劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』Blu-rayを鑑賞した記念の、感想の大総括について | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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真田大豆が極めて不正確で面倒くさい独り言をひたすら綴り、ややもすれば自ら恥を晒していくブログだにゃんわん!話半分に読んでね!

※当エントリは、以下の二つの項目によって2部構成される。

 

前半部

■劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』Blu-rayによる本編2度目の鑑賞の感想

後半部

■私宮尾に於ける、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の思想性への批評と、技術面への大絶賛との違いについて

 

 

 

「京アニ(京都アニメーション)クオリティを受け止めて演じてほしい」と言われたんです。こんなに重い言葉はないってくらい、重い言葉でした。

~ 劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』パンフレットに掲載された石川由依と浪川大輔との対談インタビューの2ページ目より抜粋 ~

 

 

 

前半部

■劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』Blu-rayによる本編2度目の鑑賞の感想

10月15日、Blu-rayを鑑賞し終えた翌日。

●「京アニクオリティ」の源は京アニスタッフの制作に掛ける“情熱”

 特典映像の舞台挨拶で石立太一監督が、本編クライマックスのギルベルト役の浪川大輔さんの演技について述べていた。

 曰く、劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の編集時に音響監督は、多少絵に合わなくても、より気持ちの乗ったテイクの演技を採用したらしく、又、石立監督は、場合によってはその声優さんの演技に合わせる為の更なる作画修正も辞さない覚悟だったそうだ。

 つまりそれは、勿論、声優を迎えての台詞の収録時に作画がどの程度まで完成していたかにもよるが、たとえ本来はアフレコ(※先に絵を完成させ、これに合わせて声優が演技する録音方法)を想定して制作された、しかもクライマックスを飾る超絶レベルの作画であったとしても、どこまでも『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品全体としての価値を上げる為に、声優さんの演技の気持ちの乗りに合わせる方が好ましいと判断された場合、更なるプレスコ(※声優の演技の収録が先で、これに合わせて作画を進める制作方法。例えば高畑勲監督作『おもひでぽろぽろ』が有名。)の導入による部分的な作画修正を掛ける判断も怯まずにやってのけるという、石立監督のこだわり、作品愛、制作に掛ける只事でないレベルの“情熱”を、私宮尾が窺い知れたという話である。

 ところで、いわゆる「京アニクオリティ」とは決して、只単純に、例えばディフュージョン効果※詳細のリンク)の多用のみによって、他のスタジオが簡単に猿真似できる程度のシロモノであろう筈もない事実は、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品と、これを生み出した京都アニメーションというスタジオのほぼ独立した生産体制を支える、その只ならぬ“情熱”を踏まえれば、明らかである。

 

●私宮尾が劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に見た京アニの演出力

 例えば、遠方から小さく描写されるヴァイオレットの打つタイプライターの細かい動きや、デイジーが訪問したCH郵便社で展示される切手のアップの隅々まで魂が込められた線など、とにかく全てのカットの画面に隙が無い!

 又、画面設計、カメラワークも、物語の文脈だけでなく、そのシーンごとに画面に映り込む被写体の構造、ディテール、そして象徴的な意味合いまで、全ての魅力を如何に必然的、且つ、直感的に伝わるよう表現し得るかという、多義的で複雑な演出哲学で徹底されている。

 更に台詞の間のとり方、音響の音作りのこだわりもそれを助ける。

 だから観ていて全く退屈が無い。

 むしろ没入観が凄い!!!

 私宮尾がそれを特に感じたのは、ヴァイオレットがディートフリートの招きでギルベルトの遺品を譲り受けるために訪れた船舶でのシークエンス。船舶の帆柱の木目のディテールと存在感を、物語の流れに支障をきたす事のない塩梅で美術表現された画面設計が印象的だった。帆柱が画面手前に突き出すように大胆なパースを掛けて存在感を放っていたあのカットの事だ。

