卑弥呼(日向)の時代から350年が過ぎると 近畿地方を中心に 大和朝廷の土台が固まりつつありました

 

513年 百済が 五経博士(儒家の学者)を日本に送る

 

538年 百済の聖明王が 仏典 経典を公式に 日本に送る 仏教思想そのものは 百年も前から 民間の交易を通じて 部分的に 輸入されておりました

 

574年 聖徳太子(8次元)用明天皇の第二皇子として生まれる 太子は叔母にあたる推古天皇の摂政として 中央集権国家体制の基盤をつくりました 冠位十二階の制度を制定

太子は氏族制度を脱却して 能力別と言うよりも 人格の高低に合わせた地位と言うものを考えていました 十七条憲法を制定 憲法の理念は 儒教的な秩序 仏教的神理 政治の基本原理の樹立などが 含まれていました 太子は まず個人の心にユートピアを建設し 後に国家全体をユートピアにする発想がありました

太子の過去世にギリシャの賢人 ソロンがあり のちにエイブラハム リンカーンとして生まれます

 

聖徳太子の時代が終わると 奈良仏教の時代となります この頃は仏教がやや学問化し 南都六宗と言って 六つの宗派に分かれて 経典の研究が進められました

 

767年 最澄(7次元)日本天台宗の開祖 伝教大師 近江国(滋賀県)に生まれて 14歳で近江の僧 行表のもとで出家 比叡山に入って草庵を結び 仏教を研究しました そして誰でも 仏になれると言う一乗思想(唯一の乗り物)に到達し 804年入唐します 翌年帰国し その翌年に天台法華経として独立し 南都の仏教界とはげしい論争をしました

有名なのは 法相宗の僧 徳一との間に起こった 三一権実論争です 三一の三乗思想とは 教えを聞いて初めて悟る声聞(小乗)自ら悟るが人に教えない緑覚(中乗)衆生の為に仏道を実践する菩薩(大乗)と言われ 一乗と三乗 どちらが真実の教えに近いかで論争が起きました 万人が神の子であると言うのは正しいのですが 神性の発揮の仕方には段階があるのも事実と言われています

 

774年 空海(8次元)真言宗の開祖 弘法大師 讃岐国(香川県)の佐伯一族に生まれ 15歳で上京し 大学明経科に入って俊才ぶりを発揮しましたが 20歳頃 出世コースを捨てて 放浪の旅にでました 彼は釈迦と同じ 悟りの体験そのものを望みました そして釈迦にならって 四国の山野を彷徨い 出会った修験者の助言もあって 空と海が見える場所を目指します 山づたいに土佐室戸岬に向かい 最御崎にたどり着きます そこで洞窟を見つけ出し 釈迦が菩提樹の下で悟った様に悟りを得たいと願いました 空海は焼米と木の根を食料として20日間瞑想をしました 15日目の明け方頃 禅定中の体が小刻みに前後に揺れ 体が大きくなり 洞窟を抜け出し 土佐の荒波を眼下に見下ろします この時20歳で宇宙即我の体験をします このあと宇宙大になった自分が視た空と海をもとに空海と名乗る様になりました それ以降 霊視や霊聴ができる様になり 霊達と語り始めます 空海は霊指導によって入唐し 長安で恵果和尚に師事し 法を継ぐ者として指名されます 806年に帰国すると 真言密教樹立の精進を始め 10年後に高野山に金剛峯寺を建て 正式に真言宗を開きます 空海は真に悟り 霊道を開いてこそ本当の修行であり 真実の教えであると考えたのです 空海は即身成仏を説きながら 単なる小乗仏教に止まらず 大衆救済の心を失いませんでした

 

平安仏教には浄土教と言う もう一つの流れがありました 浄土教とは阿弥陀仏の救いを願って 念仏を唱えれば極楽浄土に生まれ変わり 永遠の幸福を享受できると言う考え方です この思想はキリスト教に良く似ているのですが イエスの弟子達が仏教僧として生まれ変わってつくった 仏教思想と言う人もいます

 

942年 恵心僧都 源信(8次元)日本浄土教の祖 大和国(奈良県)に生まれ 比叡山の良源の元で13歳で出家 のちに念仏往生の道を説きます 源信時代の思想の核は 三段階ありました 天台宗の天台教学の理を観ずる 理観 仏の相状等を観相する 事観 そこに至れない衆生に対しては 称名念仏を勧めました

