『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』『LUCY』『鬼滅の刃』 | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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※以下リンク先のエントリにて、本稿より後日に改めて『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』への感想を総括的に述べました。

▼2020年10月2日

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』を初鑑賞し、バルザック『谷間のゆり』を改めて熟読すべきと強迫観念に駆られ理由は、終盤、嫁いだ先の、河を臨める屋敷の庭に憂いで佇む(既に子も産んだであろう)イザベラが『谷間のゆり』のイマジネーションを彷彿させると勝手に思えてしまったってだけ。
 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は間違っても『ランボー(一作目)』と並べて語れる作品じゃないし、他に、帰還兵のPTSDを描いた『マイ・ブラザー』や、反政府過激派武装勢力に拉致され麻薬漬けにされた少年兵を描いた『ブラッド・ダイヤモンド』等、戦争の欺瞞に対する優れて自省的な【洞察】に恵まれた文化水準に晒してしまえば、致命的な構造破綻を内包する作品である事実は明白とならざるを得ない。
 というのも、幼き頃のヴァイオレットちゃんが殺戮兵器として何ら葛藤も無く振舞えた(※他でもない、あの露悪なまでにディフュージョン活用しまくって、少佐の「武器」「犬」として役立てる自分に対する恍惚感、陶酔感を演出させたヴァイオレットの白兵戦シーン)事は、彼女を救い、この生存本能に応えてやった少佐に対する彼女の無自覚な純情の証だという設定は、一方の本編で、彼女が多様に巡り会う、死別の悲しみを乗り越える愛や勇気を刷り込まれていく過程で、必然と途方も無い威力で襲い掛かる時限爆弾である他無いと、私には思えて仕方が無い訳だ。
 つまり、ヴァイオレットの少佐に対する愛が無自覚から自覚に変わるほど、そしてこれを支援する、彼女の自動手記人形としての様々な出会いによる情感の成長が進むほど、彼女は愛の何たるかを知ると同時に、自分が過去の戦争で殺めた数知れぬ愛の背景に降り掛かったであろう破滅に対する想像が否応無く可能となり、これに対する抵抗感(自己防衛本能)による心的ストレスは、少佐への愛情が根源であった分だけの強度をもって彼女に襲い掛かる、という具合である。
 戦争、殺戮、死、死別の悲しみ、これを乗り越えようとする愛や勇気、これらのテーマ性を鑑賞者に響く様、誠実な普遍性を伴う構造力(思想性)を持って描こうとするなら、ヴァイオレットちゃんの成長に伴う、彼女の過去の殺戮に起因するPTSDや、自己崩壊レベルに強烈な葛藤描写は必然とする他無いだろう。
 しかし私は『外伝』まで鑑賞した限り、依然それにお目にかかれて居ない。どうやら現在上映中劇場版で少佐が登場するらしいが、これがきっかけで堰を切る様にヴァイオレットのPTSDが露になるか。

 

▼2020年10月某日※※※大幅加筆!!!※※※

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に私が期待する、更なる続編で物語られよう「メインプロットの『結末』」としての、ヴァイオレットの「葛藤」「贖い」そして「少佐の武器、犬」からの「真の解放」について

 つまり、私が当時上述した『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(TVシリーズ&外伝)』に於ける「致命的な構造破綻」とは、本作が、ヴァイオレットが「武器」「少佐の犬」から解放される事で、「人の心」を「獲得」して行く(※「取り戻す」ではない。彼女は元々「人の心」を育まれる環境にすら恵まれなかったのだから)過程をメインプロットとする物語である筈にも関わらず、彼女に於ける「少佐の武器・犬」として振舞う唯一の生甲斐、喜びという呪縛、不遇を最も雄弁に語る、自己陶酔感、恍惚感の演技が伴った白兵戦シーンや、又、ホッジンズが第一話で「君は小さい頃からずっと軍にいて、任務を遂行するだけの毎日を送ってきた。でも、これから君はたくさんの事を学ぶよ。だけど、学ばない方が、知らない方が楽に生きられるかも知れない。君は自分がしてきた事で、どんどん体に火が付いて燃え上がっている事を、まだ知らない」と彼女に語ったシーン等、これら脚本上のメインプロットの【発端】が、これに対応すべきメインプロットの【結末】に恵まれる事も叶わず、宙ぶらりんに放置されたままの状態が、TVシリーズ全編&外伝&劇場版の終幕まで終始続いてしまっており、従って物語の構造の体を成し得ていない点を指している

 

 すなわちそれは、単純に脚本制作上の作法の問題に他ならず、これ以上でも未満でもなく、逆に決して、軍事ミリタリー趣味的でマニアックな自己顕示欲を充たす為の横槍批判だとか、或いは新興宗教的な倫理道徳観念が思想背景に見え隠れする教条主義だとか、或いは保守・リベラルや右翼左翼の何れかに立脚する融通性に乏しい政治思想的な理念による批判だとか、はたまたポリコレ的な文化萎縮・破壊のアンチ行為の一環だとか、んな滑稽な発想の現れと疑われる事自体こそが滑稽この上ない話なんであって、繰り返すが、それは飽くまで脚本制作の作法の話に他ならないのだ!