 それは、ブーゲンビリア家の所有物で、後に廃船にする予定という船舶こそは、ヴァイオレットのギルベルトに対する未練を断ち切るよう迫る、物言わぬ舞台装置として、彼女の人生の方向性を大きく左右させかねない「舵取り」とか「羅針盤」などを象徴すると同時に、ディートフリートがヴァイオレットの人生に介入したい気持ちを抑え切れないといった、この誘惑まがいの同情心に対する彼自身の罪悪感をも象徴している訳であり、つまり、露骨にみなまで述べる事は控えるものの、あのシークエンスでの大胆に怒張するかのような構図で描画された帆柱に掛かる画面設計には、それらの多義的に葛藤するディートフリートの心象を象徴せんとする必然的な演出意図が大きく絡んでいる筈だと、私宮尾が勝手に直感するしかなかったというだけの話である。

 因みに本編でのヴァイオレットはそのディートフリートからの誘惑、同情、干渉の一切を振り切るまでもなく、そもそも、気付く事すらなく、それだけギルベルトに一徹な思いを抱き続けているという反応を見せ、これが以上に述べた様に演出されたであろうシークエンスに於ける極めて爽快なオチ、或いは、その時点では依然ギルベルトとの再会のシナリオが保証されていない段階な事から、極めて切ないオチとしても機能していると解釈できる。少なくとも私宮尾にとっては、あのシーンはそれだけ濃い説得力を直感させるだけの絵的な深みがあった!

 又、そこでヴァイオレットが波揺れで重心を失いかけディートフリートに支えられるシーンでの波、甲板を踏む靴音、そして何よりヴァイオレットの義手の金属音が素晴らしい!つまり、音響も含む全ての要素がひたすら、より良いものを追求しようという制作スタッフの、並々ならぬ“情熱”に溢れ返っている!!!

 それは、対べジータ戦で孫悟空が界王拳4倍をぶっ続けるのよりも凄い!!!

 つまり、油断も隙も手抜きも妥協も一切排除された次元で、只ひたすら制作に掛ける京アニスタッフの“情熱”こそが『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』には貫かれているし、これこそがいわゆる「京アニクオリティ」を唯一無二のものとして支えている、並大抵の発想では決して獲得できない、京アニの生産体制の、いわば基礎だと、私宮尾は言いたいのである。

 

●劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』から改めて感じたヴァイオレットの想いの重さ!

 果たして、私宮尾に於いては2020年9月の劇場鑑賞以来の、Blu-rayによる2度目の本編鑑賞で最も印象に残ったのは、ヴァイオレットの不憫さ。明らかにギルベルトよりも彼女の想いの方が幾回りも重いw! 

 「泣かないでくれ、私も泣きそうだ、顔を上げてくれ(※ギルベルトの台詞)」じゃねぇ!!!w 

 いや、そこが良いんですけどね!!!!

 つまり、そういうギルベルトの優しげで、兄のディートフリートとは対照的で、本来は軍人向きでもなく、よって、ヴァイオレットに同情を掛けてやった成り行きの果てで戦線にまで駆り出させてしまい、両腕まで失わせてしまったという罪悪感と向き合うのに耐えるだけの度胸をうまく発揮し切れずに、劇場版の終盤まで葛藤し続けているくらいが、彼のありのままを描く上では調度良いって事ですよ。私宮尾はギルベルトを責めたくないですね!むしろあっぱれを送ってやりたいです(笑)!だからこそホッチンズの「この大バカ野郎ぉおぉぉぉおおおお!!!」にもひどく共感できちゃえるわけですよ!!!!

 いや、本当に良い映画だ!!!!!

 

●私宮尾が京都アニメーションというアニメ制作スタジオに対するファンである最大の理由

 ところで、庵野監督が『エヴァ』を「サービス過剰」と振返ったりするが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も別の意味で超サービス過剰!泣ける物語って部分も勿論一級品だが、私宮尾にとっては何より唯一無二の「京アニクオリティ」が極められたという意味での超大傑作!そして「京アニクオリティ」の真髄こそは、アニメ表現探求の尋常ならぬ“情熱”!!!

