肌寒さの残る夜気が身体の芯まで染み渡り、先程まで興奮状態にあった<探偵>の、心の底でくすぶっていた闘争心を鎮めていた。
あれから結局、<博士>の遺体は骨の欠片さえ見つけることができなかった。状況から考えれば助かるはずはない。しかし亡くなったと断定するのも早すぎ、今は行方不明の扱いにするしかなかった。だからだろうか。複雑な気持ちを抱えた<探偵>は、<博士>が悪魔にそそのかされたであろう場所を訪れ、残骸としか言えない光景を前にして立ち尽くしていたのである。
ここは<財団>研究施設の中庭。先週の事故で建物の半分を吹き飛ばした研究棟が<探偵>の目の前で無惨な姿を晒している。墓標とでも言うべきか……。炎上の痕跡はもちろんのこと、薬品と焦げ臭さが混じったような独特の匂いが、辺り一帯にこびりつくように残っていた。
見渡せば周囲の木々には、突き刺さった破片、破片、破片……。中には爆風でなぎ倒された木々もある。あの日の惨劇が、まるでトラウマのように至るところにダメージを刻んでいた。
つい先週のことなのに、ここだけ時間の流れから取り残されたような感覚。負傷者40名、死者70名、行方不明者6名……。冷たい壁面には犠牲者の顔写真や花束が添えられ、人々の心の中では、事故が依然として収束していないことを物語っていた。
笑顔で写った写真、愛する者とのなにげない一枚……その中に、問題の女性の写真も混じっていた。そう、<博士>の懐中時計の中で微笑んでいた、あの写真の女性だ。
「その女性は<博士>と挙式を挙げる予定でした、探偵さま。しかしその3カ月前に遺物の暴走事故が起きて……」
立ち尽くす<探偵>の背後から落ち着いた紳士の声。<令嬢>つきの、いつもの執事だ。
「やはりここにおいでになったのですね。<博士>の事情をお伝えした時に、そんな気がしました」
だが<探偵>は応えず、目を合わせることもなく淡々と告げる。
「接触はご法度では?」
「いまの貴方さまは<怪人影男>ではでございません。それに貴方さまと<財団>の関係は、今さら隠す必要はないかと。ただ、慎重に……とお考えでしたらご自由に」
<探偵>が横目でチラリと執事を見やった。
「貴方さまもよくご存知のはず。遺物は必ず<財団>の研究施設に運び込まれます。例外などありません。お忘れですか? 貴方さまがはじめてここに運び込まれた日のことを」
「……それで?」
<探偵>はズボンのポケットに両腕を突っ込みながら、わずかに白い息を吐いた。
「<博士>はその女性と挙式を挙げるつもりだった、しかし事故が発生した……。それで?」
「……ああ、これは失礼しました」
そして執事は遺影に向かって軽く手を合わせると、静かに目を閉じ、それから続けた。
「探偵さまは想像できますか? 日々を過ごす研究室の目の前に、婚約者の墓標とも言える事故現場が生々しく爪痕を残している……そんな状況に置かれた男性の心情を。まともに目を向けることなどできないでしょう。研究に集中するなど論外です。目を閉じても開いても、視界の中ではつねに、愛する人の幻影が明るい笑顔を向けている。それはそう……まるで、呪いのように……」
「…………」
「もしも生き返らせることができるなら……。そう思うのは<博士>だけではありません。道を誤ったとはいえ、哀れな<博士>を誰が責められましょうか?」
<博士>が<スイッチ>と引き換えに得ようとしていたのは、<ビックリマン>と呼ばれる遺物の一枚だった。それは小さな紙のご神体で、それぞれに神と天使と悪魔のいずれかが描かれている。
ご神体はもともと<教団>が管理を任されていたが、かねてから対立を深めていた救済派と悪魔信仰派が内部のゴタゴタで分裂。その際、悪魔信仰派の信者が悪魔を印したご神体をごっそり持ち出して逃亡したのだ。その人物は現在「教祖X」を名乗り、悪魔崇拝集団「教団X」を組織して、裏社会で遺物の闇取引を行っているという。
<博士>が取引で入手しようとしていたのは、ご神体の中でもとくに尊いとされる、七色の輝きを放つものだった。噂では死者を冥界から甦らせるとの説もあり、<博士>はその噂に飛びつたというわけだ。
蘇らせたい人物はただひとり。今も行方不明者リストに名を連ねている、この写真の女性である。だがその<博士>もまた、動物園に突っ込んで消息不明となってしまった。
「憲兵隊が取引現場を突き止め、教団Xの信者を捕らえました。どうやら教祖Xによる口封じを恐れているようで、<財団>に身柄保護を求めています……」
壁面の遺影をまっすぐ見たまま執事が静かにそう言った。
「<令嬢>はなんと?」
<探偵>の視線の先……。研究棟最上階の窓に女性の人影があった。その人影はしばらく<探偵>の方を見ていたが、誰かに呼ばれたのだろうか、ドレスを翻して窓際から姿を消してしまった。少し、名残惜しそうに。
「お嬢様のことなら、私などより、探偵さまのほうがよくご存じでしょう」
「そう……だと、いいのですが……」
「…………。後ほど教祖Xに関する資料を送らせます。それと、先ほどもお伝えしましたが、そろそろ助手をお雇いになられてはいかがでしょうか? 私にも表の立場がありますし、そう何度もご希望に添えません」
「……いずれは」
「なるべくお早めに。それでは私はこれで……」
「それにしても……」
引き上げようとする執事の背中に、<探偵>が唐突に語りかける。
「こんな時間でも、月が綺麗ですね……」
「月? 月ですか? ええ、そうですね……。それでは……」
執事は戸惑いつつも、<探偵>の視線に釣られるようにして、払暁の空に腰を据えた月を見上げてそう言った。その様子を確認して<探偵>は心の中で「やはり」と確信する。執事には月として見えている<それ>。いつからだろうか、<探偵>には時々、不思議なものが見えるようになっていた。それが今、また頭上に現れていたのだ。
まるで本のページを破ったようにめくられた空の一部。その向こうには暗黒が広がっており、そこから巨大な眼がこちらを覗いていた。
それは虫かごを外から覗き込むような、好奇に満ちた純粋な<眼>。決して「こちらの世界」に干渉しない不思議な<眼>……。
それは執事も、ほかの誰も知覚できないのに、<探偵>だけは見ることができた。いつも数分で消えてしまうのだが、はたしてあの光景は<探偵>の妄想なのだろうか? しかしいくら悩んだところで答えなど出るはずはない。
<探偵>は、こちらを凝視するだけの<眼>を不快に感じながら、その場を後にした――。
【完】
次回 第一章<フィギュア>