凍てつく北の最果て、乾いた風が砂を巻き上げる地に、地平線を睨み据える、一人の若き太子の姿があった。名は冒頓(ぼくとつ)、実の父に売られ、死線を潜り抜けた男であった。引き絞る弓の弦(つる)が、彼の張り詰めた心を映して軋(きし)んだ。 「我が放つ鳴鏑、その音が虚空を震わせたなら、躊躇いを捨て、疑いを捨て、すべての矢を同じ標的へと放つべし」 乾いた音を立てて放たれた鏑矢が、彼の愛馬の肉を貫いた。怯んだ部下の首が、次の瞬間には白刃(はくじん)に刎(は)ねられて雪を染めた。次に鳴鏑が向けられたのは、美しく、最愛の妻の胸。 「……御免」と呟く間もなく矢は放たれ、紅(くれない)の血が草原(くさわら)に飛び散った。部下たちの瞳から、すべての「情」が消え失せ、冷徹な兵器へと変わったのであった。
やがて狩猟の野、実の父・頭曼(とうまん)の背に向けて、冒頓の鳴鏑が鋭く鳴り響いた。 「放て」 冷徹な声と同時に、万条(ばんじょう)の矢が黒い雨となって父の身体を覆い尽くした。愛を屠(ほふ)り、親を殺し、己の心さえも鉄の機械と化して、若き王は、血に染まった無敵の軍勢をその手につかみ取ったのである。 > **【私情を捨て去り、恐怖の力で絶対的な軍隊を作り上げた北の怪物。これに対するは、人間の弱さと絆を武器に、混沌の世を勝ち抜いた南の英雄。異なる強さを持つ二人の激突が、いま近づいていた。
翻って、はるか南の中原(ちゅうげん)、大河のせせらぎ豊かな地に、泥を跳ね上げながら駆ける、もう一人の男がいた。名は劉邦(りゅうほう) 不完全にして泥臭き覇者であった。戦に負けては「間に合わぬ、走れ、走れ」と叫び、みっともなく逃げ惑う男だった。 されど、天幕(てんまく)の中で彼が「困った、どうすればよいのだ」と頭を抱えて涙を流せば、張良(ちょうりょう)は静かに微笑み、「我が君、焦るな、策はここにあります」と絹に筆を走らせた。韓信(かんしん)は「貴殿のその弱さこそが、我らを戦わせるのだ」と、その槍を厳かに掲げた。恐怖の鉄鎖(てっさ)ではなく、信じる心と涙で繋がれた、不完全だからこそ温かい、人間たちの心の網(あみ)があったのだ。
非情なる合理の怪物と、人情味あふれる不完全な英雄。北と南、それぞれの頂点に立った二人は、ついに極寒の山頂で相まみえ、人間の本質を懸けた決戦の火蓋が切られた。
二つの運命が激突する、白登山(はくとさん)の凍てつく山頂。四万の騎兵が、劉邦の軍を隙間なく包囲し、冷たい槍衾(やりぶすま)が陽光に光った。冒頓がただ一度、その鳴鏑を引けば、漢の軍勢はすべて塵と化すはずであった。合理の刃が、情の絆を断ち切らんとした、その静寂の刹那。 動いたのは、冒頓の傍らに佇む、妃(きさき)の心の揺らぎであった。財宝の輝きと、中原の美姫(びき)の絵を贈られた彼女は、不安に胸をかき乱され、夜、毛皮の寝所で、冒頓の耳元へ細い指を走らせて囁いた。 「漢の皇帝にも天の加護がありましょう。あまり追い詰め、新しい女子(おなご)を娶(めと)れば、我が立場も、あなたの心も、どこかへ離れてしまいます……」 冷徹極まる仕組みの中に滑り込んだ、極めて人間的な、嫉妬と不安の揺らぎ。完璧なる王は、妻の潤んだ瞳を見つめ、一瞬だけ弓を引く手を止めた。 「……よかろう、包囲の一角を開けよ。実利を取るべし」 それもまた合理の判断であったが、冷徹な怪物が、一瞬だけ人間の情に歩み寄った瞬間でもあった。
戦いは終わり、二人の王はそれぞれの国へと帰ってゆく。しかし、危機を脱した者と、勝利を手にした者の部屋に広がる光景は、あまりにも対照的なものであった。
劉邦は包囲を抜け、命からがら漢の宮殿へと帰り着いた。 「生き延びたぞ、さあ酒だ、宴(うたげ)だ」 仲間たちと杯を重ね、大笑いし、時にまた涙する、賑やかで温かな明日(あす)がそこにはあった。
一方、勝利者として静寂の草原へ戻った冒頓は、玉座に一人腰掛けていた。 「我が命令に従わぬ者は、この地に一人もおらぬ」 その言葉に応えるのは、血の通わぬ機械のような部下たちの、一糸乱れぬ拝礼のみ。そこには絶対の支配があり、従属があり、そして、底知れぬ果てなき孤独が広がっていた。 鳴鏑の音が、今も冷たい空に鳴り響く。世界を手にするために、人間らしさを捨て去った男の詩(うた)。合理の王座はあまりに高く、あまりに冷たく、吹きぬける風のなかに、ただ寂涼(せきりょう)の音だけが残されていた。