☆防具付き空手

・防具付き空手(ぼうぐつきからて)は、空手の競技形式の一つ。防具付空手、防具空手、防具付試合、防具付組手ともいう。また、防具付き空手のうち、技が決まっても「止め」がかかるまでに時間をとり、その間決まった連続技も加算する加点方式を採用するものを硬式空手という(防具付き空手の一種が硬式空手であり、防具付き空手=硬式空手ではない)


■流派・会派

全日本空手道連盟錬武会から分派・独立した主な団体としては、全日本硬式空手道連盟、日本武道空手玄和会、国際防具付空手道連盟などがある。


全日本空手道連盟錬武会 (練武会は『全日本空手道連盟』の協力団体)

全日本硬式空手道連盟(千葉派) 

全日本硬式空手道連盟(久高派)

日本武道空手玄和会 

国際防具付空手道連盟 

全日本少林寺流空手道連盟錬心舘 

防具付全日本空手道連盟 

国際千唐流空手道連盟 

全日本セーフティー空手道連盟 

日本防具空手道連盟 

全国防具空手道連盟 

全日本清心会空手道連盟 

全日本格斗打撃空手道連盟 

琉球少林流空手道月心会 

拳正会空手道連盟 

全日本防具付空手道連盟


『全日本空手道連盟錬武会』

空手界における最初の全国大会である全国防具付空手道選手権大会(旧名:全国空手道選手権大会)を主催する団体。

 遠山寛賢の高弟らによって設立された韓武舘を源流とし、その直系の道場と防具付き空手に賛同した諸派によって形成された連盟である。全日本空手道連盟(全空連)の協力団体の一つであり、いわゆる広義の伝統派空手であるが、ストロングマンと呼ばれる防具(安全具)を着用して直接打撃の防具付き空手による組手試合を行うことが特徴である。ただし、傘下団体によってはいわゆる「全空連ルール」に則った組手も並行して行い、全空連の県連盟に加盟して国体等に選手を送っている場合もある。

組手競技は「技有り」二つで一本勝ちとなる一本勝負であるが、防具付き空手界では最も当たり強度と正確性の判定が厳しく、強打しかとらない。この強打のみがポイントとなる点、頑丈過ぎるストロングマンを使用する点は、「一撃必殺的」、「実戦的である」という肯定的な意見と「危険」、「連続技が使えない」という否定的な意見があり、評価が分かれている。

錬武会は1945年(昭和20年)、東京九段に遠山寛賢の修道舘の高弟たちによって、GHQの監視を逃れる目的で設立された道場である韓武舘を前身団体とする。 この韓武舘では修道舘の無流派主義を受け継ぎ、伝統的な形稽古を重んじながらも、剣道の防具着用による直接打撃の組手稽古を行った。

武道禁止令の緩和から1951年(昭和26年)には錬武舘と改称し、1954年(昭和29年)に防具「カラテクター」を装着した空手界最初の全国大会である全国空手道選手権大会を開催した。 この韓武館や錬武舘の防具付き空手を主導したのは、戦後の空手言論界をリードした金城裕(韓武舘副館長)であり、実業家の蔡長庚が支援した。

そして1959年(昭和34年) 、韓武舘・錬武舘の師範たちの師である遠山寛賢の修道舘を総本部に迎え全日本空手道連盟(旧)に発展。流派を超えた空手の統一組織として、当時の空手界重鎮の多数が要職に就任した。しかし、1964年(昭和39年) 現在の全日本空手道連盟の成立により、錬武会という名称の防具付き空手の統括組織という位置づけで全日本空手道連盟の協力団体として今に至っている。






■遠山 寛賢(とおやま かんけん、1888年9月24日 - 1966年11月) 

 沖縄県出身の空手家。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)総本部修道舘舘長、大師範。昭和期を代表する空手家の一人であり、糸洲安恒の晩年の高弟の一人として知られる。 


