またl0セソチと失なってゆけばどうだろうか | コピーブランド 販売店 のブログ

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ところがこの考えもうまくいかないのだ。もしわたしが足をもつのだとすれば、ちょうどカバソやお金と同じで、所有物は譲渡や交換が可能なものであるから、わたしはその足をなくしてもやはりわたしであるはずだ。交通事故で足や腕を失っても、わたしがわたしでなくなるわけではない。



では、下半身を全部失ったとしたらどうだろうか。それでもやはり、わたしはわたしでありつづけるだろう。では、胸から下、次に首から下と、さらに10セソチ、またl0セソチと失なってゆけばどうだろうか……想像するだけでだんだんおぞましい気分になってくる。けれどもこれはたんなる思考実験ではない。



医療においても美容においても、身体の一部を切除して、別の物体をそこに接続したり注入したりする作業はすでに行われている。それをどんどん繰りかえしていって、最終的に自分の身体が全部別のものと入れ替わったとしたら、それでもわたしはわたしだと言いきれるだろうか。



まったく別の皮膚をもったわたし、まったく別の顔をもったわたし……このとき、わたしは別のわたしになった(わたしはもとのわたしではない)と言ったほうが自然ではないだろうか。とすればやはり、わたしは自分の身体を交換可能なものとして所有するわけではないことになる。つまり、「わたしは身体をもっ」という最初の命題を否定しなければならないことになる。