 尚、私が考える『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のメインの【発端】に必然と伴うべき「メインの【結末】」とは、ヴァイオレットに於ける、「少佐の武器・犬」として生きる自己陶酔からの真の解放の証としての、第一に、愛を知る事を表すエピソード(の為のサブプロット群:これはTVシリーズ&外伝&劇場版で前面に描かれているのは周知の事実)と共に、第二に、愛を知ったが故に憎しみとこれに伴う自己嫌悪や自省や贖いを追及する、この愛とは対をなす又一つの精神性の領域を知る事を表すエピソード(の為のサブプロット群)、これら両要素によって構成されてこそ、初めて成立する、この『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を真に完結させ得る必要不可欠な構造である。ところで、当加筆とは別に本エントリー内で後述される、当時の私の『劇場版』への感想に於いて、この本編及び劇場来館特典だった『ギルベルト・ブーゲンビリアと儚い夢(原作者執筆短編小説)』にて、少なくともギルベルト少佐その人の【贖い】だけはしっかりと描かれていた事を確認できた旨を述べたが、依然ヴァイオレットという主人公本人の【贖い】は影を潜めたままで、私が今尚『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の更なる続編を期待して止まない根拠は、正にここにある!!!

 で、ところで『劇場版』の前売りチケット特典の描き下ろしイラストの一つに、エカルテ島でギルベルトも教鞭をとる学校の生徒と思わしき子供達の戯れの輪の中心に、ややぎこちなさを隠し切れずに座るヴァイオレットの図という、非常に微笑ましく印象的なモノがある(私はこの絵が大大大だい好きだ!!!)。


 ヴァイオレットにとってエカルテ島の【子供】達は、自らには決して恵まれる事のなかった、彼らの親の愛に育まれた幼少期と、これをバネにすくすくと伸びやかに、依然未発達ながらも「人の心」を躊躇無く、手加減知らずに表してくる、自分には無いものを持つ言わば「(小さな)先生」の群れに他ならない!又、そのイラストに描かれる【子供】達の大方は、大戦で父親を喪っており、一方のヴァイオレットは同じ大戦で多くの父親たる兵士を殺し、生き延び、そして生還した者の一人である(※「ヴァイオレットが敵兵を殺した事で自責の念に苛まれる契機を抱え込むと看做すのは誤謬だ」という主張は、この際むしろ虚構創作上の洞察力を欠いた無頓着の露呈に他ならない!何故なら、たとえ敵兵であろうが何だろうが、その厳然たる「殺人」行為に付き纏い続ける後味の悪さに一切の拒否権の余地を許してくれないのが、複数の公けの大義同士の衝突に一斉動員・同調を迫ってくる戦争という、政治的且つ極めて人間的に生々し過ぎる現実であり、実際なのだから!因みに、むしろ味方・友軍への誤射も、総力戦時代の白兵戦闘ではザラだった!詳細は合衆国南北戦争を参照あれ!!又、私が「白兵戦」への指摘を繰り返し強調する理由こそは、銃剣の先端で攻撃対象を嬲り殺す際に要する心身共のエネルギーが、この障害たる骨を避けて狙う筋組織及び臓器を悉く蹂躙し機能停止に追い込む暴力に伴い手を伝う厳然たる感触とこの精神的抵抗、又この際の攻撃対象との間合いから想定され得るこの呼気、悶絶の叫声、吐しゃ物、返り血、口臭及び体臭、意識と自律を失い崩れ倒れてくる骸(むくろ)の体重と体温、永く過酷な戦況で煩った極度のストレスや感染症や排泄物等による腐敗臭・・・への本能的嫌悪を忍耐し続ける精神的抵抗による消耗に耐え得る莫大な量である事と、これらが遺す記憶、心への爪痕の甚大さが、ヴァイオレットの自己陶酔の影で、後々まで燻ぶり、潜伏し続けるであろうという程度に、彼女も又、「人の心」を「獲得」し得る紛う事無き人間の一人として描き切る限りに於いては、これを文学的な洞察対象として捉えなくてはならないと考える理屈にある!!!要は、「戦争」及び「殺人」の実際が、決して「観念」なんかでなく、最前線に於ける具体的な営み、行為、暴力の体験の一つ一つとして、他の題材と等しく自然主義的な洞察による虚構の断片たるべきを必然的に迫られる制作シーンというものは間違いなく存在し得るという、より文学史、映画史の文脈に対し誠実・謙虚たろうとする前提の上で、他でもない、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の場合こそは、この主人公をして、事もあろうに敢えて戦場のロマンスを「発端」にして「人の心」を「獲得」させんとする物語に於いて、それが必然的な表現課題と看做されざるを得ないと、至極当然に帰結される話に過ぎないのだ。そもそも自主防衛のための戦力を完全に放棄した敗戦国日本の、自主独立近代国家としては間違いなく堕落し腐敗し切った、軍備丸投げ拝米平和原理主義的な麗しき風土では、しばしばそういった創作的無頓着の怠慢が横行し、結果、「戦争」も「平和」も作家個人の独善的でファンタジックで幼稚なレベルでしか描かれてこなかった。つまりその敗戦国の風土で生まれ育った作家達が、年齢を幾ら重ねても、これによって刷り込まれた近代偽装の一般通念を、自助的な知識探究で挽回し覆す気骨とこの表現こそを自らの生業の本質的な意義の一つとして見出す事すら叶わない無能揃いだったという事だ(呆)!勿論、宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』、高畑勲『火垂るの墓』、監督片渕須直・原作こうの史代『この世界の片隅に』、水木しげる、手塚治虫等は、敢えてここでは更に厳密な作品論的な線引きは避けるが、その例外って話だ)。ヴァイオレットは、半ば第二の母親の様に多くの【子供】達から慕われながら、自らには決定的に欠落した幼少期の親の愛の恵みを、彼・彼女らから表される未成熟には違いないが「人の心」を強烈に浴び続けるエカルテ島での日常をもって、次第に、かつてライデンシャフトリヒで過ごした自動手記人形としての日常とは比べ物にならないほどに、大量で複雑で豊かに「獲得」できるだろう。と同時にヴァイオレットは、父親亡き多くのエカルテ島の【子供】達の境遇と、後に彼女がギルベルトとの間にもうけ、おそらく彼という父親に恵まれ続けるであろう我子とを日常的に見比べてしまわざるを得なくなった時、「人の心」を(劇場版も含める本編で語られた以上に)「獲得」し続けて久しい状況で、ほぼ確実に、大戦従軍当時、激動の大河に翻弄された不可抗力の成り行きではあったにしろ、故郷では家族が生還を待ちわびる父親としての実際的な側面も併せ持っていたに違いない多くの敵兵士達を、自己陶酔の果てに殺し回ってしまった過去を、これまで持ち得なかった全く別の視点から、つまり「人の心」をより一層「獲得」した一人の母親の視点から、改めて客観視し直せるようになり、しかし又同時に、この過去が無くては今の自分、ギルベルトとの再会を信じ続けたTVシリーズ本編の自分、エカルテ島までギルベルトを追って再会を果たし、それまでの全てを投げ打って生活拠点を一気に移し、ギルベルトに全てを捧げる新生活を始動させた自分、これら全ても決して存在し得なかったのだという風に、果たしてこの様な極限レベルの「葛藤」の日々に苛まれるようになるだろう。が、それでいいのだ!!!!『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という物語のメインプロットがそもそも、ヴァイオレットが「戦渦のロマンス」という言わば「罪深き幸運」を【発端】にして「人の心」を「獲得」する【結末】を目指すという筋書きだった筈なのだから(!!!!!!)、この際彼女が「人の心」、愛、憎しみ、慈悲、葛藤、自省、贖い、死・・・等を満足に経験し学び感じ取り、認識し、悟り、やがては「獲得」に至り、この「真の解放」が物語られ尽くされる為なら、ヴァイオレットは大いに「葛藤」し、しかし彼女の生来のタフさで決してグダグダな鬱屈のどん底に停滞し続ける事も無く、又、美しさに恵まれたエカルテ島の自然環境(とこれを創り出し支える京アニの背景美術クオリティ!!!)や、他でもないギルベルトという「最愛」の夫にも支えられながら、早々に、もう一本の劇場版続編分の尺度を費やすくらいで、優雅に、逞しく、乗り越えてしまえば善いのだ!!!

