ふと私は思った。男女でも夫婦でも友達でも、
 

うまくいかなくなる時ってどこかで「上下」ができた時じゃないかな、

 

と私は思います。
 

人って、つい「自分のほうがちょっと上かも?」とか「自分は下かも…」
 

って感じてしまう生き物みたいです。
 

たぶんそれは悪いことじゃなくて
 

生き物としてのクセみたいなものだと思います。
 

でも、その差が大きくなると、どちらかが苦しくなります。 
 

だから大事なのは、いつも完全に同じ高さに立つことじゃなくて、
 

「おや? ちょっと高い所に立ってるかも?」と気づいたときに、
 

同じ地面に戻ればいい、ということだと思うのです
 

ただ、この「気づく」というのが非常に一番むずかしい。 
 

人は、上に立っているときほど、自分が偉そうになってることに気づきません。
 

 高いところは、見える景色がせまくなるから。
 

そして、気づいても、そこから降りるのは勇気がいります。
 

「ごめん」って言うのは怖いし、 相手によっては、

 

それにつけこんでくることもあります。
 

 だから、いつでも優しくできるわけじゃない。 距離をとるのが正しい時もあるし、
 

ムリに仲直りしなくてもいい時もある。
 

でも、役割のちがいがあるのは当たり前です。
 

お金の差や得意・不得意があるのも普通。
 

そのときは、 「今日の担当者」 という感じでやればいいと思います。
 

 担当が終わったら、同じ席に戻って、一緒にごはんを食べればいい。

 

私は、うどん屋とそば屋の関係みたいなのが好きです。 
 

どっちが上とか下とかじゃなくて、どっちにも客が来る
 

気分で選ぶだけ。
 

うどん屋がそば屋をバカにしても、 そば屋がうどん屋を見下しても、
 

 どっちも売り上げが下がるだけ。 それなら、
 

いいうどん、いいそばを作るほうがいい。
 

ただし、どんな味が好きかは人それぞれです
 

薄い出汁が好きな人もいれば、 濃い味が安心する人もいる。 
 

つまり、私が「これがいい」と感じる基準は、私の好みです。 
 

誰かに押しつけるつもりはありません。 私はそうありたいです。
 

人は不器用です。 完璧じゃない。 だから、気づけた時だけでいい。
 

 降り直せた時だけでいい
 

ゆっくり、何度でも調整すればいい。
 

お互いに「ありがとう」と「ごめんね」を言えたなら、
 

 それだけでけっこううまくいくんじゃないかな、と思います。
 

気楽で、あたたかく。 迷ったら、うどん屋かそば屋で昼ごはんでも食べてみる。
 

 その日の気分と出汁の香りが、答えを教えてくれるので

 

ふと私は思った。人はなぜ嘘をつくのか。
 

それは悪いことだとわかっていても、つい口から出てしまう時がある。
 

もちろん、嘘は信頼を少しずつ削る。
 

積み木のように、時間をかけて積み上げたものが、

 

ある言葉ひとつでカタッと揺れる
 

そしてそれに気づいた人は、次から少し慎重になる。

 

 ほんの薄いフィルムが一枚かかるような感じに。
 

でも反対に、言葉をすべて正直に出してしまうと、

 

必要以上に誰かを傷つけることもある。 正直は大切で、
 

誠実で、美しい。 だけどその正直さが、

 

時には相手の心に深く刺さることがある
 

人はみんな、強そうに見えても案外もろい。 

 

弱さを抱えていたり、疲れていたり、余裕がなかったりする。
 

だから時々、柔らかい言葉で包む必要があるのかもしれない。 「
 

今は受け止めきれないだろう」と思うなら、ほんの少し丸める。 

 

それが優しさになることもある。
 

ただ、ここにはひとつの危うさもある。 

 

優しさのための嘘が、相手の成長のチャンスを奪ってしまうことがあるらしい。
 

 また真実を知ることで、人は強くなる時もあるし

 

厳しい現実を飲み込むことで前に進める人もいる
 

だからこそ悩む。 どこまで正直でいた方がいいのか。 

 

どこから柔らかさを混ぜるべきなのか。
 

この文章を書きながら、

 

自分もちゃんと誠実にできるかな、なんて思ったりもする。
 

でもきっと正解はない。 人も状況も関係性もそれぞれ違うだろうし。
 

私が思うのは嘘が必要になる瞬間も時にはあるはず
 

ただ、それはいつも相手を守るためでありたい。 

 

自分の都合や逃げのためではなく。
 

そしてもし誰かが正直に打ち明けてくれたなら、
 

受け止める覚悟を持ちたい。 少し痛みがあっても、

 

そこに誠実さがあるのならば
 

それでも、たまには笑いも必要なはず。 

 

人生はなかなか大変だし真面目すぎると息が詰まるし。 
 

ちょっとした冗談くらいは許されたい。
 

ちなみに、正直さは大事だけど「自分が何枚餃子を食べたとか」 

 

そこは、静かにしておこうかな。
 

世界の平和のために

 