 その尋常ならぬ唯一無二のクオリティと“情熱”とを、制作スタッフ同士だけでなく、制作事業全体の生産体制として持続、発展させられている厳然たる実績の数々こそは、あのジブリすら成し得なかった大偉業だと評価するし、この点こそが私宮尾が京アニファンである最大にして根本的な理由だ。

 つまりそれが何を意味するか更に具体的に述べると、まずジブリは、宮崎駿という只一人の超バケモノ天才の引退宣言によって、ここで擁されていた数多くの制作スタッフを解雇せざるを得なかったし、これはつまり、その当初まで頑なに維持し続けていた手厚い正社員雇用体制が、実のところ、超バケモノ天才たった一人の原作力、作画監修力等だけに頼り切ってきたという、極めて脆弱な生産体制を、例えば宮崎駿に代わるレベル(※存在する筈がないw!)の演出人材の発掘、登用等によって補おうとしてきた様々な企業努力も全て虚しく、この根本的な改善には至らなかったという事実の露見だったのだ。

 が、その点で比較するところの京都アニメーションは、たとえ宮崎駿レベルの原作力や演出力や作画監修力には未だ至れていないとしても(※むしろ至ろうとする必要は全くなく、これは只無謀なだけだw!)、しかし確かに芯の徹った演出力の才能、人材が複数で在籍しており、この条件を満たした上で、更に自社企画の原作一般公募システムで原作の権利を京アニが保有できる体制を整え、これによって二次使用権、グッズ販売等の収益配分も京アニ自身にしっかり回る様にする等して、いわゆる「京アニクオリティ」という、制作工程に於ける職人のこだわりを遺憾なく発揮させられる採算が、これまた正社員雇用体制を維持する中で見込めるだけの予算回収のビジネスモデルを、見事に実現し、今も尚、これを維持、発展させ続けている!

 その点は、明らかにジブリよりも京都アニメーションに軍配が上がると評価せざるを得ないという事である。

 劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のBlu-ray、大切にする!

 

 

 

後半部

■私宮尾に於ける、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の思想性への批評と、技術面への大絶賛との違いについて

 

▼本稿の概略

 私宮尾の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評は、思想性への批評と、技術面への大絶賛とで大別でき、これらは互いに矛盾せず、一定の体系上で並存している。

 又、私宮尾の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の思想性に対する批評は、2019年7月18日よりずっと以前から独自に貫かれてきた批判の哲学に沿っているだけの、所詮は個人的な見解による不満に過ぎず、だからこそ同時にこれはどこまでも、他人様のヒステリーやカルト的に狂信染みた因縁の類とは無縁だ。

 但し、私宮尾がそこで深く悔い、反省すべき点は、その当事に『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に対する批評を公表すべきだと判断させるきっかけとして働いた、かつての盲目や自己欺瞞に起因した、傍迷惑なだけの使命感だ。

 又、私宮尾の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の技術面に対する大絶賛こそは、2019年7月18日の影響の産物に他ならず、ここで私宮尾の予てからの「本質」を「思想性」のみに限定する定義付けは部分的に修正され、従って、今後の私宮尾にとって応援すべき京アニの「本質」とは、必ずしも作品の「思想性」のみに限らず、むしろ将来の為に維持、発展させながら備えるべき「技術面」も含むものとして、定義の幅を広げる結論に至った。

 従って私宮尾は、「京アニクオリティ」をいつまでも応援し続けます!

 

▼私宮尾が物語作品を評価する際の基本姿勢について

 私宮尾は物語作品を評価する際、必ず以下の優先順位で考察の論点の比重を見出す。

 【 作家・作品の独自の思想性 > 物語のプロットと脚本 > 技術面(カメラや編集や照明や音響による演出 > 演者の演技力 > 建築・衣装・小道具等の美術センス > 劇伴) 】

 尚、そこで「技術面」と括られている優先順位は、作風や題材によって前後する。

 又、私宮尾は基本的には、作品に対する批判だけを目的とした感想を公言、公表しない。もっと簡単に言えば、私宮尾は基本的には自分が気に入った作品に対してだけ感想を述べる。

 又、そもそも私宮尾は、作品に対する感想そのものを単独で公言、公表する社会的な意義を全く見出せない。従って、私宮尾は物語作品に対する感想の公言、公表という行為について、まず作品に対する好感を交えた上での、作品の社会的、且つ時代的な意義や必然性と、更に社会情勢や歴史的な教訓への省察とについての独自見解をまず概観し、次に必要に応じて解体し、修正し、再構成を試み、又改めて概観するといった思考の整理に於ける絶好の機会、このほんの一部として捉えている。