 遠山寛賢は、旧姓を親泊といい、1888年(明治21年)、沖縄県首里市に生まれた。幼少の頃から、板良敷朝郁、糸洲安恒、東恩納寛量らに師事した。それぞれ、どの時期に師事したかは不明であるが、糸洲に師事したのは、遠山が沖縄県師範学校へ入学(1906年)してからであると考えられる。当時の師範学校の唐手師範は糸洲安恒、師範代は屋部憲通が務めていた。在校中の1908年(明治41年)から3年間、遠山は糸洲、屋部の助手を務めた。1911年(明治44年)、師範学校を卒業した。

遠山は、徳田安文、真喜屋某らとともに、俗に「糸洲安恒の三羽烏」と呼ばれた。ほかに同年代の大城朝恕に師事したという説があるが疑わしく、別人の大城の可能性が高い。また、田名某から棒術、釵術を、初代首里区長を務めた知花朝章(知花朝信の本家叔父)から「知花公相君」の型を教わった。1924年(大正13年)には台湾へ渡り、台北の陳仏済、台中の林献堂から中国拳法を学んだ。

1931年(昭和6年)、遠山は上京し、東京の浅草石浜小学校前に道場「修道舘」を設立した。ここで育った高弟には韓武舘(後の全日本空手道連盟錬武会)館長となる尹曦炳がいる。また、音羽の鳩山和夫(元衆議院議長・鳩山一郎元首相の父)・春子夫婦の新教育思想に共鳴し、鳩山幼稚園の経営者に就任した。さらに、思想家・遠山満に共鳴して、遠山姓に改正したのもこの頃である。

戦後、遠山は故郷沖縄が戦災の被害甚大で、学童たちが読む本も不足していたため、数百冊の著書を沖縄県に寄贈した。この功績により、沖縄初代知事、志喜屋孝信より「空手道大師範」の称号を送られている。

1948年(昭和23年)頃、遠山は船越義珍との間で「空手の本家」を巡って論争を起こしている。糸洲の直系弟子を自認する遠山は、船越は糸洲門下では傍系に過ぎず(船越は安里安恒の直弟子)、糸洲の直系に連ならない者は沖縄空手の正統とはいえない、と主張した。また、遠山が沖縄師範学校の本科卒業生であるのに対して、船越は沖縄県師範学校の速成科(一年課程)出身であったことも、この論争の争点の一つであった。遠山の主張では、師範学校本科で糸洲から学んだ者のみが糸洲の後継者であると主張した。

しかし、糸洲が師範学校で教え始めたのは、1905年(明治38年)からであり、たとえ船越が本科に入学していたにしろ、(戸籍上は)1870年(明治3年)生まれの船越が糸洲に師事する機会はありえなかった。いずれにしろ、遠山-船越論争を通じて、糸洲門下の弟子の中に、直系と傍系の差別意識があったことは確かのようである。

遠山は自身の弟子たちが開始した全国空手道選手権大会(現在の全国防具付空手道選手権大会)などで模範演武を行っていたが、1951年(昭和26年)に旧・全日本空手道連盟(現在の全日本空手道連盟錬武会)が発足した際には修道舘が総本部となり、遠山は大師範として防具付き空手道という競技としての空手道の普及に貢献した。また、この頃「奥義秘伝空手道」「護身鍛錬空手道」「空手道大宝鑑」などの著書を鶴書房より発刊している。

遠山は「空手に流派はない」が持論で、生涯無流派主義を貫いた。古流五十四歩の型(屋部憲通伝)を得意とした。1966年(昭和41年)、78歳で死去した。 


 『無流派主義』 

糸洲安恒の直系を自認する遠山は生涯無流派主義を貫き、自らの空手道に流派名を冠さず、流派自体の存在を否定した。 その理論は、「もっとも厳粛なるべき妙術に、二通りも三通りも変わった流の至技妙法があるべき理屈はない」というものでる。 遠山は「剛柔緩急、いろいろ思念工夫して修錬をつむのが空手の常道であって、流派なるものとは根本的にちがうのである」と、当時流派と名のついていたものの全ては、各々の修錬の中での差異として捉え、流派としては成り立つべきではないと考えていた。

