皆人の花や蝶やといそぐ日も わが心をば君ぞ知りける

                  中宮定子 (枕草子)

歌意

人々がみな花よ蝶よといそいそ浮かれるこの日も、私の心の中をあなた清少納言だけは分かってくれていたのですね。

君=清少納言

 

前掲記事で、このように解しましたが、やはり君は一条天皇ではないかというコメントをいただきました。とすると、

 

歌意はこのようになります。

人々がみな花よ蝶よといそいそ浮かれるこの日も、夫である一条天皇は、私が一途に思っているその心のうちをご存じです。(だから、清少納言よ安心しておくれ)

 

中宮定子(976~1000)は、990年一条天皇に入内します。天皇満9才。定子満14才。

993年清少納言27才が仕えることとなりますが、995年父藤原道隆が死に、996年には兄弟の伊周、隆家が花山院襲撃事件を起こし左遷。これによって、後ろ盾を失い、急速に宮中での立場を弱めていきます。

その間、997年脩子内親王、999年敦康親王を出産します。

この歌を詠んだ1000年の端午の節句では、第3子を身ごもっていた定子ですが、この年4月に道長の長女彰子が一条天皇へ入台を果たしており、人々も去ってしまい、気分が沈み侘しい状況だったのです。

 

 

 

 

枕草子のその場面を略述すれば、

 

端午の節句の献上品の中に、風雅な薬玉と一緒に、「青ざし」という、青麦の粉で作った菓子がありました。(清少納言は)お盆代わりの美しい硯の蓋に青い紙を敷いて、その上に「青ざし」をのせ、「これ籬(ませ)越しに候ふ」(注)と申し上げて定子(様)にお渡ししました


定子(様)は、一条天皇はずっと以前からどんな時でも変わらず私を愛し続けているのです、という歌を詠まれ、青い薄紙の端を破って、その歌をお書きになりました

(清少納言の心配りに対して安心しておくれというサインを送ったのです。)

何と素晴らしいことでしょう。

 

ここで、「青ざし」を送ったのは、一条天皇であり、食の細った定子を気遣い、何か口にして欲しいと願ったため。入内した彰子と道長という「馬柵」があって会う事もままならぬ自分を、麦が食べられない馬に例えたのでしょう。<この段、ブログ「立待の月と野山の錦」より引用>

清少納言は、定子が一条天皇との変わらぬ愛を詠んで伝えてくれたことに、いとめでたし(何と素晴らしい)と締めくくったのです。

 

なお、

「君」を一条天皇を指すとしても、変わらず仕えてくれる清少納言にかけて詠んでいるといえるかもしれません。

 

 

【原文】

 三条の宮におはします頃、五日の菖蒲の輿などもて参り、薬玉参らせなどす。

 若き人々、御匣殿など、薬玉して姫宮・若宮に着け奉らせ給ふ。いとをかしき薬玉ども、ほかより参らせたるに、青刺(あをざし)といふ物を持て来たるを、青き薄様を艶なる硯の蓋に敷きて、「これ、笆(ませ)越しに候ふ」とて参らせたれば、

   みな人の花や蝶やと急ぐ日もわが心をば君ぞ知りける

この紙の端を引き破(や)らせ給ひて書かせ給へる、いとめでたし。

 

定子はこの年の暮れ、第3子の媄子内親王を出産して、直後に崩御します。御年満24才

 

最後に、定子と一条天皇、各々の死をむかえての相聞歌(といいたい)を掲載します。

一条天皇の辞世の歌は、定子ではなく彰子に対してのものという説もあります。

 

夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき

知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎ立つかな

煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれとながめよ

                   中宮定子(遺詠)

 

露の身の草の宿りに君をおきて  塵を出でぬることをこそ思へ

                   一条天皇(辞世)

 

 

 

 

 

参考後記

宮崎大学学術情報リポジトリ

https://miyazaki-u.repo.nii.ac.jp/record/1211/files/KJ...

[PDF]「三条の宵におはしますころ」段についての一考察