 以上に従って、私宮尾は社会的、且つ時代的な存在意義を見出せる物語作品に込められた独創的な思想性を優先的に語りたがる性分だと言える。

 更に私宮尾は、作家や作品の独自の思想性が存在しない所で、脚本や演出や照明や演技や美術や劇伴等の、あくまで技術的な次元に於ける思想や哲学の一切は、決して成立し得ないと考える。作家独自の世界観や価値観という根っこがあってこそ初めて、技術的な思想や哲学が独創的な形で規定され、果ては、時代が作品を生むと同時に、作品が一つの時代を築き上げ、これを牽引するといった必然性を結果させると考える。

 それをもっと簡単に言えば、私宮尾は、本質を抜きにしたまま、形式にだけ拘る作家や作品には、全く興味が無いという事である。

 つまりそれは、私宮尾が、作品を思想性と技術とで大きく二つに分けて見極める傾向が強いという事でもある。

 

▼私宮尾が過去に述べた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』感想を含むエントリ

 以上の様な、私宮尾独自の、物語作品に対する基本姿勢、これに基づく率直な形で、まずもって作家独自の思想性から優先的に焦点を当てて、ややもすると容赦なく批判的に述べられたのが、以下リンク先のエントリに於ける、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』TVシリーズ、スペシャル、特別編(※劇場公開一作目)、そして劇場版についての感想である。

 

▼第1の矛盾:基本的には控えていた筈の批判的な感想の公表を敢えて判断した理由

 さて、聡明な読者なら既にお気付きかもしれないが、そこには大きな矛盾が、2つある。

 まず第1に、【私宮尾は基本的には自分が気に入った作品にだけ感想を述べる】と先述したが、もしこのとおりなら、私宮尾は、そもそも『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の感想を当ブログやSNS上で公表していなかった筈だ。

 しかし実際は違った。

 何故か?

 その理由については、必要最小限の言葉を選んだ上で述べるしかない。

 それはまず、私宮尾が、2019年7月18日以降、京アニ作品の、あくまで「思想性」に限定したところの「弱さ」だけは、敢えて批判すべきだといった、この八つ当たり的な感情論を、さも使命感の如く錯覚し、或いは欺瞞し、これに基づいて『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の思想性に対する、あくまで私宮尾の個人的な見解に過ぎない「不満」を公表すべきとも判断してしまっていたからだ。

 尚、私宮尾は、その第1の矛盾を判断させたきっかけとしての自己欺瞞的な使命感を正当化するつもりは毛頭無く、むしろこれこそが本稿に於いて最も悔やまれ、反省すべき類の本質と看做すが、同時に、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に対するかつての私宮尾による批評や、これを公表している事態そのものについては、依然、必ずしも否定的にだけ解釈できはしないと考えている。

 それについては追って詳述する。

 

▼私宮尾が言わんとする「作家独自の思想性」とは何か?

 又、そこで私宮尾が指摘した「京アニの思想性の弱さ」、或いは私宮尾が言わんとするところの「思想性」とは何かについては、本稿では詳述しないが、端的に言うとすれば、それは未だ、日本のアニメ作品の中では、宮崎駿や高畑勲の原作企画でしか、ほぼ達成されていないレベルの、企画原作者の独自の思想性、人間や世界に対する構造的な洞察、懐疑主義の果ての普遍的な説得力を備えたテーマ性・・・、といったようなものだ。

 それは例えば、民族相互差別問題の実態とは何か、とか、一神教と多神教の違いや現代の宗教戦争の実態とは何か、とか、人の自由意志や自律性や自然権などがどこまで把握された上で近代文明の礎として我々現代人の日常生活でも機能し続けているのか、とか、そもそも「実存は本質に先立つ」のではないか?等の、こういった、我々現代人が常識として享受している現代社会を根底で支えている西欧近代的な洞察の視点の数々について、今一度改めて、自覚的、且つ客観的に省察し直すことを持って、現代の本質を抉り出す様な挑戦的な創作に対する精神姿勢が無ければ、決して到達し得ない境地だ。それは合衆国の核の傘に守られて、国家としての自決権を持たないままに只ひたすら経済問題だけに一喜一憂している事だけが人類社会の全てだと勘違いしていられる平和ボケ日本の閉鎖空間からだけではなく、近代文明という時代性そのものから、一度抜け出し、平和ボケ日本や近代文明の外側を洞察し、そして又再び平和ボケ日本という足元を、より深い観点から活写し直すという事だ。

