「物を大切にする」とは、かつての功労者を窓際に追いやり、

 

埃を被せたまま置いておくことではないのかもしれません。


その物が持っている「いちばん美しく輝く役割」を見極め、

 

最後まで全うさせてあげること。

 

もしかしたら、それこそが本当の敬意なのでしょう。

一見、手元に置き続けることは優しさのように見えます。
 

けれど、使われることも思い出されることもなく、

 

ただ存在だけを残されるのは、

 

「静かな放置」と呼べる状態かもしれません。
 

逆に、今の自分には役目を終えたと感じた物を潔く手放すことは、

 

その物に新しい舞台

 

次の持ち主や循環という「新天地」を用意してあげる、

 

器の大きな慈悲深さでもあります。

神社やお寺に足を踏み入れたときの、あの清々しさ。
 

あれは決して物が少ないからではなく、

 

「余白」が丁寧に守られているから生まれる空気なのでしょう。
 

物は増えれば増えるほど、

 

意識を少しずつ奪うノイズになります。
 

一方で、余白は心の中に「思考の自由」という、

 

何にも代えがたい宝石をそっと置いてくれます。

高級感や品格とは、高価な物で空間を埋めることではありません。
 

「何も足さなくても、私はもう満たされている」
 

その静かな余裕が、空気として滲み出ている状態そのものなのだと思います。

もちろん、人の心は移ろいやすいものです。
 

「一生愛す」と誓って迎え入れた物が、

 

数年後にはただの置物に見えてしまうこともあるでしょう。
 

それは薄情なのではなく、あなた自身が成長し、

 

立つステージが変わった証拠かもしれません。
 

新しい靴を履いたまま、

 

サイズアウトした子どもの靴を抱えて裸足で歩く必要はないのです。

本当の愛護とは、執着という名の檻に閉じ込めることではありません。
 

今の自分を心からワクワクさせる精鋭だけを、

 

「余白」という特等席に招くこと。
 

周囲の雑音をそっと遠ざけ、

 

「高級な静寂」で塗り替えた、

 

自分だけの聖域を整えてみる。

 

そんな選択も、きっと悪くありません。

「もったいない」と物を握りしめるよりも、
 

空いたスペースで深く息を吸い込み、

 

「贅沢な空気」を味わうこと。
 

それはきっと、お肌にも心にも、

 

思っている以上に良い栄養になるはずです。

 

AIが広がっても、

 

クリエイターはいなくならないと思っている。
 

理由は単純で、

 

AIは勝手に作品を作り始めないからだ。

AIは常に、人の指示を待つ。
 

何を作るか、どこを目指すか、どこで止めるか。
 

その最初の一歩は、必ず人間にある。
 

沈黙の中で突然「これを作らねば」と

 

動き出すことは、今のところAIにはできないはず。

一方で、人は理由のはっきりしない

 

衝動から始めてしまう事もある。
 

役に立つかも分からない。
 

評価される保証もない。
 

それでも、なぜか手を動かしてしまう。
 

創作の核は「作ること」ではなく、

 

「始めてしまうこと」にある。

だから、AIで作る人を嫌うという反応には、

 

どこか違和感がある。
 

仕事がなくなる、努力が無意味になる、とか言われるけれど、
 

AIが動くのは、あくまで人が動いてからだ。
 

指示を出し、選び、違和感を覚え、責任を引き受ける。
 

その工程が消えるわけでもはない。

確かに、単純な作業や量産的な仕事は減る可能性もあるだろう。
 

でもそれは、「プロがいなくなる」という話とは別だと思う。
 

プロの価値は、最初から手作業の量にはなかった。
 

何を作らないかを決める判断、
 

言葉にならない要求を察する感覚、
 

最後に「これでいく」と決断する胆力。
 

それは、AIでも手作業でも変わらない。

だから、手作業に固執する必要もない。
 

AIを使うことを誇る必要もない。
 

大切なのは、道具への忠誠ではなく、

 

自分の感覚への忠誠じゃないだろうか。

速さが必要なところはAIもでいい。
 

精度が欲しいところもAIもでいい。
 

どうしても譲れない違和感だけ、

 

人が引き受ければいい。
 

いいとこどりをする人が、結局いちばん強いかもしれない。

歴史を振り返れば、新しい道具が現れるたびに、
 

「これで終わりだ」と言われてきたと思う。
 

でも終わったのは、表現そのものではなく、
 

特定のやり方にしがみつく理由だった。

AIの時代も、たぶん同じだ。
 

終わるのは作り方の一部で、
 

残るのは、始めてしまう人たちだ。

道具が変わっても、
 

なぜそれを作ったのか、という問いだけは消えない。
 

そしてその問いを持ち続けられる限り、
 

クリエイターはいなくならないと思う

 

情報過多の時代を眺めていると、

 

皮肉にも「情報を持たない強さ」が際立って見えてきます。
 

かつては「知は力なり」と言われましたが、

 

今はもう「スルーは知恵なり」の時代なのかもしれません。

現代人は、朝から晩までスマホを通じて、

 

世界中の「怒り」や「正解」を脳内に流し込まれています。

 

本来、脳は半径数キロ圏内の平穏を

 

処理できれば十分だったはずなのに、

 

