日本列島の歴史自体は結構古く 今からおよそ三万年位前の事でした 日本の文化程度が急速に高まってきたのは 約一万五千年程前に ムー大陸が沈下し ムーの住民の中の約数百人が 海路 現在の九州地方に上陸した時以来です 日本の先住民族の人達から見ると 近代的な科学の原理に通じていたムーの人々は まさしく神の降臨に近かったと言えます そしてこの頃の伝承が 後の日本神話の土台となったのです

さて 現在に至る日本文化の最初の土台をつくったのは 今からほぼ二千八百年程前に地上に降りた 高級神霊達でした 紀元前八百三十年頃 まず 天之御中主之命(天之御中主之神)が 現在の九州の高千穂峰に出生 八次元最上段階の如来が 日本の国づくりのために肉体を持ったのです これは釈尊出誕の二百年前 孔子生誕の三百年前 ソクラテス降下の三百数十年前の事でした

天之御中主命は現在の宮崎県を中心とした南九州に 一大勢力圏を築いた政治家であり しかも 宗教家でもありました もちろん彼以前にも 国王的な方たちはおりましたし それは 連綿と続いてはいたのですが 神の言葉を伝える者が国を治めるという姿勢をはっきりと打ち出したのは 天之御中主之命からなのです その意味において 天之御中主之命は 日本の宗教的中心であり 政治的にも中心である事が多かった天皇の草分け的存在だったと言えるでしょう

天之御中主之命は 巨大な霊能者でもあり とくに ひとたび彼が口を開いて発した言葉は 必ず成就する事で有名でした 例えば隣国が何月何日に和睦を申し入れてくると予言すると必ずそのとおりになる あるいは 三月以内に 巨大な城を築いてみせると言うと どこからともなく資材が集まり その通りに完成する 全てが こういう具合でした 

また彼は 人の心を手に取る様に読んでしまったので 臣下に悪人が出るはずもなく 完全な徳治政治を行ったのです 御中主の考えは いわゆる光一元の思想であり その言葉の創化力によって 実際にその通りの光明の世界が周りに出現しました

 

御中主がつくった南九州政府は 高千穂国と呼ばれました ここの第二代の国王に選ばれたのが 高御産巣日神(たかみむすびのかみ)です この時の権限委譲は 父子相続ではありませんでした 御中主の臣下の中で 最も霊能力に優れ 徳の高かった高御産巣日神に位がゆずられたのです

この高御産巣日神は 霊視能力が非常に良く効いた方で いわゆる千里眼でした そのため 敵国の様子が居ながらにして 100%わかってしまうため 戦において 敗れた事がありませんでした そして 次に出て来た三代目の国王が 神産巣日神(かみむすびのかみ)です この方も 霊媒 霊言能力に優れており すでに ひと足早く霊天上界に還った天之御中主之命から直接通信を受けて 国政の指針としておりました 

 

紀元前七六五年 現在の大分県のあたりに伊邪那岐命が生まれました 彼は 二十四歳の時に 伊邪那美命と知り合い 結婚をします そしてその結果生まれたのが 後に天照大神と呼ばれる女性です その2歳下の弟として生まれたのが 須佐之男命です 天照大神は 母の伊邪那美によく似て とても穏やかで おとなしい性格でしたが それに反して 須佐之男命は 大変荒々しい性格を持っておりました 天照大神は 日本神道系では 最高神 あるいは主宰神のように言われております というのは 天照大神は 女性でありながらも 初めての女帝の地位 すなわち 高千穂国の女王となった事に起因しているのです 天之御中主之命から数えて五代目位の国王にあたります

 天照大神が初めて女王となったのは 高天原 すなわち八次元如来界から天之御中主之命の神示が下ったからです「我が国を 美しく 麗しき国となすために 女性に統治させる時が来た 伊邪那岐命という高徳の人がおられるから捜し出せ その娘が 我が国を取り仕切る方である」と命令されました

この様に 神代の時代は 天上界からの神示を受けて 次期政権担当者が選ばれたのです しかも国王の地位も終身制ではなく その人の心に邪心や欲心が出て来た場合には 天上界から神示が下って交代させられる 祭政一致とよく言いますが 当時は 霊能者の数も多く また 人々から大変な尊敬を受けていたのです 普通は最高の霊能者が統治者となり 神示を仰ぎつつ 国政を取り仕切っておりました 高級神霊からの神示は的確で 誰一人として異論をはさめず そのため 政治に秩序があったと言えます

さて天照大神は 決して王族ではなく 一豪族 伊邪那岐命の娘だったにすぎませんが 神示によって 女王に迎え入れられます 彼女は 非常に気品のあるおおらかな女性で 物腰もやわらかで それでいて 人々を畏怖させる様な神々しい威厳がありました 在位は二十年位でしたが その間 国威は上がり 次々と朝貢して来る人が後を絶たなかったようです その弟の須佐之男命は 先述した様に 姉と対照的で 大変荒々しい武人でした 政治的には姉と意見が合わず 彼女を良く困らせたりもしました 天照大神は 徳治主義によって 周りの国々を恭順させる事を主眼においていたのですが 須佐之男命は そんなことでは手ぬるいとばかりに 自ら馬にまたがり 何百名の武人を引き連れて 九州の各地や 中国地方へと攻め上ぼりました この頃 天照大神は 須佐之男命の乱行の鎮まりを祈願して 天之岩戸に隠れていたのですが この時 八十日ぶりに岩戸からでて 弟といったんは和解しております しかし やがて 須佐之男命は新羅(朝鮮)まで遠征し これを機に 高千穂国から追放されるのです

 

卑弥呼(日向)の時代には 天照大神の高千穂国は弱小国になっておりました そして九州の阿蘇が見える有明海を臨む地域に 中国の歴史では邪馬台国と呼ばれている国 当時

我が国では大和国と言われていた一大勢力があって 九州三十余国を制圧していたのです この大和国は 後に 大和朝廷へと発展してゆきます 日向の父の名は山高之命 母の名は桃日と言いました 日向には 三歳年下の弟がいて この弟の名を大日之命と言います この頃から 男性を命と言い 女性を媛(ヒメ)と言うようになったのです

日向は やはり優れた霊能者であり 天上界の天照大神から神示を受けて政(祭り)を取り行っておりました ですから 当時の大和国の主宰神だったのは 実際には 七 八百年前にでていた天照大神なのです 日向の政治には特徴がありました ひとつは 毎週一回神降ろしをして 国政の判断をした事 二番目は 女性を数多く政治にも登用した事 三番目には 春と秋には祭をやり始めた事です 日向が三十八歳で世を去った後 弟の大日之命が迎えた正妻の子が 後の記録で 景行天皇と名づけられている人です 当時は 天駆之命と呼ばれていました 天駆之命(あまはしりのみこと)の子が 日本武命(やまとたけるのみこと)であり その妻が弟橘媛です だいたい三世紀の終わり頃から四世紀の初めにかけての事で この頃 九州の朝廷が東征して 現在の奈良地域を中心として 大和朝廷を築きました 日本武命は 八次元の方で 国づくりの高級神霊の一柱でした