 私はそんな事を上述の特典イラストから想像し、必然と物語られるべき『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の【結末】、真の完結編としての更なる続編を、今も尚、期待し続けているんです(渇望!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)。

 そしてそれが成された暁には、私は諸手を挙げて『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の全てを、思想性の粋を尽くした大傑作として大絶賛するに決まっている!!!!!そもそも上述のイラストが構想されている時点で、既に原作者と京アニとの間でそのレベルの制作上の合意が固められているであろうと、私はほぼほぼほぼほぼほぼぼぼぼbっぼお確信までしちゃってます!!!?!!!応援してます!!!!!!!!!!気長に待たせて頂きますが、とにかく応援し続けてます(今月半ばには京アニ直販から原作本4冊も届くそうで、到着したら色々確認したい事もあるし、多分即行で、しかしじっくりと読ませて頂きます)!!!!!!!!!!!!!!

 という話である。

▼2021年1月1日

 現時点で私、宮尾は、京アニ放火大量殺害事件後、再び京アニ制作スタッフとして作画机に復帰されている方々全員の計り知れなく偉大な勇気の中に「事件やこの犠牲者の【無念】を無かった事にしたい、忘れたい」といった様な思惑が入り込める隙なんぞ、微塵も存在し得よう筈が無いと想像(確信)する他ない事から、それでも事件への一切の公式的な沈黙を守り、このおそらく途方も無くやり場の無い極限の悔しさにすら耐え続けつつも、ひたすら今持てる力で可能な制作活動に集中し、勤しみ続けられている勇姿を無条件に応援させて頂くものであり、この際、私自身もその京都アニメーション様の偉大過ぎる忍耐と創造の勇姿とを見習わせて頂き、所詮外野であるに過ぎない自らの立場を弁え、気持ちは別としても「仇討ち」等とSNS上で言葉にする事を、今後は控えます。京都アニメーション様、応援してます!!!!京アニショップ!大好き!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

