【とある女性元記者の手記】
今日、新たなテロ対策機関の設立が閣議決定された。その組織は情報収集等のインテリジェンス活動が主目的ではあるものの、独自の部隊を有し、強制執行も辞さない強権的な特別捜査チームである。いわば逮捕権のある公安調査庁のようなもので、当然のことながら野党は「時計の針を戦前に戻すのか!」と猛反発していた。しかし与党が議席の過半数を占める現状ではおそらく無意味だろう。野党議員が議長に詰め寄り、もみ合いになる様が今から想像できて思わず苦笑いがこみ上げる。
以前の私ならきっと、周囲と同調して与党批判の記事を書いていたと思う。しかし新テロ対策機関設立のきっかけが5年前の事件となると話は別だ。法のシステムでは対応できない脅威に、臨機応変に対処するにはこの方法しかない。あんな理不尽は、もう許してはならないのだ。それはなにも犯人に対する強い憎しみだけではない。あの少年たちがアドバイザーとして新組織に参加すると聞き、ならば暴走することはないと確信したからだ。
5年前に渋谷スクランブル交差点で発生し、現在は「渋谷集団自殺」と呼ばれる衝撃的な出来事――。あの事件はいまだ全容が解明されておらず、記者として犯人を追っていた私自身、ずっと複雑な想いを抱えていた。
事件を調べたくても、もうできない冷たい現実。記者としての道を閉ざされ、ただ涙するしかなかった日々……。だからこそ、このような捜査機関の発足は、私にとってわずかな希望だった。できれば私自身の手で真相を突き止めたい……。不可能なら、せめてこの想いを誰かに託したい。当時、私に情報提供してくれた少年少女ももう高校生だ。新組織のアドバイザーとして、きっと立派にやっていくことだろう。私の想いは彼らが引き継いでくれるに違いない。
こうして閣議決定の生中継を見て脳裏をよぎるのは、事件当時の苦々しい思い出だ。
――そう、5年前のあの日、私は現場にいた。あの惨劇の只中に。
今でも瞼に焼き付いている。文字通り血の海と化したアスファルトの上には、無数の骸が転がっていた。そこを、ピチャピチャと音を立てながら、救急隊員や難を逃れた通行人が怒号まじりに駆けまわっていたのだ。
辺りを支配するのは混沌のみ。いくつもの緊急車両が赤い回転灯を瞬かせながら次々と到着する中、報道陣も時間とともにその数を増して混乱に拍車をかける。そのうち報道ヘリが空気を振動させながら轟音とともに現れると、警戒にあたっていた警官たちが怒りに震えながら「行け! 行け!」と地上から手を振って追い払っていた。
私はその様子を目の当たりにしながら、何かを感じることができず奥歯を噛みしめていた。ただ周囲の様子を目で追い、絶望に飲み込まれるだけ……。最大の悲劇へと至る事件を追いかけていながら、みすみす犯人の身勝手な欲望を満たしてしまった。……そんな後悔だけが胸の奥からこみ上げる。そしてその後悔は熱い形となり、私の目からこぼれ落ちた。
犯人はこの蛮行を、サッカーの国際Aマッチが行われる休日を選んで行った。最大限の「効果」を狙ったのである。その目論見通り、休日の渋谷スクランブル交差点は、色とりどりの通行人と、ブルーのユニフォームを誇らしげにまとった若者が混ざり合い、溶け合いながら、大きなうねりとなってビルの谷間でさざ波を立てていたのだ。試合終了のホイッスルが鳴って3分も経たずにこれである。たちまち現場は身動きできないほどの人口密度となった。
犯人はそんなお祭り騒ぎを横目に悠然と現れると、交通整理にあたっていた警察車両の上によじのぼり、唐突にニューナンブM60を空に向け、引き金を引いた。そして何事かとスクランブル交差点から注目する人々に向け、たったひとこと、こう告げたのである。
「――死ね」と。
そこからは私自身、記憶が曖昧になっている。まるで靄がかかったように判然としないのだ。確か……犯人が横にいた警官の喉元に手を伸ばしたと思ったら、次の瞬間には、そこから勢いよく赤黒い液体が噴き出していた。それが殺人だと分かって吐きそうになるものの、犯人が掲げる手帳のようなものが「パパッ!!」と光を発すると途端に気分が良くなり、気付くと血の海の只中にいたのだ。途中の記憶はない。