 言い換えれば、その境地は、日本のアニメ業界であれば宮崎駿、高畑勲、押井守、庵野秀明、片渕須直・・・あたりだけが到達できた境地であり、米国のハリウッドであれば、英語圏の実力者が凌ぎを削り、優秀な脚本選考プロデューサーによって振り分けられチャンスをものにし見事結果を出した者だけが生き残る世界の、名だたる原作提供の元ジャーナリストや元弁護士や元軍人等の経歴を持ってたりする小説家等が活動舞台とする境地であったりする訳だ。少なくとも、彼らは皆、ギリシャ神話とセム系一神教との宗教的な本質の違いや、トマス・ホッブスやサルトル等の西欧哲学思想の系譜の節目等についての教養と、これに対する独自の解釈や、これを踏まえた上での独自の世界観、独自の「思想性」を備えた上での物語表現の昇華への衝動に掻きたてられている部類の奇人、変人、狂人、天才である。

 私宮尾が「京アニは思想性が弱い」と指摘する脳裏には、上述のようなレベルで、人間を描く事ができる、作家独自の「思想性」の境地が意識されている。

 尚、日本のアニメ表現は、作画の面に於いてはもとより、登場人物の人格造形や演技や演出等あらゆる面に於いて、いわゆる「記号的な表現」に「過度に」頼りがちなため、人間を描くという最も肝心なテーマ性を疎かにしがちだが、これについての具体的な詳述もここでは控えるものの、今思い当たる例を一つだけ挙げるとすれば、細田守監督が『サマー・ウォーズ』の頃に比べて『竜とそばかすの姫』では記号的な表現をより戦略的に抑制した分だけ、人間を描く事により注力できており、これを成功させているといった、日本のアニメ史に於ける極めて歓迎すべき功績がある。

 それが具体的に何を意味するのかと言えば、例えば、旧来の宮崎駿的な、女の子が両手と頭髪で顔を覆い隠して俯いた姿勢で声を殺して泣くだとか、見晴らしの良い高台で直立よりもやや前傾姿勢になって絶景と対峙するだとか、これらのおそらく意図されたオマージュにしても、物語全体の中では極めて必然性の薄い表現が『サマー・ウォーズ』では散見されたが、これが『竜とそばかすの姫』では綺麗さっぱり捨て去られていた点はもとより、物語を転がす主人公の動機の必然性を支える心象へのより徹底された掘り下げ、これは表立った演出が極力省かれた主人公の自殺願望を巡る掘り下げなのだが、つまり記号的な人物造形とは対極の、より必然性の強い表現形態が、あくまで同作の明らかに一見非合理にも映りかねない筋書きの全体を見渡した場合には、際立っており、こういった意味での、人間を描く度合いが歴然と、比較的に強化されていたという点を意味している。

 又、記号的な表現を必然的な演出意図も無く無節操に採用した挙句、人間を描く事が疎かになってしまう事がどれだけ「映画興行として」恥ずべき事であり、又、最大公約数的な世間様に納得してもらえないどころか、むしろしらけさせてしまう(!)事なのか等について、これらとは最も迂遠な次元にあるといった意味で参考になるであろう有名どころの作家名として、宮崎駿、高畑勲、マーティン・スコセッシ、リドリー・スコット、ガイ・リッチー、クエンティン・タランティーノをお薦めしておく(※勿論、私宮尾の単なる好み)。

 尚、そこで特にタランティーノを薦めている点で、私宮尾が記号的な表現そのものを全否定しているのではない事は明白である。つまり私宮尾が言わんとするのは、あくまで人間を描くという至上命題に資する形であれば、演繹を尽くした必然的な心理描写であろうが、意表をつく記号的な演出の挿入であろうが、分け隔てなく活用すべきという考えである。