著書『空手道大宝鑑』に於いて遠山は、まず当時既に周知されていた少林流と昭霊流について「この二流が現在実在しているかのように世間に伝えられているが、これは史実の上に何等確たる根拠も考証もない」と、同一の形式で統合編成させられている事を主張した。 また、昭和初期に誕生した諸流派については、糸東流の摩文仁賢和と剛柔流の宮城長順に面会した際に遠山自らが質問し、摩文仁からは「流名をつけた方が恰好がつくし、恩師を思慕する意味からも意義がありはしないか」との回答を得、宮城は「世間の人々が空手に対し認識不足なので、その全貌を剛と柔の二字でわかりやすく表現した」と答えたことから、「流も派もない正真正銘の沖縄の空手で流名は結局、無意味に帰す」としている。その他、当時新手の流派の誕生が頻発していたことについては、「最近珍妙な新しい流名をつける存在不明の空手家が見受けられるが、これは正統空手道の全貌を知らない一知半解の人たちである」としてこれらを批判している。


『全日本硬式空手道連盟』(ぜんにほんこうしきからてどうれんめい)
空手団体の一つ。防具付き空手の一種であり、多撃必倒的な加点方式を採用することが特徴。

1980年11月18日久高正之の少林寺流拳行館主催により第一回国際硬式コンタクト空手道大会が行われる。日本体育協会スポーツ安全委員会出席時に、当時既に主流となっていた全空連について「寸止め空手は軟式である」として、それに対する形で防具付き空手は「硬式」であるとし、採用されたのが始まりである。 その試合をきっかけに1981年から全国の他流空手、日本拳法、テコンドー、少林寺拳法、日本中の格闘技界に広く呼び掛け、様々な流派・会派が一堂に集い、第1回の全日本大会を国立代々木第一体育館において試合が行われた。その際に久高が「全日本硬式空手道連盟」を商標登録している。

硬式空手とは
この団体が採用する「硬式空手ルール」とは、防具付き空手の一つであるが、全日本空手道連盟錬武会の一撃必殺的な強打ルールや、全日本セーフティ空手道連盟の打撃強度の軽いテコンドーのようなルールとは異なり、ある程度強打の多撃必倒的な加点方式を採用しているのが特徴である。よって、先打ち、相打ち、後技、連続技など審判の「止メ」をかけるまでの有効打が全て得点に認められ、選手は間合いを詰めた所での連続技、打ち合いに打ち勝つことが求められる。

これについては錬武会と比べ、「連続技が使える」、「多撃必倒的で実戦的である」、「安全である」という肯定的な意見と「打撃強度が弱い」、「伝統的な動きが崩れる」、「先をとるという概念が薄れる」という否定的な意見、また全空連と比べ、「判定が明瞭で分かりやすい」、「実際に当てるので実践的である」という肯定的な意見と、「伝統的な動きが崩れる」、「先をとるという概念が薄れる」という否定的な意見があり、評価が分かれている。

なお現在は千葉派と久高派に分裂状態にあり、両団体の間で点数の配分やポイントとなる打撃の強度等、組手競技ルールに若干の違いが生じている。

歴史
1978年、久高正之がスーパーセーフを開発。
1981年(昭和56年) - 錬武舘を中心とした道場が全日本空手道連盟錬武会から独立し、日本硬式空手道協会(現在の全日本硬式空手道連盟)が設立され、第1回全日本硬式空手道選手権大会が開催される。
1991年、鈴木正文の死去をきっかけとして、全日本硬式空手道連盟が中村典夫(錬武舘)を中心とした中村派と久高正之(少林寺流拳行館)を中心とした久高派に分裂する。なお、この騒動は「全日本硬式空手道連盟」という名称の商標権問題にまで発展することとなる。
2003年、中村派において中村典夫が退き、千葉拳二郎が2代目会長に就任。以後、千葉派と呼称される。
同年、千葉派の事務局次長の上杉勝巳(上杉会館)が連盟を脱退し、『日本防具空手道連盟』が設立される。

