長編小説 【祈り】 | 日々幸進(ひびこうしん)

日々幸進(ひびこうしん)

日々、自分が楽しくて生きている事を簡潔に記しておきたいと思います♪
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 序章

 手を引かれていた。

 鬱蒼と細い枝が縦横無尽に走る木々の間を小さく息を弾ませ前の人影に連いてゆく。その人影の背中は大きく力強い意思を感じさせた。ぴんと張り詰め冷えた空気が真っ白い膜を張り素肌を切りつけていく。まばらに散った白い息は冷気の中に溶けて消えてゆく。

 雪は2mほど降り積もっているだろうか。

 少年は手を引かれながら相手の手の大きさを改めて実感しつつ暖かいと思った。手を引かれている少年は、まだ五歳だった。

 周りの木々達は、この冷気を自然に受け止め白い洋服を身に纏っている。

 しんしんとした白い闇の中を、二人はゆっくりと歩いてゆく。重く濡れた雪をはむ音だけが、みしみしと響く。

 少年は手を引かれながら視線を下方に移した。何だか恐かったからだ。いつもの見慣れた筈の風景が異様に目に映った。いつもは昼だからこのような風景ではない。雪景色にしてももっと命が感じられた。しかし今目の前に写る世界は夜の世界だ。真っ暗であるはずなのに足元の雪が心なしか、ぼうっと輝いているかのように見える。月のせいだ。うつむく少年の目に自然に入るものは規則正しく右左に入れ替わりたち替わりしている自分の足だけであった。

 寒かった。

 白い息は千切れるとすぐに闇に溶けてゆく。

 不思議な事に風もないようだった。

 不自然なほどに音もない。

 そして、

 無遠慮な冷気だけが厚く着込んだ服の内側まで忍び込んできている。

 少年は改めて視線を周囲に向けてみる。

 垂れ込める白い闇に、細かい木々の枝が向こう側を見渡せるほどの大きな隙間を作っている。今が冬だからだ。夏ならば豊潤な葉達が四季の移り変わりを示すと共に、周りの風景を覆い隠してしまうだろう。だが冬は木に耐え忍ぶ強さを文字通り植えつけるだけだ。

 少年は雪の結晶体を踏み潰しながらも前を急ぐ影についてゆく。

 と、

 突然に森を抜けた。

 純朴な月明かりに照らし出された空間は大きな繭を思わせた。入り組んだ森の中央のその空間だけが、ぽっかりと円形の草原を形成していた。

 そしてその中心に大きな巨きな一本の木が立っていた。

 大の大人が腕を大きく広げて十人ぐらいでやっと囲めるほどの太さで、上部は空をたゆたう月に枝が届きそうだと感じるくらいだ。枝は先に行くほど別れ、細く長い枝々がびっしりとその隙間を埋め尽くすかのように生えている。しかもその枝先には魂をつかまれそうな美しい雪の結晶体がその生を謳歌していた。それは自然が作り出した最高傑作の芸術だ。

 前の人影が止まった。

 はっとした。

 こんなに、

 こんなに美しいものを見ていてもいいのだろうか?

 少年は、その木の美しさに息が詰まりそうになっていた。不思議な罪悪感にとらわれながら呆然としていた。

 静かに時間と雲だけが流れていた。

 しらしらと降り注ぐ月明かりは、その木を一層幻想的なものへと仕立て上げた。

 前の人影が重い口を開いた。

「わしが死んだら、ここで眠りたいんじゃ」

 少年は思いもしない言葉に驚き視線を走らせる。相手の顔には数え切れないくらいもの幾重もの皺が刻み込まれていた。その皺を覆うような顔中の髭がもごもごと蠢く。

「どうして?」

 少年は問わずにはいられない。

 男は大きく息を吐く。大量の白い息がもやのようにその場を滞留する。少年に向き直ると男は更に深い皺を眉間に刻み込む。話すべきかどうか迷っているのだ。重いツンドラのような時間が静かに流れようやく口にする。

「わしの最初の純情が眠っているからさ…」

 言った後に顔中の皺を、

 更にしわくちゃにしながら微笑んだ。

 巨きな前の木がその笑顔に呼応したかのように、しゃらしゃらと音をたてて我が身に降り積もった雪を僅かに揺り落とした。

 それだけで少年は納得してしまった。

 耐えがたい冷気が生み出した判断ではない。男の笑顔と雪の奏でる唄に、そっと背中を押されたからだ。少年はそれだけで男に何も聞かなくなった。

 そして、

 もう一度その木を見てみる。

 綺麗だった。

 月は濡れたようにその光景を更に美しくさせている。

 もし自分が天使に裁かれて殺されるなら、こんな風景の中に違いないと思った。

 大きな巨きな木に、まぁるい月。

 それから男の広い背中。

 少年の瞳は、それらを一個の風景と胸に刻み込んだ。心の奥、深くだ。

 記憶の中の風景は、人間に生きる気力を浮かび上がらせる力を持っている。

 いつの日かこの風景を思い出す時、自分は一体何を考えているのだろうか?

 そしてその時の自分は幸せなのだろうか?

 少年はそんな遥かなる思いを馳せながらも、その風景に溶け込まんばかりにただ、ただ見惚れた。

 その時、一陣の風が大地を吹き撫でた。

 大地に降りていた雪がその風の力で、ぱァっと宙に舞った。

 風花である。

 微細な粒子のような雪は、数え切れないくらいの数を宙に浮かばせる。

 きらきらと月明かりに照り輝く風花は、何かに置き換えられた幻想のようで少年を陶然とさせた。

 風花は静かに、

 静かに、

 踊りながら大地に愛しくキスをする。

 静かに、

 静かにだ。




夕陽