2024年6月15日 午後2時 すみだトリフォニ-ホール 錦糸町

「井上道義先生の世界漫遊記」前半

井上道義指揮 新日本フィルハーモニ-交響楽団

 

漫談のような語りで世界各地で指揮した経験話と自らの人生を語る演奏会。

今年引退でなければ開かれない珍しい演奏会。

記憶が正確ではないですがご了承ください、補足は( )で記載。

 

戦前の1921年生まれと口が滑り会場は笑いに包まれる。

慌てて1946年生まれに訂正。昭和21年と混同したようだ。

父親(育ての父)はアメリカ?移民で第2次世界大戦で日本人はスパイ扱いされフィリピンに移住していたという。

WIKIPEDIAでは祖父が広島からUSAに移民と記載されている。

・子供の時は母親が芸事で働けるようピアノ、バレエを習わせられた。

・桐朋学園では指揮を尾高忠明と同じく齋藤秀雄で学んだ。

・イタリアの指揮者コンクール優勝。(1971年グィ-ド・カンテッリ指揮者コンク-ル)

・20代の時は小澤征爾同様非常に忙しかった。

話が延々と読き舞台袖から新日本フィル楽団員が登場し席につく。

新日本フィル楽団員に

「『ペトルーシュカ』の練習で大変だったね。これは内輪受けの話だけど」

と少し嫌みな語り方。

真意は良くわからないが6/9のシャルル・デュトワ指揮ペトルーシュカ』の練習と自分の練習を比較したみたいだ。

 

・1曲目 チャイコフスキ-「眠りの森の美女より」ワルツ(ロシア)

作曲家や指揮した話はなくロシア人はロシア皇帝を負かした日本人を本当は好きだと自説を展開。プ-チンなど柔道が盛んな例を根拠にあげた。

子供の頃、鎌倉在住のロシア人の有名な女性(エリアナ・パヴロヴァ)がクラシックバレエのレッスンをしていた教室を見かけた話と若い時はダンサ-も志していた経緯で選曲したのだろう。

 

・2曲目 D.リルバ-ン 「アオテアロア」 (ニュ-ジ-ランド)

アオテアロアはかつてのニュ-ジ-ランド呼称(先住民マオリ人はアオテアロアと呼んでいた)

演奏前に北海道がない日本の大きさ(日本の3/4)とニュ-ジ-ランドを紹介

場所はオーストリアから2000km離れ、(1971年当時)人口が300万人で羊が羊毛で多く7000万頭。

現在は人口500万人で化学繊維で羊毛を着なくなったので羊が2500万頭?に減った。

ニュ-ジ-ランドでは首席客演指揮者を務めた。(1971年ニュ-ジ-ランド国立交響楽団)

D.リルバ-ン 「アオテアロア」はまるで国歌のような士気を高揚させるような明るい曲。

ブラスバンド用みたいな曲だが出来は悪くなくシベリウスの曲のような金管と弦楽器の響きが垣間見える。

演奏後井上道義先生はあまり良い曲ではなくシベリウスっぽい曲とばっさり切り捨てる。

聴く人によっては観客と演奏者の神経を逆なでする発言が道義先生の個性でもある。

長く白い雲のたなびく国「アオテアロア」/フィリップ・スパーク/Land of the Long White Cloud/Philip Sparke (youtube.com)

 

・3曲目 ワーグナ- 歌劇「ローエングリン」より 第1幕への前奏曲 (ドイツ)

ワーグナ-はババリア国王(バイエルン国王ル-トヴィヒⅡ世)に取り入って自分の思い通りにさせた悪者と定義。

「ベ-ト-ベンも嫌な奴、モーツァルトは臭い匂いがしてくる」との発言は観客の失笑を誘う。

本当とはいえ作曲家ドビュッシ-の女性関係は荒れているし、温厚そうなフォーレも結婚後の女性遍歴は多い。

ヴェルディの死去の際はもう一人の妻のような女性歌手の同席もあった。

結局好かれるか嫌われるかは人格で決まるようだ。

 

名曲の解説としては不適切だったが新日本フィルの演奏は一糸乱れないアンサンブルは透明な響きとなり非常に良い演奏だった。

 

・4曲目 マスネ タイスの瞑想曲(フランス)

30代前半の話のようだったがフランスに拠点を構えようとしたがすぐに撤退してしまった。撤退の理由の解説はなかった。このあと妻の珠世さんと結婚したとのこと。

 

席に座っている2名のコンサ-トマスタ-に役割を井上道義が質問。

崔 文洙(1968-)の回答は「キャプテン役でオーケストラのまとめ役」と模範解答。

西江 辰郎(1976-)の回答は「指揮者の11本目の指、(髪の薄い井上道義)指揮者の髪の役割」と回答し井上道義は「やられた!」と叫び、会場は大笑い。

西江 辰郎の回答は指揮者の出来が悪い部分をバックアップしていると皮肉が込められているように感られた。

 

タイスの瞑想曲はコンサ-トマスタ-西江辰郎独奏。

西江辰郎のヴァイオリン独奏は曲想には実直すぎフランスの艶っぽい曲想にしては表現は硬いがヴァイオリンの響きは美しく心地良かった。

使用楽器はSantino Lavazza 1764年製らしい。

 

・5曲目 バルト-ク ルーマニア民俗舞曲より第1,第4,第5,第6,第7曲 弦楽合奏版 (ルーマニア)

ルーマニアは独裁者のチャウシェスク政権で石油が採掘されるがその割に宿泊ホテル、練習会場は寒い。

オ-ボエ奏者が寒くて練習中に楽器が割れるということでオ-ボエ奏者なしで練習した。

電気暖房機を数台入れたが殆ど効果がなく宿泊ホテルにドライヤ-を(温風機代わりに)つけっぱなしにしておいたが効果は殆どなかった。料理は温かくて美味しく楽団員が自宅に招待してくれて良い経験をしたとのこと。

演奏者はルーマニア民俗衣装を着せようかと思ったが日本人に似合わないので特製のTシャツで演奏をさせると解説。

Tシャツのくだけた服装と異なり真面目な曲想には衣装と曲の雰囲気は合っていなかった。

しかし指揮者なしの崔 文洙率いるアンサンブルは息が合ってフルオ-ケストラより弦楽器奏者が張り切って生き生きとした演奏。

 

前半はここで終了したが大幅に予定時間は超過しているようだ。

話が長いので後半は次回に。