分裂
1991年、当時の会長であった綜合武道場日本正武館館長の鈴木正文の死去の後、後継者として錬武舘の中村典夫と少林寺流拳行館の久高正之が台頭しどちらにも集束せず、結局事実上の分裂時代を迎えることとなる。

千葉派
剛武舘の千葉拳二郎を中心とした連盟を千葉派と呼ぶ。初代会長は錬武舘の中村典夫。平成15年、現在の2代目会長として千葉拳二郎が就任。スーパーセーフ系の連盟では連盟加盟団体、大会規模が一番大きく、選手のレベルが全体的に高いと言われている。

千葉派の組手
ルールは連続して3本以上の技が入り、相手が反撃できなかった場合は一本勝ちとなるが、基本的には2分間試合をし、最終的なポイントによって勝敗が決まる。また、技が決まっても、「止め」がかかるまでに時間をとり、その間決まった連続技も加算される加点方式を採用しているのが特徴である。ルールは上段蹴り2ポイント、その他1ポイントで5ポイント差で勝ちとなる。錬武会と比べと直線的な動きの選手が少なく、左右の動きを使った連続技を使う選手が多い。スーパーセーフ系を採用する防具付き空手の団体の中では一番判定が厳しく強打しかポイントにならない。ただし、錬武会に比べると判定は緩いといえる。

千葉派の防具
スーパーセーフ、Kプロテクターを着用する。拳サポーターは必須であるが、足サポーターは任意である。

千葉派の全国大会
毎年夏に東京の代々木第二体育館で体重別の全日本硬式空手道選手権大会を、冬に愛知県で体重無差別の硬式空手道全国選抜優勝大会を開催している。

久高派
久高正之を中心とした連盟を久高派と呼ぶ。国内規模は千葉派よりも劣るが、加盟国数が世界空手道連盟に匹敵する多さであることが特徴である。

久高派の組手
ルールは連続して3本以上の技が入り、相手が反撃できなかった場合は一本勝ちとなるが、基本的には3分間試合をし、最終的なポイントによって勝敗が決まる。また、技が決まっても、「止め」がかかるまでに時間をとり、その間決まった連続技も加算される加点方式を採用しているのが特徴である。突き技、打ち技は1ポイント、蹴り技は2ポイントになる。瞬間的な掴み、投げ、次の技に繋げるローキックも認められている。ある一定のポイント先取やポイント差などでは勝敗を決しない。なお、当たりの判定は千葉派よりも緩い。

久高派の防具
防具はスーパーセーフのみの使用が許され、Kプロテクターなどの類似品の使用は認められていない。一般男子は拳サポーター、足サポーターの使用は禁止され、素手素足で試合は行われる。テーピング使用も大会ドクターの許可が必要であり、素手素足による本来の身の動きを重視しているといえる。

久高派の全国大会
毎年秋に内閣総理大臣杯として、ジャパンオープントーナメントを代々木第二体育館で開催している。

分裂後の混乱
全日本硬式空手道連盟は東京の「日本硬式空手道競技会」、関西の「安全防具を考える会」という2つの母体が存在し、後に千葉派・久高派に分裂したという経緯がある団体である。よって「全日本硬式空手道連盟」という名称については結成当時からの有権者が連盟内においてはっきりしておらず、混乱を招いている。そのような中、久高派の最高師範である久高正之は綜合武道場日本正武館に商標権について訴訟を起こした。結果は『被請求人は「全日本硬式空手道連盟」の文字にいかなる権原をも持たない。』として敗訴している。ただ、この審決の中では日本正武館においても、『被請求人による特例出願に係る本件商標は、自己に有利に図るべく請求人の信用を利用し、不当な利益を得る目的でした使用の事実をもって、その登録を受けたものと推認せざるを得ない。』とある。また、並立する二つの「全日本硬式空手道連盟」の周知性も同等であるとしている。結論は「以上、被請求人の特例出願に係る本件商標の使用は、不正競争の目的をもってなされたものとはいい得ないものであるから、本件商標は、商標法附則第7条第2項の規定により読み替えて適用する同法第46条第1項の規定に基づき、その登録を無効にすべき限りでない」と審決され、依然として「全日本硬式空手道連盟」の名称の使用は千葉派、久高派、日本正武舘のいずれにも使用されており、問題は収束の目途は立たない。




■中村典夫  
錬武舘の歴史
錬武舘の歴史は、初代館長の中村典夫が1946年に空手の道を志した時から始まる。 中村は当時国士舘大学の剣道部員だったが、終戦と同時にGHQの指示により日本武道は全面禁止された。 剣道ができなくなった中村は、神田九段下の韓武舘に入門し空手を始めるのである。

当時の韓武舘道場には、剛柔流の曹寧柱先生や極真会の大山倍達先生も顔を出していたそうである。 この韓武舘道場で、中村は剣道の防具をつけて組手を始める。 演武を兼ねて防具試合の大会を神田の共立講堂で行なうなど、防具付き空手の競技化が始まった。 やがて中村は、韓武舘の2代目館長の座に就いた。

1951年に、当時内外タイムスの社長だった蔡長庚氏の支援を受けた中村は渋谷に道場を開き、名称を錬武舘とした。 道場開きには、和道会の大塚博紀先生も演武をされている。

錬武舘は1954年に、神田の共立講堂で「第一回全国空手道選手権大会」を開催する。 空手界初の全国大会と言われたこの大会は、日本テレビで実況中継され、会場には人が入りきれず、当時は大きな反響を呼んだ。

毎年大会を開催して迎えた1959年、防具式による全日本空手道連盟が結成された。 錬武舘は連盟の中核をなし、大会を主管していった。

1964年に、空手界の大同団結を目指し現在の全日本空手道連盟が結成され、中村も発起人に名を連ね、 錬武舘も錬武会に改名しその構成団体となる。中村は全空連の常任理事も務めている。

1956年に錬武舘は新宿区西新宿に移転した後、2002年まで46年間の長きにわたり 中村館長のもと本部道場として位置し、多くの空手家を輩出した。

その間、全日本硬式空手道連盟が組織され、約50会派、10数個の県連が加盟し、中村が初代会長の座に就き、 現在は名誉会長として連盟の発展に寄与している。

■鈴木 正文(すずき まさふみ、1929年3月11日 - 1991年9月18日) 
日本正武館館長、全日本硬式空手道連盟会長。
福島県郡山市に生まれ、青年期に柔道、合気道、剣道、居合道や古武道等の多数の武術を学んだ。中央大学に通い、検事になり辞めてからは弁護士資格を保有した。

宮里栄一のもとで剛柔流空手を修行し1955年に京都で日本正武館を設立した。

千葉真一主演映画『激突! 殺人拳』(1974年)への出演を皮切りに、空手家や合気道の達人などで、複数の東映製作映画に出演していた。

鈴木は長く日本プロレスコミッションのコミッショナーを務め、アントニオ猪木のウィレム・ルスカ戦や、ザ・モンスターマン戦のレフェリーを務める。その他アントニオ猪木の引退時に佐川急便の佐川清を紹介した。

1981年に発足した日本硬式空手道協会(全日本硬式空手道連盟)の設立に久高正之らとともに尽力し、会長を務めた。1991年9月、高血圧性脳出血のため[1]台北の病院で死去。

笹川良一の秘書役、付き人的な立場の人でもあった。

総合武道場日本正武館





正武館香港道場 橋治空手道
館長 李錦坤






■久高 正之 空観(ひさたか まさゆき くうかん、1940年11月18日 - ) 
少林寺流拳行館空手道を主宰する空手家。
清和源氏子孫であり、少林寺流拳行館空手の 久高幸利の息子。 彼は3歳で柔道と空手を始め、13歳になるまでに両方の分野で初段を取得した。

彼は1961年と1962年に全日本オープン空手道選手権と1958年から1962年に少林寺流拳行館選手権を勝ち取る。彼は日本大学に進学し卒業までに四段に、柔道や空手は五段を取得。

久高正之はニューヨーク市 (1964)とモントリオール (1967)の世界博覧会で日本代表となる。 コロンビア大学 、ニューヨーク州立大学 、 マギル大学 、 ロヨラカレッジ 、 カナダ国立劇場学校 、少林寺流拳行館空手道のカナダ本部で空手道を指導した。

1980年に久高正之は、空手がオリンピック競技になることを意図して、WUKO(世界空手連合)から依頼を受け、全日本空手道連盟(JKF)の技術委員会でスーパーセーフ安全防具を開発、硬式空手競技法(ルール)を確立した。スーパーセーフ安全防具を使用して防具胴と面との「コントロールコンタクト」競技システム組織である世界硬式空手道連盟(WKKF)を設立。WKKFでは、認定段位と審判員、指導者認定が定められた。現在、久高正之は範士九段、硬式空手道の生みの親(創始者)です。

少林寺流拳行館空手道については、「サイエンティフィック空手道」(1976年発行)と「エッセンシャル少林寺流空手道」(1994年発行)の2冊を執筆。 「ル・カラテ・コシキ」はフランス語のみで発行され、内容は硬式空手道の競技システムやその他の技術面のトレーニングに焦点を当てている。


少林寺流拳行館空手道





■千葉拳二郎 
日本剛柔流五代目宗家
日本剛柔流空手道最高位 十段範士

「国際空手道スポーツリーグ副会長」
「全日本剛柔流空手道連盟会長」
「全日本硬式空手道連盟会長」
「(法)日本空手武道専門学院院長」
「(社)沖縄古武道連盟・九段範士」
「日本テコンドー連盟最高段位・六段」

「剛柔流」を束ね、国際的に活躍する多忙な日々を送りながらも「剛武舘総本部」のある宮城県仙台市を中心に一万人を超える門下生の育成にあたっている。

剛武舘総本部






日本武道空手玄和会(にほんぶどうからてげんわかい)
・南郷継正が創始した空手団体。
南郷継正を中心に錬武会の一部と千葉大学や埼玉大学の空手部によって設立された空手団体で、南郷継正を事実上の宗家とする一流一派の会派団体である。
大学空手部への普及に力を入れ、防具付き空手団体の中では加盟している大学空手部数が最も多い。南郷の著書『武道の理論 』を会派内での空手の基本理論としている。防具は日本空手道錬武会でかつて用いられていたカラテクターを現在も使用し、拳サポーター、面、胴を着用する。
組手競技ルールも日本空手道錬武会を踏襲し技あり二つ先取であるが、2004年より、空手の試合ルールとしては珍しく上段蹴りを禁止している。




国際防具付空手道連盟
・東京都防具付空手道連盟、埼玉県防具付空手道連盟を中心に1999年(平成11年)に錬武会から独立して結成された団体。防具はストロングマン、スーパーセーフなど市販されている面の大半の着用が可能である。錬武会と違い足サポーターも着用できる。当初は錬武会ルールを踏襲し技有り二つで一本勝ちとしていたが、2008年(平成20年)に、「技有り」に満たない軽い打撃も「有効」とし、技有2点、有効1点の4点で勝ちのルールに変更された。日本を本部としてアメリカ、カナダ、メキシコ、台湾、中国、フランス、スリランカ、ニカラグア、ネパール、コスタリカ他に加盟道場があり、東京、台北、カルガリーなどで国際防具付空手道選手権大会を不定期に開催している。また、オープン戦関東防具付空手道選手権大会には全日本硬式空手道連盟(千葉派)の関東圏の道場が多く出場している。



少林寺流空手研究会錬心館道場、道統少林寺流錬心

保勇(たもつ いさむ)





国際千唐流空手道連盟総本部

千歳強直(ちとせ つよし、知念近直)