最近人気の声優という仕事について考えてみるけれど、
 

私は作品を受け取る側の一人に過ぎません。
 

経験も知識もなく、台本もマイクも縁がない。
 

それでも、画面の向こうから流れてくる声に助けられることもよくあります。

声優の仕事は、近年とても身近で華やかに見える。
 

アニメやゲーム、ナレーション、イベント出演。
 

日常で何気なく声に触れながら、
 

その裏にどれだけの準備や努力、

 

時には競争や数字に追われる現実があるのかは、

 

現場を知らないものとしては想像するしかない。
 

台本の行間を読み、感情を声に変える技術。
 

体調や気分を整えることも大切だろう。
 

一瞬の声に見えるものも、
 

その背景には目に見えない苦労や工夫、

 

時には泥臭い努力やデジタルで管理される

 

厳しい作業も絡んでいるのかもしれない。

それでも声優の声は魅力的で、
 

形のない声だけで誰かの心を動かすこともある。
 

顔や名前は知らなくても、声に引き込まれ、

 

感情が揺さぶられることもあるだろう。
 

そう考えると、声優という存在はやはり少し特別に感じられる。

今日もそっと耳を傾け、声の世界にちょっとだけ迷い込む。
 

画面の向こうに引き込まれつつ、
 

それもまた、この仕事の魔法に魅了された

 

小さなファンの一人かもしれない。
 

そして、届いた声に心を動かされる瞬間は、

 

やはり特別な喜びとして、そっと味わう価値がある。 

 

偉そうに書いてしまったかもしれませんが、

 

あくまで小さなファンの独り言として・・

 

 

正直に言うと、「人間の本性」なんて言葉を使うたびに、どこか落ち着かない。

 

分かったふりをしている気もするし、分からないまま放り出す勇気もない。

 

その中間で、言葉を並べているだけかもしれない。

人は善でも悪でもなく、状況に左右されやすい。

 

余裕があれば親切になり、追い詰められれば視野は驚くほど狭くなる。

 

理性は確かにあるが、感情より一歩遅れて現場に来ることが多い。

 

正直、人はだいたい自分の都合で動くと思っている。

よく「人は追い込まれたときに本性が出る」と言われる。

 

確かに、余裕がなくなると取り繕う力は一気に落ちる。

 

ただ、あれは本性というより、選択肢が削られた末に出てくる、

 

いちばん手前の反応ではないかとも思う。

 

窮地での振る舞いだけで、

 

その人のすべてを決めてしまうのは、少し乱暴かもしれない。

それでも、人は条件が悪くても踏みとどまることがある。

 

不利だと分かっていても、少しだけ優しくしようとする瞬間がある。

 

損得勘定だけでは説明できない行動が、確かに存在する。

ここで「それが人間らしさだ」と言いたくなるが、

 

そんな綺麗な話でもない。迷いは美徳のように扱われがちだが、

 

ただ決めきれないだけのことも多いし、優しさは気まぐれで、長続きしない。

それでも、嫌いじゃない。

結局、この考察も、あとで読み返せば違和感だらけだと思う。
 

その違和感を抱えたまま生きていくしかない、というのが、

 

今のところ一番それっぽい答えになりそうです。

 

人はどうしたら寛容になれるのか。

偉そうに考えてはいるけれど、まず自分自身がそこまで寛容な人間ではない。
 

正直なところ、「寛容になろう」と決意した瞬間から、

 

だいたい失敗が始まる気がする。
 

人は余裕があるときだけ優しくなれて、

 

余裕がないときは他人の靴音すらうるさく感じる生き物らしい。

たぶん寛容さは、性格というより「コンディション」に近いかもしれない。
 

ただそれは、冷たくしていい理由ではなく、

 

せいぜい理由を考え直す材料くらいのものだと思っている。

それに加えて、距離が近すぎる相手ほど人は不寛容になる。
 

「わかってくれるはず」という期待が、外れた瞬間に苛立ちに変わる。
 

また、ずっと我慢役を続けている人ほど、ある日まとめて余裕を失う。
 

これは心の弱さではなく、単なる疲労だ。

同じ出来事でも、悪意だと取るか、不器用さだと取るかで反応は変わる。
 

寛容さとは、我慢の量ではなく、解釈の選択肢の数なのかもしれない。

「自分もやらかす側だ」と思い出すことは、相手を許すためというより、
 

その場で誰かを雑に扱わないための、最低限のブレーキに近い。
 

それを免罪符にしてしまった瞬間、話は別になる。

そして、「今日は無理だ」と自分に言って終わらせるのも、本当は少し楽すぎる。
 

こちらが余裕を失ったその瞬間、誰かがどんな顔をしたかまでは、

 

想像できていないことが多い。

少なくとも私は、人に優しくできた日は「今日は余裕があったかな」と問い直し、
 

優しくできなかった日は「今日は気持ちが一杯だった」と勝手に納得して、

 

その日が終わる事がある。
 

まあそれでも、たまにそのズレに気づけた日は、

 

次は少しだけ寛容になれる気がしている。たぶん。