▼2021年1月13日

 「進みたい表現から、逃げない」。

 【2020 12 16 三重県・展示会・京アニ/故 アニメーター・渡邊 美希子さん(当時35)の思い 伝える/桑名市 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

 絶対忘れない。

※※※大幅加筆終わり※※※

 

▼2020年10月2日

 が、そもそも私は『ヴァイオレット』に元々その辺の思想性は期待してなかったし、今も今後もしない。それは最早無駄だとほとほと分り切らされたからだ。それにもしそれが叶っていたら、今の様な話題性の騒ぎで済んでいる筈も無いとも確信している。
 従って、私にとって『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、思想性のレベルでは一切語るところの無い作品。一方で、アニメーターや声優の演技、題材から連想される再発見等、枝葉末節の表層をつつく程度(※これはこれで凄く大事)に意識させられる、愛すべき作品でもある。
 以上は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』批判に留まらず、没思想性で窮した日本アニメほぼ全般に対する予てからの純粋な持論。

 又、私は10話のアンの物語を支えた演技の情熱と技術だけでこの作品を強烈に好きと感じられるのも事実。
▼2020年10月3日
 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は【戦争(※しかも白兵戦)】という不条理な歴史や現実を娯楽として活用するという、制作上の明らかなる狂気をこれと自覚した上での、最低限の誠意を果たし切れて居ないと私は思う。
 ふわっとした気持ちで戦争やこれに順ずる如何なるレベルのファンタジーすらも物語っちゃならんと思う。こと『ヴァイオレット』は【愛する少佐を守るためなら他は皆殺しにすることも厭わない】を、私怨・因縁のマフィア抗争ならいざ知らず、よりによって公けの大義の衝突たる【戦争】を舞台に繰り広げたのだから、この物語の大筋は、私の理想だが、動乱に翻弄されたヴァイオレットの呪われしロマンスの始まりから終りまでを、公私共々けじめをつける彼女独自の信念の模索と貫徹、例えば『るろうに剣心』『無限の住人』が辿った文学性に類する挑戦の機会と、京アニには捉えて欲しかった。
 ヴァイオレットちゃんと少佐のロマンスは、大戦の動乱を養分にし培われ、他の多くの(敵兵とこの親類含め)犠牲の上で成立ったという後ろめたさ、この当の本人らには全くの不可抗力だったからこその呪われし運命の活路を見出さんとする自動手記人形としての葛藤を前面に物語るべきだった。私はそう思う。
▼2020年10月4日
 ヴァイオレットちゃんはアダマン銀(?)の精巧な義手とあの変化に乏しい表情でつい錯覚しがちと思われるが、決してロボットではなく生身の人間だ。故に、【愛ゆえに殺すことを覚えた少女】を贖罪が課されるべき不憫な主人公と捉えることを、端から放棄した物語の語り口に、私は全く共感も感情移入も抱けない(※この当時の私は依然『劇場版』及びこの特典冊子『ギルベルト・ブーゲンビリアと儚い夢』に全く触れられていない事を留意されたい)
 そういった、私にとって『ヴァイオレット』の大筋の語り口に於ける著しい道理の逸脱、創作上の怠慢とも見受けられるものこそが、転じて、10話アンの物語や5話シャルロッテ王女の恋文代筆の物語、この脇役を主人公として看做し鑑賞し得る部分的構造へのやや偏屈な賛美に繋がっているのが正直なところだ。

▼2020年10月6日
 TVシリーズ10話のアンが最後の劇場版で再び関わってくると知り、嬉しくて仕方が無い。次の休日鑑賞への期待に先走って、パンフだけ購入してしまった!!!


