里山散歩 ~山行の合間に~ 武甲山と秩父②完 | もとろーむの徒然歳時記

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山が好き、花が好き、クラッシック音楽や絵画、演劇に歴史好き…気ままに書かせて頂いています。

 

山麓の町  尾崎喜八

 

 田舎町の小さな停車場を出ると、

 往来の向うにずらり、

 口元秩父の連山の壁だ。

 武甲山の鉄兜にはまだ朝の爽かな影がある。

 鳥首の頭がほんのり薔薇いろに染まっている。

 日を浴びた笠山は

 あおあおとした天に吸わせる巨大な乳房だ。

 

 岩石学的で地質学的な町、

 朝の山々を背負った此の明潔な町では、

 物の釣り合いがすべて小さく見え、

 存在が無機物のようにかっちりしている。

 空気でさえ切れば切れそうだ。

 そよふく風にも稜かどがある。

 山の硬度を誰がはかる。

 荒い柘榴石色(ざくろいろ)の、くすんだ辰砂色の

 山のあの露出部、

 あれが風のつけた擦痕だ。

 

 今朝がまるで学生時代を想わせるから、

 この見知らぬ町が実に純に、実に平和に

 その小さい生活を楽んで始めているから、

 軒下の流れで朝の食器を洗っている一人の娘に、

 五万分の一の地図をひろげて、

 人間同志の心安さで僕は路を相談する。

 娘はスペクトルの滴る両手をエプロンで拭いた。

 

 それから帽子をかぶり直し、

 ルックサックの留金をもう一孔ひとあなつめて、

 柄長の群れる爪先上りの町はずれから、

 たちまち風が歌う祝別の歌に包まれながら、

 あの山々の中に燦然と砕かれた自分を見出そうと、

 僕は行く。 

 

 

前回の続きになります。

 

山に囲まれた秩父への道はどれくらいあるのでしょう。

 

有名な街道は3つあります。

 

ひとつは熊谷通りです。

 

熊谷市石原、国道17号の旧中山道から分かれ、

 

荒川沿いに大麻生、小前田、寄居、皆野、黒谷を経て大宮郷(秩父市)へと至り、

 

更には荒川村、大滝村を経て雁坂(かりさか)峠を越えて

 

甲州街道に入る秩父往還(おうかん)です。

 

こちらは長い間、車の通行を阻んできた径ですが、

 

平成10年4月23日に構想から40年、雁坂トンネルが開通しています。

 

これによって秩父の大滝村と山梨県の塩山市が

 

トンネルでつながりました。

 

 

もう一つは、川越通りです。

 

日本橋から板橋、白子を経て川越に入ります。

 

さらに高坂、小川、安戸、坂本から粥仁田(かゆにた)峠を越え、

 

三沢の広町で山通り道と一緒になります。

 

広町では、旅人宿、茶屋、馬継の立場などがあって賑わっていたそうです。

 

ここには

 

三角の自然石の道標があって、蕎麦粒石と呼ばれる道標があります。

 

これには

 

右、安戸・河越(川越)、左、鉢形・熊賀谷(熊谷)

 

と彫られています。

 

秩父は長い歴史の間、上州、信州、甲州とのつながりが深かったのですが、

 

徳川時代になると江戸との関係が強まり重要な交易路になります。

 

明治の中頃まで川越河岸で舟から降ろされた米は、

 

馬でこの径を通り粥仁田峠を越えて秩父へ入っています。

 

 

最後は吾野通り(あがのどおり)です。

 

甲州街道の内藤新宿から分かれた、青梅街道の田無が出発点。

 

所沢、入間、飯能、吾野を経て、正丸峠を越えて秩父に入ります。

 

秩父からは熊谷通りの秩父往還と一緒になり、

 

雁坂峠を越え、

 

再び甲州街道に接続していたので甲州裏街道の名前がついています。

 

明治末期に秩父鉄道が熊谷から入るまでは、

 

江戸や八王子に通じる交通路だったようです。

 

昭和11年に県道として開通していますが、

 

以後299号となっても標高636mの峠越えの車道は、

 

カーブの多い難所で事故が絶えなかったため、昭和54年12月正丸トンネル着工、

 

昭和57年11月20日に全長1918mの正丸トンネルが開通しています。

 

これで車で30分かかっていた峠越えが

 

わずか2、3分で越えられるようになって今に至っています。

 

私も秩父に入る時はこの道を使っています。

 

この3つの通りが有名な街道ですが、

 

長い時間を経た今日でも、

 

その姿を舗装道路やトンネルに変えただけで現在も使用され、

 

重要なライフラインとなっています。

 

 

 

この吾野通りを秩父に向かうと、秩父の入り口に武甲山があります。

 

