの官為(かんた)り

        心泰(ゆたか)に身寧(みやすき)ところこそ是れ帰処(きしょ)なり

        故郷は何ぞ独り長安にのみ在らんや

  「香炉峰の下に新たに山居を卜し、草堂初めて成り、偶々(たまたま)東壁に題す」

 

        日は高くなり、睡眠は足りているが、まだ起きるのは億劫だ

        小さな家でふとんを重ねているから、少しも寒くはない

        遺愛寺の鐘は枕を傾けて聞き

        香爐峰の雪はすだれを高く上げて眺める

        匡廬(廬山)こそは、これ隠遁の地

        司馬という役職もまた老人用の閑職だ

        心も身も安らかな所は、すなわち私が帰るべき場所だ

        長安の都だけがふるさとではない


   

 

枕草子には

 

「書(ふみ)は文集(白楽天の白氏文集)」という一節があり、

 

和漢朗詠集には白楽天の句が圧倒的に多いなど、

 

白楽天は長安、洛陽で人気があったばかりではなく、

 

日本の平安宮廷においても

 

人気のあった詩人だった事が分かります。

 

それにしても一条天皇の中宮、定子(ていし)に仕えていた

 

清少納言は

 

「香炉峰の雪は」と言われてすぐに

 

簾をあげると思いついた機転が、大変人々を感心させたようです。

 

このことは、

 

清少納言にとっても大得意であったとみえて、

 

最初の、笑はせ給ふ。の一段に続けて、

 

    人々も「みなさる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ、

    なおこの宮の人にはさるべきなんめり」と言う。

 

白楽天のあの句はみな周知のことであるが、

 

とっさの場合に思いもよらなかった。

 

やっぱり宮仕えにふさわしい人なんだなと、

 

人々が感歎したというのです。

 

つまりこれは自慢話ですから、

 

なくてもいいような気がしないでもありません。

 

さきの「笑はせ給う」で終わっていても十分のような気もしますが、

 

やはり一言書きたかったのでしょう。

 

しかしこの清少納言の漢文の教養も、紫式部からみると、鼻についたようで

 

「紫式部日記」には、

 

   清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち

   真名(漢字)書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり。

 

あのようにかしこそうなふりをして、漢字を書きちらしてはいるが、

 

まだまだ不十分なところが多い。と書いています。

 

 

 

清少納言が仕えた一条天皇の中宮、定子(ていし)は

 

藤原道隆の娘であり、

 

紫式部が仕えた中宮彰子(しょうし)も一条天皇の中宮であり、

 

一人の帝に二人の皇后をとらせた

 

一帝二后を、強引にすすめた道隆の弟、藤原道長の娘ですから、

 

二人は従姉妹同士です。

 

もっとも彰子が入内した翌年に、定子は亡くなっています。

 

紫式部が彰子に仕えたのは、それよりあとのことなので、

 

紫式部が宮中に上がったころには

 

清少納言はもういなかったと言われています。

 

ですが、評判の才女と言われていましたから、

 

何かにつけて宮廷内の話題になっていたのでしょう。

 

さきの紫式部日記では、明らかに清少納言への対抗意識が感じられます。

 

ちょうど今、NHKの大河で光る君へを放送しているので

 

「香炉峰の雪」を思い出して書きました。

 

香炉峰の雪は簾を撥(かかげ)て看る。

 

遥か平安の風情にこころ奪われます。

 

因みに藤原道長は三人の娘を三人の天皇へ入内させ、

 

一家三后をなし、

 

天皇の外戚として摂関政治の最盛期を築き、

 

強大な権力を手にしています。

 

それを表す自信に満ちた和歌を残しています。

 

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば