ドタバタ国際結婚日記。その21.社員仲良し大作戦7 | 水谷孝のブログ「つれづれなるままに」

おはようございます!

 

今回も「ドタバタ国際結婚日記」を読んでくださりありがとうございます。

心よりお礼を申し上げます。

 

今回は、前回からの続きです、、、

 

兄は、月島地区と晴海地区のホテル・消防署・商社などを精力的に回って、根気よく野球部創部をお願いした結果、最終的に8チームが誕生することになりました。

 

ついに兄が描いた念願の「リーグ構想」が現実となったのです!!

 

兄がみんなを楽しくさせたいと願う、情熱と濁りのない強いエネルギーが、8チームのリーグを誕生させたのだと思いました。

 

それでは最初に「東京○○ホテル野球部」のメンバーのお話しをしましょう。

 

兄は僕と一緒に、野球をやりたかったようなのですが、僕が入部すれば、三振とエラーばかりで、みんなの足を引っ張ることは目に見えていたので、残念ながら入部を辞退しました。(とにかく僕は野球が下手でした。他のスポーツも下手ですが、、、笑)

 

「東京○○ホテル野球部」には、チームを引っ張る3人の主力メンバーがいました。

 

この3人のおかげで、「東京○○ホテル野球部」は、何とか他チームに対抗することが出来たのでした。

 

この3人というのは、1人は僕の兄で、さすが高校時代に野球部だっただけあって、野球は上手でした。

 

兄は、バッティングも上手で、守備も上手で、その上走るのも速かったので、理想の1番バッターとしてチームを引っ張ったのでした。(とにかく兄は、僕とは正反対に、全てのスポーツが上手でした、、、)

 

もう1人は、僕の先輩の○井さんで、「社員仲良し大作戦2」でもお話ししましたが、○井さんは高校時代に甲子園で投げたほどの人だったので、野球をやめて8年の時が流れたとは言え、まだまだ素人集団の草野球のレベルでは、○井さんが本気で投げる球はなかなか打つことが出来ませんでした。

 

そしてもう1人は、ボイラー技士だった○原、と言う人で、この○原さんも高校時代に野球部で活躍した人で、いわゆる典型的な4番を任せられるホームランバッターでした。しかも高校時代はキャッチャーをやっていたので、○井さんとは強力なバッテリーを組むことが出来ました。ちなみに、この○原さんの経歴が少し変わっていて、「東京○○ホテル」に入社する前は、警察官をやっていたのですが、いろいろなことがあって警察官に嫌気がさして、警察官を辞め、心機一転ボイラー技士の勉強をして資格を取り、そして、僕が入社してから半年ほどして、ボイラー技士として26才で入社して来たのでした。

 

以上の3人が「東京○○ホテル野球部」の主力でした。

 

他のメンバーたちは、学生時代に野球部に入った経験はなく、本当にただ野球が好きで、兄の誘いに乗ったのでしたが、みんなそれなりに楽しんでいました。

 

「東京○○ホテル野球部」のリーグ成績は、常に8チームの中で真ん中ぐらいだったので、野球部経験者が3人しかいなかったチームにしては、良く頑張ったと思います。

 

リーグ戦の試合は、毎週日曜日の早朝に行われたのですが、僕が一番良かったな、と思ったことは、選手たちだけではなく、日曜日ごとにお弁当を作って応援にやって来る家族や同僚たちも、ピクニック気分で、空気がきれいな日曜日の朝の草野球を楽しむことが出来たことでした。

 

僕も○ラと息子を連れて、時々応援に行ったのですが、いつも○ラが美味しいおにぎりを作ってくれました。(この時ばかりは、いつもと違って○ラがとても優しく見えました。笑)

 

面白いことに、○ラは日本人以上におにぎりが大好きで、あれから40数年経ちますが、相変らずちょくちょくおにぎりを作っては食べています。(毎日でも食べられる、と言ってます。笑)

 

青空の下で、みんなで「ガンバレーッ!!ガンバレーッ!!」とありったけの声を出して応援した後で、みんなで一緒に食べたおにぎりの格別な味を忘れることはできません。(思い出すだけでヨダレが出てきそうです、、、笑)

 

社員だけではなく、家族までもが楽しむ姿を見て、これで本当にみんなが仲良くなれた、と実感することが出来たので、僕も兄も大満足でした!!

 

ということで、僕が入社して以来の「派閥を越えてみんなに仲良くなってもらう」という目的は、めでたく達成されたのでした。

 

次回からのブログは、会社のお話しは、しばらくの間横に置きまして、僕が「東京○○ホテル」で働いた5年間の間に、僕と○ラの間に起こった数々のドタバタな衝突ぶりをお話ししてみたいと思います。(結婚生活をされておられる方々の、何かの参考になれば幸いです、、、)

 

西洋人は基本的に陽の気が強いので、陰の気が強い日本人と違って、誰かとトラブルになった時は、ほとんどの西洋人は、日本人のように冷静に事態を分析することなく、まるで猪突猛進のように「自分は悪くない。責任は相手にある。だから自分が謝る必要は全くない」と一方的に相手を攻撃する習性があるのですが、そんな西洋人たちでも、明らかに自分に落ち度がある、と言う時は、素直に自分の非を認めて謝るのが普通の西洋人です。(例えば、信号待ちしている車に自分が追突した時など、、、)

 

ところが○ラの場合は、僕の目から見ても、明らかに○ラに落ち度がある時でも(たとえ信号待ちしている車に、○ラが追突したとしても、、、)、絶対に自分の非を認めない性格をしているのです。(ちょっと信じられないと思いますが、本当なのです。笑)

 

自分の非を認めないのですから、当然謝りません。僕は数多くの西洋人を見て来ましたが、○ラのように「バスク民族特有の自尊心の強さと常に自分が正しいと信じている」西洋人は見たことがありません。

 

ところがそんなとんでもない性格をしていたにもかかわらず、○ラは日本で暮らしていた頃は、母を始めとして、周囲の人たちから愛されていたのです。

 

とんでもない性格の○ラが、何故みんなから愛されたのか?と言いますと、○ラのわがままな言動・行動には、不思議なくらいに「誰かを傷つけよう」とか「相手を困らせよう」とか「相手の足を引っ張ってやろう」とか「こいつは気に入らないから意地悪してやろう」といったような悪意は全くないのです。ただ単に「自分がやりたいと思ったら、誰に何と言われようと絶対にやる」、「自分がやりたくないことは、誰に何と言われようと絶対にやらない」というシンプルな性格なのです。

 

みんな○ラの性格を知っていたので、たとえ衝突しても憎めなかったのだと思います。

 

嫁姑問題で、○ラからよくケンカを売られた母でさえ、最後には○ラを憎むどころか愛したのです。(一緒に暮らしていた頃は大変でした、、、笑)

 

僕自身、○ラと何度も大ゲンカしたにも関わらず、いつも最後は「しょうがない奴だなぁー」と思って許してしまうのです。(その繰り返しで一緒になって45年も経ってしまいました。45年のうち18年前から別居しているにもかかわらず、相変わらず衝突ばかりしています、、、笑)

 

僕と○ラが数多く衝突してきた原因・理由はさまざまですが、もちろん彼女がいつも悪かったわけではなく、僕が悪かった時もあります。

 

ただ○ラの弁護のために申し上げるならば、2人でロンドンで暮らしていた頃は、ケンカをすることもなく、毎日楽しく幸せに暮らしていました。

 

僕と○ラがケンカをするようになったのは、日本に帰って来て、実家で母と同居するようになってからなのです。

 

嫁姑同居で、○ラは精神的に疲れていったので、やはりそれがイライラの一番の原因だったような気がします。

 

まあ今となっては、○ラもよく僕について、遠い日本まで行って、僕の母と12年間も一緒に暮らしてくれたものだと思います。

 

それに関しては、ただただ感謝しかありません、、、。

 

でもここでは、ひとまず感謝は横に置きまして、ドライに割り切って、○ラとの数々の衝突をお話ししていきましょう。(可能な限りポジティブ目線で、、、笑)

 

それでは次回をお楽しみに!!

 

来週の金曜日に又お会いしましょう!!

 

みなさんお元気で!!(コロナウイルスに負けないで頑張りましょう!!)

 

スペインのイルンより心を込めて、、、

 

水谷孝