秩父盆地の南に立ちふさがるようにそびえ立つ独立峰であり、

 

山体をほぼ東西に延ばし、東西約6㎞、南北約3.5㎞にわたり

 

秩父盆地の南端に兜をふせたようなどっしりとした山容でそびえる山です。

 

秩父盆地を取り巻く奥武蔵や、隣接する上州の山々のなかでも

 

標高はさほどでもありませんが、山体は前に述べたように図抜けて大きく、

 

独立峰ながら他の連山を圧するものがあります。

 

この歴史ある町でこれだけ風格のある山が、

 

ただの秩父の裏山としてほっておかれるわけがありません。

 

「新編武蔵風土記稿」の記述は面白いです。

 

「一に秩父カ嶽とも云えり、この山は武蔵国第一の高山にて、世に聞こえたる名嶽なり、

 

秩父はもとより山国にて、万重の山多きが中にも、

 

最も高く聳(そび)へたれば、秩父カ嶽とよべるも理なり、

 

山はもより一石山の如くにて、盤厳峙立し、高く青宵(せいしょう)にて聳て、

 

郡中の連山みな波涛(はとう)のごとく、

 

茲(ここ)に奔走するに似たり、晴渡りたる時、頂上より下し見れば、

 

群中の山川村落を始め、遠くは房総の海涯までも掌上(しょうじょう)にみるが如きも、

 

暫時に雲霧足下に生じ、咫尺(しせき)を弁ぜるありさま、

 

実に高山たること知りぬべし、

 

頂上はすこぶる平坦ありて、本社および末社等等羅列して往々にあり、

 

本社より二町許も後ろの方に至れば、白石兀立(こつりつ)し、

 

或いは洞窟などありて、いと奇石多し、

 

日本武尊(やまとたけるのみこと)の碑と称せるもの茲に立てり。」

 

 

 

最初にこの文を読んだと時、

 

晴れていれば千葉の海まで見えるとは大袈裟な。

 

と内心思っていましたが、

 

ある時、都内から奥武蔵の連なりを見ていると、

 

後ろから頭一つ飛び出た、武甲山を見つけて驚きました。

 

全然大袈裟ではなかった事と、

 

当時はある理由でまだ標高が今より高かったはずなので、もっと山自体、

 

大きく見えた事でしょう。

 

標高だけで言えば、武蔵の国で一番高い山と言えば、

 

東京都には2017mの雲取山があり、

 

埼玉県には2483mの三宝山があり、神奈川県には1673mの蛭ケ岳があります。

 

この3座とも登りましたが、

 

新編武蔵風土記稿の言うとおり、

 

独立峰ではなくこの3座とも言うなれば、連山の一つ大きなピークになります。

 

武蔵国第一の高山の称号は

 

町の裏山のように近接した場所に

 

いきなり巨大な山が圧倒的な存在として聳えている事で

 

与えられえたものでしょう。

 

 

更に面白いのは

 

「御嶽山社頭来由記」には、

 

日本武尊(やまとたけるのみこと)が、この山に陣営をつくり、秩父周囲を治め、

 

「帰陣なし給ひ群臣に告げて宜く。このあと千歳、逆臣なからしめんと

 

自ら着し給ふところの鎧を解かせたまひ、岩倉に治め給ふ。

 

武器を蔵めたる国ならば東国を武蔵の国と号へし」

 

武蔵の国の由来はこの武甲山であると読めます。

 

 

遥か昔にあって当時のこの山を畏敬する様が良く分かります。

 

先に書いた秩父神社のご神体は

 

まさにこの山そのものであったというから豪快な話です。

 

もともとこの山を形成しているのは秩父層です。

 

石灰岩や輝緑凝灰岩(きりょくぎょうかいがん)やチャートから出来ています。

 

つまりセメントの原料です。

 

これが武甲山はじめ、周辺の山に悲劇をもたらしています。

 

武甲山から一直線上にある

 

西上州の叶山(かのうさん)という山があります。

 

こちらはかつては標高1106mあったのがセメントの原料として削り取られ、

 

いまでは標高が961mになっています。

 

実に145m分削り取られた事になります。

 

もちろん、このセメントは社会の発展の文字通り基礎となっているので

 

有用性は理解しています。

 

 

 

そして武甲山も今、同じような事が起きています。

 

その始まりは江戸時代、

 

漆喰の原料として石灰岩が掘られ始めた事に遡ります。

 

その後、

 

大正8年頃から小規模ながらセメントの材料として注目され、

 

開発が始まります。

 

昭和30年代からの高度成長期には本格的な開発が始まり、

 

昭和54年5月7日よりあるセメント会社によって、石灰岩の大規模な採掘が行われた為、

 

山頂は無くなり、また西尾根の大部分が消滅し、

 