▼2020年10月9日
 『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』初鑑賞感想(※ネタバレ含む!!!)。
 バイオレットちゃんが「武器」「犬」の楔から人の心を獲得し解放される過程(結末に及ばない途上のもの)を描いたTVシリーズに対し、『劇場版』はギルベルトの【贖い】の一つが晴らされる物語だった。
 かつて、孤児で身寄りの無いヴァイオレットを引取り、教育を施したものの、「武器」としての生き様から彼女を引き離せなかった(この理由に“?”を突きつけるのは果たして無粋か?(※後日『ギルベルト・ブーゲンビリアと儚い夢』でその理由が明かされたことを確認できた!))事と、新たな生活拠点に選んだエカルテ島で、戦争から未帰還の男らを待つ、遺された島民の女子供老人らの生活を助け、自らは帰還兵としての贖罪の念に身を費やす事とが、大戦後、ギルベルトが郷に消息を断って暮らしていた理由だったが、両腕や、人の心を学ぶための大切な時間までもを奪い、只々「武器」「犬」として「不幸」にしてしまったと思っていた筈のヴァイオレットから、「少佐から人の心、愛を教わりました(※筆者のうろ覚え)」「ありがとうございました」と、彼女の不本意と知っての別れ言葉をドア越しの距離から直接に聞かされてしまえば、むしろギルベルトに於いては、ヴァイオレットの幸・不幸の両方の芽を植え付けた張本人として自覚を改めざるを得ず、この責任をとるためには彼女に生涯寄り添う他に選択の余地が許され様筈も無い・・・という大義名分が立ち、いよいよヴァイオレットとの再会、「愛してる」の先に夢見た本音の、堰き止められていた全てを一斉解禁する意志が開かれたのだった!というところで『劇場版』本編は終るのだが、これに前後するデイジー(※TVシリーズ10話のアンの孫娘)の時代に至るまでの時間の中では、本編に語り切られなかったであろう、ギルベルトのヴァイオレットに対する様々な形の幸・不幸の責任の取り方(の形容に留まらないもの)の悲喜こもごも、日常ディテールや又一方の何気ない徒然が、これらの規則的な様で不規則な緩急の繰り返しがあったんだろうなぁと、想像の余地を残してくれる映画だった・・・と私は信じる事でひとまず納得する事にした!
 つまり『劇場版』では、幼少から軍人として生きる道を教え込まれ、これに見合うだけの教養を叩き込まれて育ったギルベルトの帰還兵としての贖いの一部が描かれたものの、果たして、一方で孤児の境遇と大戦の社会的動乱のどさくさに翻弄された成り行きで、たまたま軍の最前線に配属されてしまったヴァイオレットの帰還兵としての贖いは、ついに最後まで描かれなかった訳だが、これは当然、ヴァイオレットにはそれを振返るだけの『劇場版』本編の尺を優に超える遥かな時間が必要な訳(※つまり両者の立場、生い立ちに伴う教養の違いに起因する話という私の理解)で、しかしこの間も絶えず彼女の傍に寄り添い続ける(※ヴァイオレットの【贖い】のサポート役、共同作業の相棒役としての)ギルベルトの存在を想像できもするのだから、好い加減、これで充分、私もついに『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の思想構造的な正当性の如何について、「一定の」納得を得られても良いんじゃないかと、ある意味(※劇場鑑賞体験の臨場感に、刹那的になびいてしまったために)感服させられた次第で。私の『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』初鑑賞の、思想的、本質的レベルの感想は以上となる。
 否、蛇足だが、ギルベルトとヴァイオレットが島の浅瀬でついに抱き合いましたー!!!の場面の後に俯瞰描写されたエカルテ島全貌と月光、これらを包み込む様な存在感を、画面構図の高い占拠率で示していた夜空の闇こそは、私にとって、ギルベルトとヴァイオレットに与えられた祝福の運命の節目は、しかし更に大きな大河のうねりの中では決して手離しに歓迎ばかりされたモノではなく、その後に控えた彼・彼女に降り掛かる数多くの不可抗力で不条理な運命の因果による、果たすべき贖罪の群像を予感させる隠喩として解釈された。
 そう、『劇場版』の演出面で私が最も印象的だった特筆部分は、「闇」の使い方。最初はヴァイオレットがホッジンズから「夜分にゴメンね」とギルベルトの消息の話を切り出される場面、ヴァイオレットの顔アップカットに至るも画面の暗さが、演出意図だと推測させられる程に際立つ、ていうかTVシリーズではまず有り得ないほどにひたすら暗かった、勿論良い意味で!
 後記憶するのが、ヴァイオレットを追って画面右上奥から徐々に大きく左手前に走るギルベルトの、PAN無し奥行きある7秒位はあったカットも、ギルベルトはまだかまだかと鑑賞者を焦らす憎い演出に目を凝らしても、暗い夜道を文字通り「闇」として映すのでなかなか見えない!だから更に余計に焦らされるw
 そして最後の、浅瀬で抱き合う二人を照らす抑制的故に偉大な月光の存在感も、その闇によって気品一杯に際立った様に、私には見受けられた訳だ。ともかく、焦らす意図が事実だったかは別としても、その闇が、私には「本編後に控える更なるヴァイオレットの贖罪の影」と、まずは解釈されたという話である。
 つまりやはり京アニ、どこまでも抜かり無いな!!!と、先日私が呟いた思想構造的な正当性の点では残念的な、あれは飽くまでTVシリーズ&外伝までだけを鑑賞した時点での感想だったが、これを「半ば」撤回したい気分である!!!!!京都アニメーション様、申し訳御座いませんでした!!!!!
 他・・・
●CV川澄綾子「アン・・・、アン・・・」の声にしみじみと感動できてしまうのは本当に凄いなと思いました。素晴らしいです。
●ヴァイオレットの子犬のぬいぐるみは窓の外を向いているのか、ヴァイオレットと視線が合わなくて済むように背を向けさせられているのか。彼女が少佐にとっての「犬」のままではいたくないという思いの現われなのか。
