上杉が中原たちに見せたのは、尋問室内の壁によりかかるようにして事切れたテロ協力者の屍だった。それは心霊写真に写り込む霊のように顔を歪め、灰色に濁った瞳をカッと見開いている。視界に一歩でも入ったなら呪われそうな、禍々しいものを発していた。
「……拷問、ですね」
遺体に屈みながら中原が誰にともなく呟く。彼はどうにか顔を近づけようとするのだが、遺体の腹部から流れ出た血だまりが彼を拒絶して、足元を探りつつの不自然な姿勢を取らざるを得なくなっていた。汚れていない床面を探しては爪先に体重をかけ、膝をつこうとしては、断念して新たな足場を探す。まったく面倒だ。それだけで手間を取らされてしまう。
「見づらいですよね。僕も先ほど調べていて、本当に苦労しましたよ」
緊張感のない声を発したのは上杉だ。そして「特に匂いが……」と顔を歪める。
確かに匂いも酷かった。原因は、猟奇殺人の現場を思わせる腹部の傷だ。内蔵が傷口から覗いているなんて普通じゃない。そのせいで腹部周辺は、バケツで血を浴びせたかのような有様で、衣類を摘みあげる中原の指先も赤黒く汚れていた。
「臭気強度4.2……行政から指導が入るレベルね。密閉空間だから余計にこもったんだわ」
眉ひとつ動かさずに不快感を示したのはミィだ。彼女は胸ポケットからペンを一本抜き取ると、遺体を覗きこむ中原の顔の横にさりげなく差し出す。その意味するところを察した中原は、遺体の衣類のまだ綺麗な部分で指先を拭ってから受け取った。
「ありがとう、ミィ捜査官」。そして血で汚れた衣類をそのペンでよけながら、「あなた、本当にロボットですよね?」と肩越しに確認する。しかし彼女はその意図を理解できない様子で「ええ、嗅覚センサーを無効にできるボディで良かったわ」と頷くのみ。中原はもう少し噛み砕こうかと思ったが面倒になり、「後で洗って返します」とだけ答えた。
「僕が先ほど調べた限りでは、衣類に異常はなくポケットはカラでした。右手の指輪も市販のものですし、漏洩した情報を聞き出した後に口封じをしたってところですね。これが奴らの目的なら、今頃はもう撤退してるんじゃないですか」
中原は「ふむ」と唸ると再び遺体に意識を集中させる。
「それにしてもこの顔……。こんなの初めてだ。僕も前の職場で拷問された人間をイヤというほど見ましたが、こんなのは見たことがありません。これは薬品……? いや……」
「“レンズ”ね」。断言したのはミィだ。「視神経からダイレクトに海馬に接続して、脳内電流の流れからここ数日の記憶を抽出したんだわ」
「超科学オブジェクトですよ、中原さん。僕たち強制執行チームも使っている一種の自白装置です。でもあれは、使い方を間違えると廃人にしてしまう……。見てください、この遺体。眼球がここまで濁っている……。よほどの出力でもなければ、こうはなりません。きっと脳ミソはドロドロに溶けているでしょうね」
「なるほど……」。頷くが、納得している表情ではない。「だとしても、尋問の段階ですでに死んでいるのに、なぜ腹を割く必要が……」
すると上杉が何かに気付いた様子で中原の隣にしゃがみ込んだ。そして遺体の右拳にはめられたシルバーリングに目を落とす。
「こいつは気がつかなかった……。見てください、中原さん。指輪に何か糸のようなものがついていますよ」
中原の本能が反応したのは、上杉が極細ワイヤーに触れた、まさにその時だった。
突如として胸によぎる“予感”。それは不安にも似た感覚で、彼の背中の産毛を逆立てた。こんな時は必ず悪いことが起こる。内務調査部の任務で“敵”と対峙した時は必ずこの感覚に包まれ、一瞬先の危機を察知していた。
例えば相手が銃を抜こうとした時、それに自爆スイッチを押そうとした時……。そのたびに彼は、相手より一瞬早く拳銃を抜き、驚くほど精密な射撃で難を逃れてきた。中原が内務調査部で特に危険な任務を与えられているのはこの資質のためである。