北面の多くは削り取られ、植物は一切無く、

 

人口的な段差は異様な山容を見せています。

 

武甲山の現在の標高は三角点のある場所で1304mで、

 

もともとあった標高は1336mですので、

 

32mほど削り取られた事になります。

 

この採掘作業は聴くところによると既に

 

山体内部に大型の重機の行きかうトンネルが掘られ、

 

内部からも採掘されているという話も聴きます。

 

 

この山頂を掘る際には、

 

調べた限りでは大きな反対運動は起きなかったようです。

 

あるにはあったようですが、盛り上がらなかったとか。

 

地理的関係から景観の大きな変化をうけるのは秩父の方々に限られ、

 

その方々の多くが

 

この武甲山から産出するセメント工業になんらかの形で関係されているようですので、

 

当然の事でしょう。

 

武甲山も高度成長期から現在までまさに骨身を削って、

 

しっかりと日本の発展を支える大役を担った山なのです。

 

 

昭和50年の「山と渓谷」の12月号には

 

「山頂の御嶽神社の社殿が100m離れた場所に移転、

 

上屋と拝殿が新築された。移転費用3800万円は採掘中の3つの企業が負担し、

 

神社側は「神社独自ではとても改修できず、

 

社殿を寄付してもらい感謝している。」と言っている。」

 

とありました。

 

また、昭和54年5月4日付の読売新聞の「いずみ」とうコラムには

 

次のような記述があります。

 

「埼玉県秩父地方の名峰、武甲山で3日”最後の登山”が行われ、

 

開山以来最高の約5千人で賑わった。

 

秩父自然保護委員会などが反対したが、秩父市議会が実質的に許可し、

 

7日から全面登山禁止にして採掘が開始されることになっている。

 

記念の登山が市教育委員会の手で企画された。」

 

色々と紆余曲折がり、苦しい判断もあったのかもしれません。

 

今では登山も出来るのですが、


私が登った時もサイレンがなり、発破の音が木霊していました。

 

 

この歴史深い町の盟主であった武甲山は、

 

今後も姿を変えていく事でしょう。

 

あの時代、今の秩父ガ嶽の姿を、誰が想像し得たでしょう。

 

ご自分の甲冑を奉納し、戦勝祈願した山の頂上が無くなるとは、

 

日本武尊でも想像できなかった事でしょう。

 

最後にもう一度「新編武蔵風土記稿」の記述を読みたくなりました。

 

 

「一に秩父カ嶽とも云えり、この山は武蔵国第一の高山にて、世に聞こえたる名嶽なり、

 

秩父はもとより山国にて、万重の山多きが中にも、

 

最も高く聳(そび)へたれば、秩父カ嶽とよべるも理なり、

 

山はもより一石山の如くにて、盤厳峙立し、高く青宵(せいしょう)にて聳て、

 

郡中の連山みな波涛(はとう)のごとく、

 

茲(ここ)に奔走するに似たり、晴渡りたる時、頂上より下し見れば、

 

群中の山川村落を始め、遠くは房総の海涯までも掌上(しょうじょう)にみるが如きも、

 

暫時に雲霧足下に生じ、咫尺(しせき)を弁ぜるありさま、

 

実に高山たること知りぬべし、

 

 

この記事を書いている途中、朝日新聞の記事が目に留まりました。

 

載せておきます。

 

 

駆け上がる山車 最高潮 秩父夜祭・大祭に29万人

 

秩父地方に冬の訪れを告げる秩父市の秩父神社の例大祭「秩父夜祭」は3日大祭を迎えた。

 

京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに日本三大曳山祭に数えられる伝統の祭り。

 

国の重要無形民俗文化財で、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている。

 

2日の宵宮で引き回された屋台4基に加え、この日は2基の笠鉾も登場し、

 

全6基の山車が午前中から市内を巡った。

 

曲がり角にくると重さ十数トンの山車をテコ棒を使って持ち上げ、

 

ぐるりと方向転換する「ギリ回し」が披露され、訪れた観光客らが拍手を送ったり、

 

スマートフォンで映像を撮ったりしていた。

 

夕方。秩父神社に集まってきた6基の山車の提灯には明かりがともった。

 

沿道を埋めた人たちが見守る中、太鼓や鐘が打ち鳴らされ、

 

山車が次々と市役所前の「御旅所」に向かって行った。

 

最高潮に達したのは、御旅所のすぐ手前にある25度の「団子坂」を山車が駆け上がる場面。

 

「ホーリャイ、ホーリャイ」の掛け声とともに

 

一気に引き上げられるとともに歓声がさらに大きくなった。

 

冬空には約5千発の花火。約29万3千人の観客が華やかな祭りに魅了された