源信の過去世にパブテスマのヨハネがあり のちにスウェーデンボルグとして生まれ 幽体離脱して膨大な霊界探訪記を書きました 源信の時代も 魂が肉体を抜け出して 往生要集としてまとめられました

 

1133年 法然坊 源空(7次元上段)浄土宗の開祖 平安末期から鎌倉初期の僧 美作(岡山県)の豪族の家に生まれ 9歳で父を亡くし 出家 15歳で比叡山に入り 黒谷の叡空の弟子となります 唐の僧 善導の観無量寿経疏と源信の往生要集の二本柱を元に専修念仏を確立させます その教えは貴族や民衆の間に広がりますが 旧仏教勢力から激しい弾圧を受け 1207年 讃岐(香川県)に流されます 主著に選択本願念仏集があります

過去世にキリスト教の十二弟子の一人 聖トマスがあります

 

1173年 親鸞(7次元)浄土真宗の宗祖 見真大師 藤原家の流れを汲む日野有範の長男として生まれ 9歳で比叡山の高僧 慈円の元で出家します 将来は比叡山を背負って立つ秀才との声が高かったのですが 悟れない自分を見出し 20年の修行の後 山をおります

28歳の時 京都の六角堂に籠もり 百日間の瞑想坐行に打ち込み この時 霊道現象に近いものを体験します その時のお告げによって 法然を訪ね 念仏信仰に帰依します

過去世にイエスの弟子 パウロがあります

 

鎌倉仏教の一つの極を念仏宗の他力門とすれば 禅宗の自力門はもう一つの極です 自分を徹底的に磨くと言う意味において 禅宗は難行道だと言えます 一方で念仏を唱えれば救われると言うのが 易行道の教えです

 

1141年 栄西(7~8次元)日本臨済宗の開祖 備中国(岡山県)吉備津宮の神官の子として生まれ 10代で比叡山延暦寺に入山し 天台宗と密教を学びます 28歳と47歳の2回宋に渡り 禅宗を学びました 2回目の帰国後 禅宗の流布を行おうとしたのですが 比叡山勢力による伝道禁止措置を受けて 禅が鎮護国家の教説であると主張し 興禅護国論を著します 栄西の臨在禅は 坐禅中 魔の惑わしから身を守り より深く心を探求する為のものであり 現代では形式に流れていきました 日本初の茶の専門書 喫茶養生記を著し 茶の効能を人々に伝え 栽培方法や文化を広めました

 

1200年 道元(7次元)日本曹洞宗の開祖 承陽大師 13歳の時 比叡山で出家 24歳の時

栄西の弟子で 師の明全とともに入宋し 如浄に曹洞禅を伝授されます 帰国後 ただちに坐禅の勧めを説き 正方眼蔵と言う哲学的な体系の書を著します 道元は 阿弥陀仏に帰依して 浄土往生を願う他力門 浄土宗 口称念仏に対し 痛烈な批判をします

 

1222年 日蓮(8次元)日蓮宗の宗祖 安房国(千葉県)小湊の人で 12歳で清澄寺で修業を始め 16歳で出家して 浄土教を学びます その後 鎌倉や比叡山で天台宗の恵心流を修学します 1252年 清澄寺に帰り 翌年 仏教の神髄を法華経に見出して 立宗します しかし 他宗排撃的法華経至上主義は 寺内の念仏僧と地頭東条氏の怒りを買い 寺を追われて鎌倉に逃れます 東国に地震 飢饉が相次ぐのは 悪法が跋扈しているからで 正法に帰依しなければ 内乱外寇によって 亡国の憂き目に会う旨を予言し 北条時頼に上申し その結果 幕府は日蓮を伊豆伊東に流します 赦免後も一層の弾圧 迫害を受けます そしてさらに佐渡に流罪となります しかし蒙古による外寇が 二度まで日蓮の予言通りだったので 幕府は驚きと恐れで流罪の罪を赦します

 

釈迦の教えは 何百の法門があり キリスト教の聖書と同じく 弟子達がまとめたもので 釈迦の教えをそのままに伝えてない事は確かだと言われております 各種の経典は 釈迦と弟子達との 時や場所や人の影響下になされた対話の記録であり どれが真実と言う様な性質のものではないと言われております