●ヴァイオレットが義手を調整する場面で指を順に折り曲げて握って開いてを繰り返すのが『パトレイバー2』冒頭のあれを思い出させた。ところでヴァイオレットの義手だが、本作の世界線に於ける謎の技術の一つであり、ヴァイオレットの超人的な生来の器用さを差し引いても多分万能な機構であり、いずれにしてもヴァイオレットがこれに慣れる過程の苦難の描写はTVシリーズ含め皆無で、そもそもヴァイオレットが両腕を失う過程での精神的はおろか身体的な苦痛までもがほぼ描写されないため、これらに関しては私にとって一切ヴァイオレットに於ける贖いの象徴どころか記号としてすら映らない。せめて両腕とギルベルトとを繋ぐ、彼女が失っては困る何かしらのエピソードがあればまだ贖いとして意味付けできた。そもそも「贖い」とは、象徴だけでなく、エピソードの連なり、蓄積による「過程」として描かれてこそ初めて後に達成される救済、解放を鑑賞者をして予見させたり噛み締めさせるものだ。ヴァイオレットの義手に宿るべき贖いの悲壮感が、私からすればややもすると製作側が迫ったマーケティング戦略上で可能な限り排除すべき対象と看做されたかとすら勘繰らしめる程に、終始空虚だった。・・・考え過ぎなのかなぁ(※勿論当時も今も私の本音は全く「考え過ぎ」等と夢にも思っちゃいない!!!)
●ユリス「『お客様がお望みならいつでもどこでも駆けつけます』ってのは嘘?」に対し、珍しく反論しないヴァイオレット可愛い。
●ベット下に隠れるヴァイオレット可愛い。
●「お子様割引・・・エマージェンシープラン(だった?)」に対し「てきとー言ってんじゃないの?」と返すユリス賢いなおい!
●ユリスCV水橋かおり。ヴァイオレット「お話から推測するに、ユリス様は本心ではご両親にあまえたい。なので『僕の分まで一杯甘えて』…(※筆者のうろ覚え)」に対しユリスの「ははw何でも分っちゃうんだね」の「ははw」が凄く凄く凄く印象に残ってる!凄く物語に違和感なく溶け込んでて最高だった!
●ユリスの「死」が未だ理解できず、従って涙を流さず、自分宛の手紙を読み聞かされてその亡骸が横たわるベッドに駆け寄り、「お兄ちゃん、僕嬉しい(※筆者のうろ覚え)!」と笑顔な弟君の描写が良い。
●ユリスのいまわのシーンが幕袖に退くPAN&フェードアウトの際、多分ベッドや部屋のBGが3Dだったからか、PANに併せてキャラセルの遠近感も一枚一枚手書き枚数で補っていた!!!(※つまり単なるスライドPANじゃなかったって、この手書きセル(人物)作画への京アニのこだわり、情熱に戦慄を覚えたって話をしたかったのです!)
●多分私の記憶だとその嚆矢は宮崎駿『崖の上のポニョ』だったと思うところの(※ここで敢えて『千と千尋の神隠し』に於ける、冒頭体が消え掛けて慌てるところにハクから差し出された握り飯をがっつきながら咽び泣く千尋の特大涙を挙げなかったのは、あれだけは『ポニョ』以降の演出レイヤー層が薄い事例群とは全く隔絶した固有の演出意図に位置していると、私が看做すためであり、・・・いやそうじゃないかもしれないけど、とりあえずそれが全く念頭に無かったわけじゃないのよ?w)、いわゆる「大粒の涙」演出が、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』TVシリーズではやや無節操に乱用されていたが、『劇場版』に於ける、特にリュカに電話で「ゴメン」を伝える際のユリスの涙や、ドア越しの距離からヴァイオレットに「君を不幸にしてしまった自分を思い出してしまう(※筆者のうろ覚え)」と言い放った時のギルベルトの涙・・・だったと思う・・・が、しっかりと物語構造中のキャラの必然的な等身大(※敢えてここでは「リアル寄り」と形容しない)の大きさで描かれていた事に安堵した!善かった!!
●エカルテ島の「賛海」儀式が終り解散する人々(を背景に中央で立ちすくむギルベルトに「先生だーい好き!!!」と抱きつく少女(可愛い))のカットの奥行き深い画面構図に、エカルテ島の風土(とTVシリーズで慣れ親しんだライデンシャフトリヒとの隔絶された距離感)を印象付けようとする、間の演出を見た思い!
●ホッジンズがギルベルトの生存を直接ドア越しで確認できたタイミングよりも、ヴァイオレットが生徒の子供らを通して間接的にギルベルトの生存を確認できたタイミングが先んじ、且つこの際に見せた彼女の画面いっぱいの笑顔が・・・良過ぎた・・・(ここはもはや理屈抜き)!!!
●ホッジンズ「この大馬鹿野郎ーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!」これはまさにアニメならではの大迫力!!!ホッジンズのほどよく怒りで釣り上がった両目の表情が良い!!!!お父さんであり、お兄さんであり、でもやっぱりちょっぴりどこかしら片思いで世話焼きな恋人でもあるんだろう。
●やはりヴァイオレットの船出を追って右上奥から左手前に走るギルベルトのかなり尺を取ったカットの焦らしの臨場感は滅茶苦茶カッコ良い!!!そして彼の「ヴァイオレットー!!!」に呼応し甲板を助走し出すヴァイオレットにも背筋がゾクゾクとした!!!これは単純にアニメーションとして最強過ぎる!!!!
●「しょ・・・しょう・・・わたし・・・しょ・・・す・・・・ぐへ・・・・」と泣き崩れるヴァイオレットの、アニメーションと声優の演技。鑑賞数日前からパンフレットの声優インタビューで覚悟はしてたが、これを遥かに凌いで圧倒された。それだけで京アニ直販豪華特典版円盤購入即決の理由に(ry
●EDロール直前の、スポットライトに照らされる夜道を歩くヴァイオレットを背後から、足元から顔までPANして振り向かせるまでの多分一コマ打の情熱的なアニメーションが、あらゆる意味で心に迫った!!!私は敢えてここで改めて強調したい。私はTHE「京アニクオリティ」を今後もずっと応援し続けると!!!!!
●エンドロール後の二人の指きり止め絵。様々なレベルの事柄をこれ一枚で象徴できる、力と愛が込められた超力作。
 以上、『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』初鑑賞の結論は、とても善い物を見せて頂きました!!!