地球の裏側の経済不安から、

 

隣の誰かのランチ事情まで抱え込まされる。
 

脳が常に「検索中」のまま固まってしまうのも、

 

無理はありません。

さらに厄介なのは、情報の寿命があまりにも短いことです。
 

必死に追いかけた「最新」は、午後にはもう古新聞。
 

それでも私たちは、

 

「知らないままでいる不安」や、

 

「誰かが決めた正解から外れる怖さ」に背中を押され、

 

また次の情報を探しにいく。
 

安心したくて検索しているのに、

 

不安ばかりが上書きされていく、不思議な循環です。

そんな中で、「他人のことは気にしない」という態度は、

 

強さというよりも、成熟に近い。
 

感じないのではなく、

 

これ以上は抱えきれないと、もう知っているだけ。


情報という荒波で皆が必死に泳いでいる横を、

 

浮き輪で静かに漂っているような、あの余白です。
 

結局のところ、情報の海を生き抜く秘訣は、

 

上手に泳ぐことではなく、
 

溺れない程度に力を抜き、

 

時には潜水艦のように圏外へ沈むことなのかもしれません。

まあ、この文章自体も、

 

明日には「昨日見たラーメンの画像」くらいの優先順位で、

 

あなたの脳内から消えていくのでしょう。
 

それでいい。忘れられるくらいが、ちょうどいい。

さて、そろそろ画面を閉じて、
 

壁のシミでも数えるような、

 

何の役にも立たない時間を。
 

その無意味さこそが、今いちばん贅沢なのですから。

 

「神は細部に宿る」と聞くと、

 

完璧主義者の背後で腕組みする、

 

少し怖い神様を想像してしまう。


ネジの角度が0.5度ずれただけで眉をひそめる、

 

几帳面担当の神様だ。
 

けれど、その眉、本当に怒りで動いているのだろうか。

 

もしかすると、必死にネジを探す人間を見て、

 

笑いをこらえているだけかもしれない。

一方で「雑な人の雑さ」にも神様が宿るとなると、

 

散らかったデスクは神様のシェアハウス状態だ。


居心地が良すぎて定住されると、

 

今度はハサミや充電器が行方不明になる。


神様にも家賃という概念があれば、

 

少しは断捨離が進むのだが、

 

どうやら彼らは居候体質らしい。

三回目の挨拶に宿る神様もいる。


それはたぶん「気まずさの神」だ。

 

一度目の礼儀、二度目の慣れ、

 

三度目に漂う「あ、また会いましたね」という照れ。
 

この神様は人間臭く、きっと一番お酒が強い。

こう考えると、神様は完璧な細部より、

 

ズレや散らかり、気まずさに惹かれているように見えてくる。
 

細部とは、整える場所というより、

 

人間味が滲み出る出口なのかもしれない。

今日見つからない探し物も、気まずい挨拶も、

 

たぶん神様の仮住まい。
 

そう思えば少しは許せる。
 

ただし神様、次に引っ越すときは、

 

せめて置き手紙を残してほしい。

 

もし地球より発達した星があるとしても、

 

それが必ずしも「幸せ」とは限らないかもしれない。

 

高度文明の住人から見れば、

 

私たちがまだお湯が沸くのを待ったり、

 

道に迷ったりしているのは、

 

「不便という贅沢」を満喫しているように

 

映る可能性がある。

 

ボタン一つで何でも終わる世界では、

 

「待つ時間のエモさ」は絶滅危惧種なのだろう。

とはいえ、彼らがそこまで辿り着いた努力や知恵は本物で、

 

何世代にもわたる失敗と試行錯誤を積み重ね、

 

感情を手なずけ、争いを減らしながら静かな文明を

 

育ててきた結果なのだと思う。

 

ボタン一つの世界の裏側には、

 

きっと私たちと同じような遠回りと

 

後悔の歴史が詰まっているはずだ。

また「争わない社会」も、

 

実は全員が空気を読みすぎる薄味コミュニティかもしれない。

 

地球のマウント大会やコメント欄バトルを見て、

 

「あいつら個性爆発してて面白いな」と

 

ポップコーン片手に観戦している宇宙人もいそうだ。

さらに環境チート星育ちの彼らは、

 

災害ゼロで育ったせいでメンタルが

 

液体レベルに柔らかい可能性もある。

 

台風でも出社し、失恋してもSNSを更新する地球人を見て、

 

「戦闘民族か?」と震えているかもしれない。

そもそも発達の方向性が違う説もある。

 

機械は原始的なのに、全員テレパシーで繋がり、

 

昼寝しながら宇宙の真理に到達している星。

 

ロケットを飛ばそうと必死な私たちは、

 

糸電話で遊ぶ子供に見えているかもしれない。

などと考えつつ、

 

私は今日もスマホに気を取られ、

 

5分で終わる用事を30分かけている。

 

宇宙の心配より、まず自分の集中力を進化させろという話だ。

もし宇宙人に遭遇したら、私はこう言い訳するだろう。
 

「今ちょっと別銀河の用事がありまして」
 

きっと彼らは頷きながら思うはずだ。
 

地球人、発達は遅いけど、

 

言い訳の進化だけ異常に早いなと。