前漢の都・長安の片隅に、卑しい奴婢(ぬひ)の出ながら、天の悪戯(いたずら)のように美しく烈しい姉弟がいた。 姉の名を**衛少児(えいしょうじ)**、そしてその血を引く若き弟を、**霍去病(かくきょへい)**といった。 物心ついた時から、去病にとって姉は母であり、世界のすべてであった。 貧しさの中で飢えに震える夜、姉は自分の薄い衣を去病に着せ、その小さな手を握りしめて言ったものである。 「去病、お前はいつか、この長安の狭い空を飛び出す鳥になる。だから、今はただ、強くおなり」 その言葉通り、運命の輪は激しく回り始めた。 叔母が**武帝(ぶてい)**の皇后となったことで、一族は一躍、帝国の頂点へと引き上げられたのである。武帝は、去病の瞳の奥にある「飢えた狼」のような鋭さを見抜き、彼を我が子のように寵愛した。 「去病、朕の刃となれ。北の匈奴(きょうど)を、あの果てなき悍(おぞ)ましき影を、お前の足で踏み躙(にじ)って見せよ」 わずか一八歳で将軍となった去病は、その日から、長安の華やかさを捨てて戦場へと赴くようになった。 去病の戦い方は、苛烈を極めた。 かつての冒頓単于がそうであったように、彼は勝つための「目的合理性」の権化であった。重い輜重(しちょう)を持たず、水も食糧も敵地から奪う。 千里の砂漠を電光石火で駆け抜け、匈奴の首を挙げてゆく。 だが、長安に残された姉の元には、勝利の報せとともに、弟の不穏な噂も届いていた。 「驃騎将軍(ひょうきしょうぎょう)は、兵が飢えて倒れそうであっても、自分だけは天幕で美味い肉を喰らい、蹴鞠(けまり)に興じている」 姉は、胸を締め付けられる思いで弟の帰還を待った。 数ヶ月後、砂塵にまみれ、鬼神のごとき眼光を宿して帰ってきた去病に、姉はたまらず声を荒らげた。 「去病、お前は何のために戦っているのです。兵の怨嗟を買い、己の心を鬼と化して、何を手に入れようというの。陛下はお前に、豪華な邸宅を下さると仰っている。もう、家へお帰り」 しかし、去病は姉の茜色の衣をそっと見つめ、寂しげに微笑んだだけであった。 「匈奴未だ滅びず、何ぞ家を求めんや(匈奴をまだ滅ぼしていないのに、どうして家など構えることができましょう)」 その言葉は、武帝への忠誠のようでありながら、自らへの呪縛のようでもあった。 姉には分かっていた。去病は、身分が低かった自分たちを引き上げてくれた武帝の「夢」を叶えるため、自らの「人間らしい情」をあえて殺し、冷徹な兵器として生きる道を選んだのだということを。 「姉上、私はもう、あの凍てつく砂の世界でしか生きられぬ身体なのです」 姉が差し出した温かい白粥(しゆがゆ)にも手をつけず、去病はただ、遠い北の空を見つめていた。彼の背中には、誰も届かない高みへ登り詰めた者の、底知れぬ孤独が張り付いていた。 紀元前117年。 彗星のごとく現れ、大漢帝国の最大の脅威を退けた若き天才は、わずか二十四歳という若さで、病のためにこの世を去った。あまりにも烈しく命の炎を燃やし尽くしたかのような、突然の死であった。 長安中が、若き英雄の死を悼み、武帝は玉座で涙を流した。 しかし、大々的な葬儀の喧騒から離れた静かな部屋で、姉はただ一人、弟が遺した一振りの弓を抱きしめていた。 戦場の勝利も、帝国の栄光も、すべては砂の彼方へ消え去った。 窓を開ければ、今夜も北からの冷たい風が、長安の街に砂を運んで吹き抜けてゆく。 姉は、涙を流す代わりに、静かに夜空へ向けて呟いた。 「去病、もう、鬼の面(おもて)を被る必要はありません。重い鎧を脱ぎ捨てて、あの懐かしい、私の小さな去病に戻っておくれ……」 果てなき砂漠の闇の向こう、戦いに憑りつかれた男の詩(うた)が終わり、一人の若者がようやく長い眠りについたかのように、草原の風だけが寂涼(せきりょう)と響いていた。
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