▼2020年10月10日

 あと笑えたのが、花火から視線を落とした先に居ないヴァイオレットに未練と哀愁をのぞかせるホッジンズに対し、べネティクトが多分彼なりに気を利かせて「未だ俺という愛すべき息子が残ってんだから、元気出せよパパ!」とか言ったのに「やっぱり息子もゴメンだ!!!」みたいなホッジンズの引いた反応。

 『ギルベルト・ブーゲンビリアと儚い夢』読了。何故ギルベルトがヴァイオレットを戦線から、自らの指揮下から引き離せなかったかの理由が述べられていた。「似たもの同士」「孤独と孤独が共鳴」「誰も見てくれなかった人生で初めて見てくれた人」。そしてその理由で彼女を引き止めてしまった、かつての彼の罪悪感、ひいては大戦後に故郷、家、「最愛」の人にも消息を絶ち続けていた理由も。ギルベルトの【贖い】に関しては、その「嘘が混じった現実と、本当が、混濁して・・・醜悪に焼いたような」苦悶が、彼に課される描写までをして確かに物語られた。

 ヴァイオレットが、彼女のリボンを届けに郵便社を訪れたディートフリートがふいに差し出した腕を、身に迫る危険と錯覚し条件反射で掴み挙げた場面。それは、ヴァイオレットが「少佐の武器、犬」として依然解放され切っていないと雄弁に語る場面。私はそこにヴァイオレットの【贖い】と、真の解放を描く続編への布石を見る。(※これは勿論、ヴァイオレットがディートフリートに対し、自らの傷心に付け込む隙を全く許していない、彼女の生来の天然な気丈さを隠喩する事を達成し(ある意味鑑賞者をしてまさかの三角関係へのもつれ展開を疑わしめる不安を払拭させ)つつも、同時に、更により深い意味合いも伝えんとする要請から必然的に物語られざるを得なかったワン・シーンだったであろうという、私なりの解釈である。)

↑このアン、何度観ても可愛いw 引き伸ばして壁に飾っておきたいくらいに!!!

 TVシリーズ10話と『劇場版』で、母親に走り寄るアンのぴょこぴょこ走りと、エカルテ島でギルベルトの生存が確認できたかをホッジンズに問い詰め、走り寄るヴァイオレットの半ばウキウキな走りとの、演技のセンスの原理が凄く似ていたように、私には見えた!!!勿論私はそのセンスが滅茶苦茶大好き!!!

▼2020年10月25日
『LUCY』初鑑賞感想(※猛烈ネタバレ!!!) 

 マフィアに拉致され腹に埋め込まれた麻薬の密輸の共謀を強制されたルーシーは途中、腹部に暴行を受け麻薬袋が破損した事で、脳神経アクセス100%に向かう覚醒を開始してしまう!ドラッグ「CPH4」は、母体が微量に分泌し胎児の骨格形成を促すホルモンを人工合成した、ヤバ過ぎる覚醒剤だったからだ!!!
 脳神経100%覚醒が進むにつれ、新陳代謝(自律神経)や電磁波の制御等、なろう小説顔負けにやりたい放題な能力を獲得し続けるルーシー。脳科学者に自身を研究サンプルとして提供せんと、超人的カーチェイスでマフィアの追跡を突破し、最後は個体保全と細胞分裂との狭間の極限を経て、安定した形を伴わない不死の個体構造と意志(※生命の定義から逸脱)に変貌を遂げる事で、この思考実験の序章だけを本編とする様な物語に、これを半ば放り投げる様な落ちを付けた。
 「人類は自身をユニークと断定するところをもって全ての存在論の根拠にしてきた」「数字も文字も現実には存在しない」「人類は無限を恐れ、物事を単純化し、より簡単な尺度を編み出した」「人間社会を形作る数学的法則とは、その表層的概念に過ぎない」「例えば無限に早回しされた存在はやがて消失し、観測不能になる」「真に現実を支配し、存在を証明できる根拠は『時間』」。
 以上はルーシーが脳神経覚醒によって得た悟りの一端。そこで私が想起したのは、心拍数が多く脈が速い生物ほど寿命は短く個体は小さく、彼らは脈がより遅く寿命がより永く個体がより大きい生物と比べ、より速い時間の流れの中で生き、これに伴う高速度で生命活動するという説。ルーシーの例え話の場合、その速度は人類の観測限界たる光速を超える未知の尺度を前提とする議論となる。
 例えば量子力学で「質量保存の法則」を必ずしも前提とさせない質量の生成・消滅の現象も、もしかしたら人類の観測限界を超えた素粒子規模の個体の超光速な活動速度によるものかもしれないし、逆に彼らからもこちら側の超低速な活動に拠る存在を観測できていない可能性も考えられる。
 又『トップをねらえ2!』『グレンラガン』の様な太陽系、銀河、銀河群・団規模の構造を持つ個体は、人類に観測不能な悠久の尺度で活動するので、これが意志を持つ生命として人類に理解されない。だがもし人類の脳が100%覚醒したら、それら全てを認識できるかもという仮設をエンタメ化したのが『LUCY』。
 私が『LUCY』に感じる魅力
●脳神経100%覚醒という未知の状態が、たとえ既存に慣れ親しまれる「人間性」を損なうものであろうとも、どこかしら魅了して止まない突破力の様に描いた点。それを獲得した者には、広大なネットの世界に旅立った『攻殻機動隊』草薙素子然りの、究極の自由への解放感がある。脳神経完全覚醒は別にしても、量子力学やバイオテクノロジーの発展の果てに、やがて人類は系外惑星間を飛翔しながら流浪し続けるキメラの如く、この生存圏を無限に拡大する自己完結で不死な、生命の定義からの逸脱を志向するのかもしれない。
●『エイリアン』シリーズにみる様な、人類が破壊生物の狩猟の餌として一時の文明の繁栄をもって繁殖させられた、所詮創造主たる宇宙人の猟奇的な余興の為の材料に過ぎなかった的な、憎悪ではなく、ひたすら希望的観測でこの潜在力、本質を語って魅せた点。両方を念頭する事でイマジネーションの塩梅がより豊かに。
●口から光線吐いたり、マフィアが無謀な追跡に固執する理由が一切語られなかったり、むしろこの馬鹿っぽさが意図された演出にすら見えてくる程、ブラックジョークを大量の資本を仰いで大真面目に創り込む馬鹿騒ぎの気持ち良さ、宮崎駿には無い戦勝国ならではの【明るさ】に感化されてしまう点。