 そこでいくと私宮尾にとってタランティーノは言わば闇鍋であり、テーマ性の解釈の幅に到達する以前の、物語を構成する実存の観てくれが奔放を極めている意味で難解な分だけ直感を揺さぶるし、これに対するガイ・リッチーは言わばガスパチョで、果たして高級を気取ったふりをして野暮ったい肩透かしを織り交ぜているのか教養高いジョークを意図しているのか両方なのか終始分かり辛いが結局は極めて気高くも親しみ易いユーモアの余韻に浸れるし、更にこれに対するリドリー・スコットは言わばメニュー表が存在しない日替わり高級フルコースであり、常に人間を描く為の演出アプローチが刷新され続け過去の己を踏襲する事を極度に嫌うかの様な、苦行僧というよりは基礎化学分野で派手な成果を乱発する奇人変人の類を思わせる作風だし、更にこれに対するマーティン・スコセッシは衣食住の全てを必然的な関連で演出し切らなければ満足できない、言わば密造酒で豊かな生計を立てながら地域との文化交流に励みつつ領主の圧政には刃向かい続け、慈愛と教養に溢れる破門すれすれの司祭であり、更にこれに対する宮崎駿と高畑勲は、言わば長崎の出島から横流しされる蘭学や解体新書の類を読みふけり、これを絵に描きとめては世の禁制を掻い潜る反骨精神を表現し続けた浮世絵師ってところか(※例え方が破綻しました)。

 

▼私宮尾の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の思想性に対する批判の概略:真の“結末”が未だ描き切られていない

 では、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に対する、私宮尾の個人的な見解による不満とは何かについて、以下に概略する。

 ヴァイオレットがギルベルトと戦場で行動を共にするに従い、彼に対する恋を募らせたというエピソードが“発端”となって、彼女の野生に覆われた人としての心が芽吹き始めたのであれば、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語の全体としての“結末”は、あくまでヴァイオレットが野生的な本能から解放される事、又、少佐の犬という自意識からも解放される事、そして、常人が人として当然に抱く筈の、戦場での殺生に対する葛藤は、野生的な生存本能に囚われて麻痺しながらも、しかし辛うじて芽吹き始めていたギルベルトへの恋慕を原動力として重ねられてしまった、敵兵への大殺戮に対する罪悪感を獲得する事、そして更に可能ならば、その罪悪感を償わせる何らかのエピソードを交えて彼女の生涯を描き切る事、これらによってこそ初めて達成される“人の心の獲得”であるべきで、それは決して、ギルベルトとの再開によるヴァイオレットの恋の成就だけでは十全に描かれよう筈も無い、言わば、ロマンス的なテーマを超越した、より普遍性の強い救済のテーマを標榜する上では看過されよう筈も無い、必然的な“結末”の形だ。

 尚、ヴァイオレットが両腕を失ったエピソードや、TVシリーズの第9話で、ヴァイオレットが罪悪感から自身の首を絞める等して葛藤し、憔悴するエピソードや、同第11話で、戦死を見届けた青年の遺族に訃報を届けたエピソードや、同第12話で、軍の過激派の残党が目論んだ有事の誘発を阻止するエピソード等では、たとえ「かつての殺戮の罪悪感への埋め合わせ」という構造にはなったとしても、決して「少佐への恋を源とした殺戮の罪悪感への埋め合わせ」という構造にはならない。

 それを見過ごせないヴァイオレットの人格の成長を描く事、そして、この苦悩を救済してやれるだけのエピソードを描き切る事が必要だが、劇場版の終幕まで、それは依然と果たされていない。

 では、その描かれるべきエピソードとは何か。

 少佐への恋を源とした殺戮への罪悪感を埋め合わせるに相当する、つまりは、ギルベルトとヴァイオレットの愛を阻害する、かつての殺戮からの因縁との対峙だ。

 つまり以上の内容は、真の結末を描く為の、更なる続編を希望するという話に全てが帰結する「批判」なのであって、従って、既に公開されている『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズそのものに対する批判には、必ずしも当たらない。

 

▼私宮尾が今も尚、自身によるかつての『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』への批評そのものを全否定しない理由

 では次に、そもそも何故、私宮尾は、この期に及んでも尚、かつての『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の思想性に対する批判的な感想のエントリを削除、訂正しないばかりか、上記の様な個人的な見解に過ぎない不満の類を敢えて概略までするのか。

 その理由は、私宮尾の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に対する向き合い方に、そもそも、2019年7月18日よりずっと以前から、あくまで私宮尾個人の中だけに留められてきていた確固たる独自の批判の哲学こそが根拠されていたという事実を知って頂く事によって、その約2年間の私宮尾から、何らかの危険や不安を感じていたかもしれない部類の読者に対して、一種の誤解を解いて頂く為である。