まるでスローモーションのように思える感覚の中、中原の脳裏に閃いたのは、爆発する遺体と、血まみれで倒れる上杉の幻影だった。しかしそれははっきりと認識できるほど明確なものでもなければ、じっくりと内容を吟味する時間的余裕もない。一瞬よりも一瞬。風のようにサッと吹いて、身体の中をすり抜けるようなものだ。だから情報としては「感じる」だけ。それが周囲の状況と合わさった時、中原はその感覚をある種の予知として認識する。
「執行官!」
そこからは無我夢中だった。“予感”がしたのとほぼ同時に地面を蹴った中原は、上杉と遺体の間に素早く身体を滑り込ませ、顔を庇うように両腕を頭の前で交差させた。遺体の中で拳ほどの火球が「ボウッ」と生まれたのはその時だ。それは中原の眼前で遺体の腹部を内側から焼き、四肢を引きちぎりながら大きく弾ける。
耳朶を裂くような爆発音は、猛烈な衝撃を伴って後からやってきた。
続いて中原を包むのは、弾き飛ばされ、宙を泳ぐ感覚。
次の瞬間にはコンクリート壁に叩きつけられ、思わず息を詰まらせる。
手榴弾の破片が脇腹に刺さったような感じもしたが、叩きつけられた衝撃がそれを上書きして感覚を鈍らせる。
「二人共、大丈夫!」
抑揚のない声を発しながら、中原と上杉の元にミィが駆け寄ってきた。平時よりやや早口になっているのは彼女なりに心配してくれているのだろう。中原たちと同様に爆風に煽られ、身体をしたたかに打ちつけられているはずなのに……。
「中原さん!」
慌てて駆け寄る上杉の姿は、室内と同様に酷い有様だった。遺体の血と肉片にまみれ、彼自身が重症を負ったかのように見える。まだ耳鳴りがしていた中原は上杉とミィが何を言っているのか分からなかったものの、唇の動きだけで二人の気持ちを汲み取る。そして肉片を手際よく取り除きながら彼の傷の具合を診るミィに「大丈夫」と小さく告げた。
「すみません中原さん! 僕がぼんやりしていたから……!」
上杉に言われてはじめて「ああ、そうか」と思った。中原としてはただプログラムされた機械のように本能に従っただけ。考えている余裕もなかった。しかし興奮する上杉を見ていると素っ気ない態度も取れず、ただ照れたように顔を赤らめながら「いや、まあ……」と言葉を濁した。
「……トラップね、遺体の腹部に手榴弾が埋められていたんだわ」。代わりに口を開いたのはミィだ。彼女はこれまで見たことがない、柔和な眼差しを中原に向ける。そして告げた。「こんな無茶をするのは、野比さんだけだと思ってた……」と。
反逆罪に問われている野比元捜査官の名が彼女の口を突いて出てきたことで、中原は何かを言おうとした。しかしミーティング・ルームを出る時に片耳に装着したコミュニケーターが、彼の言葉が形になる前に「ピピッ」と反応し遮る。
『大丈夫か、お前ら! こっちはカメラが死んじまった! おい返事をしろ!』
骨伝導ではっきりと伝わってくるのは、腹の底まで響くような剛田本部長の野太い声だ。
「……問題ありません本部長。ただ手掛かりをロストしました」
『そうか……無事ならいい。無事ならいいんだ、ミィ捜査官。手掛かりなら心配するな。武装集団が一斉に地下保管庫を目指している。おそらくこの世でもっとも邪悪とされる超科学オブジェクトが奴らの目的だ」
「邪悪?」
しかし上杉もミィも視線を落として中原の疑問に応えない。様々な想いが巡って混乱している様子だ。代わりに剛田本部長が反応する。
『……ああ、この世でもっとも邪悪な超科学オブジェクトさ。20年前に渋谷で “集団自殺テロ”を起こした悪魔のような道具……。アップルコードは13。通称“パスポート”だ』
……つづく