Full Contact Submission Arts
国際F.S.A拳真館空手道連盟
館長 羽山威行

・経歴
1976年2月 少林寺拳法 東京の道院へ入門
1984年8月 少林寺拳法 四段位取得
1985年10月  少林寺拳法連盟 東京高円寺支部道場設立 支部長就任
1993年3月 株式会社 銀座アダムス 依願退職
1993年4月 ル・ガラージュ アダムス 設立
1996年8月 少林寺拳法連盟を円満に脱退 支部長辞任
1996年10月 F.S.A拳真館を設立 館長就任
1997年10月 常設本部道場を設置。
名称を「国際F.S.A拳真館空手道連盟」に変更。
同連盟8段位を取得。
2002年7月 有限会社 国際エフ・エス・エー拳真館 設立
2007年5月 ケイオスプロモーション設立
2007年11月 国際ケイオス協会設立
2008年4月 現在 全30カ国 
●国内/14支部 ●海外/120都市/200支部
●門弟数/1万2000名



全日本護身空手道連盟
世界護身空手道連盟
故・浜井識安
・護身空手道大会
2021年6月27日
第1回プレ全日本極真護身空手道選手権大会テストトーナメント
極真バトルフィットネス大森ジム
全日本護身空手道連盟、極真会館 浜井派 主催

2021年11月20日
第2回プレ全日本極真護身空手道選手権大会テストトーナメント東京・品川区立総合体育館
一般社団法人世界護身空手道連盟 極真空手力謝会 主催

2022年4月29日
第1回全日本極真護身空手道選手権大会
東京・代々木第2体育館
一般社団法人世界極真護身空手道連盟、極真空手力謝会 主催
【試合結果】
優勝:吉田開威(朋武館)
2位:山本雅樹(ビクトリーカラテスクール)
3位:宮原穣(ビクトリーカラテスクール)
4位:吉田理玖(剛柔流朋武館)
ベスト8:プライチュンポン・ソーシーソムポン(GTジム)
ベスト8:小池喜音(極真浜井派)
ベスト8:福田高広(空手道 福田道場)
ベスト8:杉本昇也(士魂 村上塾)

2023年5月21日
第2回全日本極真護身空手道選手権大会
東京・代々木第2体育館
一般社団法人世界護身空手道連盟 極真空手力謝会 主催

【試合結果】


NPO法人全日本新空手道連盟(2003年発足)

1985年にスタートした新空手。

アマチュアグローブ空手の原点として、約30年間、第一線にて約300回以上の大会を開催してきており、参加者のレベルに応じ、初心者でも参加出来るようルールを細分化しております。

幼年 / 小学生 / 中学生の(K-4ルール)試合では顔面パンチ攻撃は禁止にし、蹴り技と接近戦での攻防のレベルアップをする事により、肉体的・精神的な成長に繋がります。

中学生の(K-3ルール)試合より顔面パンチ攻撃を認め、距離感やコンビネーション、スピードなど駆使したダイナミックな戦い方に変化します。15才~49才までは一般部となり、試合レベルも中級レベルとなります。

高校生以上から参加出来る(K-2ルール)試合では、新空手の上級レベルとなり、素面によるハイレベルな攻防が繰り広げられるのが、特徴です。
このクラスでの全日本王者はプロの世界でもチャンピオンとなる選手が多数おります。

このように新空手大会では安全を重視して小学生から一般の方までが段階的に挑戦していける大会です。




錬空武館 
館長
高久昌義 六段 
古流空手、棒術、太極拳を代表する内家拳等、武術修行に力を入れ極真空手で学んだ戦いの心を融合

極真空手第1回世界ウェイト制選手権
軽重量級世界チャンピオン 
第13回全日本ウェイト制選手権
重量級チャンピオン 
第28回全日本大会三位
全国武術交流掛け試し稽古会 会長

テクニカルファイト
高久館長が考案したの新防具『テクニカルヒット』を使用した組手。安全に攻防技術の正確さを養います。