夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき

知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎ立つかな

煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれとながめよ

                   中宮定子(遺詠)

 

定子は不遇のうちに、3人目の子を出産して直後に崩御します。満24才。

中宮定子の遺詠から、一条天皇への一途な愛と、無念の心情が汲み取れます。

一首目は、一晩中愛し合ったことを忘れないでほしい。

2首目は、天皇も、清少納言もいないあの世に旅立つ心細さ。

3首目は、愛する天皇、また3人の幼い遺児を置いて天上には上れない。草葉の陰にて見守る決意。

 

野辺までに心ばかりは通へども 我が御幸(みゆき)とも知らずやあるらん

                   一条天皇(定子の葬儀時の歌)

 

葬送に参加できない自分であるが、今降っていて葬送に参加している雪が自分の心であると知ってほしいものだ。

 

 

露の身の草の宿りに君をおきて  塵を出でぬることをこそ思へ

                   一条天皇(辞世)

 

一条天皇は、定子死の10年後、満31才にて崩御します。

定子の遺詠3首目の「草葉の露」を受けて詠んだとみなし得ます。

10年間の変わらぬ思いが死を迎えて一層はっきりと意識されたのではないでしょうか。

 

 

二人の深い愛。

一条天皇と定子が結婚したのが、おのおの満9才と14歳。子供のころからかわいがってくれた。そして仕えてくれた、きれいで聡明なお姉さんである定子はかけがえなのい忘れられない女性だったでしょう。

 

定子の高貴な美しさ、聡明さは、枕草子にもあきらかです。

清少納言は初めて出仕したときのことを

「いと冷たきころなれば、さし出でさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは、かぎりなくめでたしと、見知らぬ里人心地には、かかる人こそは世におはしましけれと、おどろかるるまでぞ、まもり参らする。」(枕草子)

 

自分(清少納言)のような下々にはこのように高貴な人がこの世におられるものかと驚いたことです。

 

聡明さは前に記した「香炉峰の雪」にみられる、いくつかのエピソードあり。清少納言と相照らす主従になったのも、高校生の年齢の定子の素養とユーモアが先生挌である清少納言にひけをとらないものがあったからでしょう。

 

清少納言は、次のような毒舌も吐いているので、定子に心服するにはその美意識に真に適っていたのでしょう。

「取りどころなきもの。容貌憎さげに、心悪しき人」(枕草子)

訳:何のとりえのないもの 。見た目がブサイクで、その上性格まで悪い人

 

 

 

 

定子の運命は、関白であった父家隆の死去から暗転しますが、関白、内覧の決定をめぐって、伊周(家隆の息子、定子の兄)と道長(詮子の弟)のどちらにするか、一条天皇の母である詮子が影響力を発揮します。

詮子が道長びいきであったことは間違いないですが、一条天皇と母詮子の間の最大の感情は、嫁姑の問題だったと思います。前回の「光る君」において詮子が天皇に対して放った「おかみは私でなく后をとるのね」あの言葉が国のその後を決めたと思います。

詮子からみれば、定子は、愛息を9才の時から、手なずけられた憎い女だったでしょう。

結局、内覧は定子の兄伊周でなく、道長になるのです。

 

枕草子から、

ありがたきもの。舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君。毛のよく抜くる銀の毛抜。主そしらぬ従者。つゆのくせなき。かたち心ありさますぐれ、世にふるる程、いささかの疵(きず)なき。

 

世にありえないものとして、姑に良く思われる嫁。と記した時、清少納言には、定子に対する詮子のことがよぎったか。

 

 

 

 

 

 

この時代、平安の貴族社会は表面的には最盛期を迎え、その後、院政から武士の時代に転換していきます。

貴族階級の政争、藤原氏同士の政争。その裏で、貴族中心の中世というものの終焉に向かっている時代ともいえましょう。

なにか、日本の現状を感じさせませんか。

円安とは、進行してきた日本の劣化、競争力の低下が顕在化したもので、他国に比較して貧乏になった。後進国になったということなのだが。藤原氏同士の政争のようなことをやっている場合ではないでしょう。