当時、情報源のひとつとして交流を持っていた少年少女……新テロ対策機関ではアドバイザーとして参加することになった彼らによると、あの手帳はどうやら最先端科学のシロモノらしい。“パスポート”と呼ばれるもので、道徳心に背く行為や罪悪感といった感情を麻痺させるものなのだそうだ。
くわしい仕組みは分からないけれど、それはPTSDを治療するために開発された道具で、本来は帰還兵に対して使用するものだという。“パスポート”が発する激しい光は、眼球を通して脳の認知機能を麻痺させ、おもに嫌悪感を快楽に変えるのだ。
通常の用途であれば、戦場での生々しい体験を快楽に変え、心に負った傷をいやす。でも同時に悪意を持って周囲の人間に使用すれば、どんに悪事も許してもらえる免罪符にすることもできる。実際、犯人も最初は自らの悪事を「なかったこと」にしていたのだが、そのうち行為がエスカレートして、渋谷の事件へと至った。“パスポート”の使い方を熟知していた彼は、直前に見せつけた殺人の記憶を快楽に変え、自殺を誘発したり、殺人衝動を駆りたてて、スクランブル交差点にいた人々を殺しあわせたのである。
でも私は、そこまでの情報を掴んでいたにも関わらず、あの悲劇を許してしまった。犯人の正体だって突き止めていた。だからこそ、渋谷まで彼の後をつけることができたのに。それなのにスクープに目がくらんで見逃してしまった……。
あの少年少女の言葉を信じたのは私だけだった。止められたのは、私だけだった……。もしあの悲劇が起こる以前に……犯人が街のチンピラや不良少年を血祭りに上げていた頃に戻ることができるなら……。そう後悔しない日はない。
あの“パスポート”は人を悪魔に変える。
まるでそれ自身に意志があるかのように誘惑し、狂わせる悪魔のような道具。どんな善人でも、少しでも心に闇があれば、そこから侵蝕される。すると心は悪に染まり、やがて歯止めが利かなくなる。
実際、犯人の男もそうだった。彼は善良で、つねに正義が為されるよう願っていた。だから警官になり、派出所で人の良い笑顔を振りまいていたのだ。
決して忘れることができない。彼に助けられ、お礼を言うために派出所に現れたお婆さんのことを。彼女は横断歩道を歩行中に信号が赤になってしまい、パニックに陥ったところを彼に助けられた。そして自宅まで送ってもらったのだそうだ。
「……ええ、とても親切な方でしたよ」。お婆さんは笑みを浮かべながら語ってくれた。しかしそんな善良な男を、たまたま届けられた「落し物」が変えてしまったのだ。
犯人の同僚だった警官は、ため息交じりにこんな話をしてくれた。チンピラに対する自警行為が次から次へ発生していた時、同僚は明らかに様子がおかしかった、と。不気味な“手帳”を見つめながら、ニヤニヤと笑っていたらしい。そして形にならない言葉をブツブツと呟きながら、またニヤリ。まるで何か悪いものに取り憑かれているようだった……。
今回、閣議決定されたテロ対策機関は、そういった道具と、道具の悪用を阻止するための組織だ。なにしろ少年たちによると、同じような道具が、この世界には無数に存在するらしい。あの事件の犯人はその場で自殺し、“パスポート”も回収されたというが、少年たちの言葉が本当なら安心はできない。だから私はテロ対策機関の設立を歓迎する。あんな想いはもうたくさんだ……。
渋谷での事件から私の日常は一変した。なにせ現場にいたのだ、無理はない。
記者としての道は閉ざされた。なにより生活の場が、この小さな医療用のベッドの上だけになってしまった……。
――5年前のあの日、私は事件の現場にいた。あの惨劇の只中に。
あのような悲劇は、二度と繰り返してはならない。
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