 つまりそこで言わんとする事とは、本稿の冒頭から前半部で述べた、現時点で最新の私宮尾の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』大絶賛評と、上に概略した様なかつての『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』批評とは、全く食い違いも無く、矛盾しないという事であり、何故ならば、それらはそれぞれ、前者が主に作品の技術面に焦点を当てた大絶賛であり、後者が主に思想性に重点を置いた批判となっているという、こういった厳然たる違いで捉えられるからという話である。

 要は、かつての私宮尾の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に対する思想性への批評は、決して他人様のヒステリーだったりカルト的に狂信染みた因縁から影響を受けた類などではないと再確認して頂く為に、敢えてエントリの削除や訂正を判断しないし、又、問題の本質は、あくまで本来は公表を避けていた筈の批判的な感想を敢えて公表すべきだと判断させた、私宮尾の自己欺瞞に起因した、馬鹿げた使命感なのであって、決して『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』への批評そのものが全否定されるべきでもないと判断したという事だ。

 

▼第2の矛盾:作品の思想性、この「本質」のあり方に不満を感じる『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に対し、私宮尾が興味を持ち続けるばかりか、むしろ大絶賛する理由

 では次に、第2の矛盾について。

 先述した私宮尾の、物語作品に対する基本姿勢では、【本質を抜きにしたまま、形式にだけ拘る作家や作品には、全く興味が無い】とある。もしそのとおりなら、そもそも私宮尾は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に全く興味を持たなかった筈である。

 しかし実際は違った。

 何故か?

 それこそ率直に述べるしかない。

 その理由は、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に対する私宮尾の大絶賛こそが、2019年7月18日以降の影響の産物に他ならないからだ。

 つまりは、あれ以降、私宮尾は京アニを応援する為なら、たとえどんなに残虐非道で愚かで恥知らずな大言壮語にも耳を傾けてしまう程度には、手段を選んでいない。勿論、そこにとんでもない悪意の付け入る隙を許してしまったという自らの盲目と大失敗を深く反省し、悔いはしたものの、しかし又一方で、今となっては、京アニを応援する上でなら、私宮尾独自の「本質」とか「思想性」等への定義付けごときに拘り続けるのも滑稽な話だし、これを多少はいじくっても問題ないじゃないかと開き直っている、このような率直な部分があるという話だ。

 つまり、今の私宮尾にとっての『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』から見出し得る「本質」とは、必ずしもそこに込められた「思想性」だけとは限らず、むしろ本稿の前半部の冒頭から述べ続けたところの、いわゆる「京アニクオリティ」を根底から支える制作スタッフ陣営の“情熱”、これである!

 私宮尾にとって『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』で評価すべき「本質」とは、「京アニクオリティ」を根底から支える“情熱”だ。

 つまり、私宮尾にとって『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』への感想は、もはや技術面への大絶賛だけで充分に成立する。

 この際、「思想性」に対する不満など一切合財忘れてしまっても構わない!

 2019年7月18日を経たばかりの今という時代性だからこそ、「京アニクオリティ」の技術面に「本質」を見出し、大絶賛を貫かなくてどうするという話だ!

 京アニに於いて、物語の重厚で隙の無い思想的な構造を昇華できる才能が育つまでは、時間が必要だ!それが叶うまでは、まずもって「京アニクオリティ」という、より確かで実際的な生産体制の維持や発展こそが当面の課題とならざるを得ない事は明白なのだ!それをもってして、近いか遠いか分らない将来に、物語の思想的な構造を演出できる才能の成長や、或いは、その条件を満たす新たな原作との出会いが果たされるであろう時の為に、今は全力で備え続ける事こそが京アニにとっての、おそらく最善策であろうし、これこそが私宮尾が応援すべき、京アニの「本質」そのものなのだ!

 以上に従って、今の私宮尾は、予てからの【本質を抜きにしたまま、形式にだけ拘る作家や作品には、全く興味が無い】という持論に対し、全く矛盾していないと結論に至ったのだ!!!

 従って私宮尾は、京都アニメーション様の“情熱”を、いつまでも応援します!