 

▼2020年11月14日

▼2020年11月16日
 宮崎駿『風の谷のナウシカ(原作漫画版)』が凄いのは、大海嘯という、人類生存圏の地政学的な逼迫の極限に於ける、終わりなき戦争情勢、つまり想像し得る限りの生き地獄を設定した上で、ここから人間の個~集団、文明の動向までもを繊細且つ大胆な洞察でほぼ破綻無くシミュレートして見せた点。
 核汚染、感染症、地震、津波等、人類存亡を脅かす高慢や、自然の驚異は、昨今のコロナ禍とも違い、より意志を持ち、且つ視認し易い異形として描くべきという制作意図があったのか、『ナウシカ』では腐海を作り出す粘菌という古代文明の遺産、核汚染の浄化装置、この(劇中の)暴走模様で描かれた点によって、結果的に娯楽性も同時に強化された。
 更に『ナウシカ』ではその洞察対象の内に、如何に不毛化した土着性に於いてすらもこの暗黒時代特有の死生観に端を発する日常的習俗にして歴史的伝統性としての宗教文化まで跨る博物誌の全貌を、敗戦国島国根性の内向きな文化土壌に於けるかりそめの隷従思想の系譜に惑わされず、妥協する事も無く、果敢に盛り込んだ点。
 そもそも人類が多様な生存圏、地政学的条件、土着性に起因する、従って多様たらざるを得ない死生観及び宗教文化という、決して自らの個~集団的アイデンティティや日常感覚と切り離すことの出来ない、この無限性を伴う(黄泉に言及する)尊厳を根拠に初めて集約可能な統治規模でもって、悲しいかな、有限の地球資源を奪い合わざるを得ないといった、地球という箱庭で必然的に起こる軋轢こそが、人類の戦争の本質なんであって、従ってこれは決して種として賢明でもなければ、同時に決して馬鹿の一言で片付く浅薄でもないという厳然たる不条理への洞察、この皮肉と憐憫が極限に共存するかのような、達観の視座が、宮崎駿『ナウシカ』には脈々と息衝いていると、私は感じ取るものである。
 その終末論的で決して抗えない矛盾、限界への悲嘆を、日本固有の八百万信仰に於ける文明黎明を舞台に落とし込んだのが『もののけ姫』だったが、飽くまで人類同士の宗教紛争(土着性の避けられぬ相違と武力衝突)の側面「も」描き抜いた点により、私は尚も『ナウシカ』の文学的意義、普遍性の突出を見る。
 因みに『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』では勿論、宗教(民族)紛争の側面はおろかこの博物誌までもが意図して伏せられている(※「修道院」が当たり障り無く触れられる程度に)。西洋的な博物をモデルにした虚構に於いて、土着性の相違からなった宗教紛争の側面を、たとえ実際の宗教習俗を引用するまでもなく創作の業で設え、より普遍的な作品力を生む表現に果敢に挑む気概こそは、そもそも少なくとも現代の日本アニメ業界界隈の、文化レベルの低過ぎる資本からは、歓迎されている筈も無いのだから、これは仕方ないと諦める他無い話だ。んな事は分ってる(ぷんすこ!!!)。
 他に、土着性の衝突という人類の限界をテーマに成功した例で、私が咄嗟に思い浮かべるのは、遠藤周作原作とこれを映画化したスコセッシ『沈黙』だが、更にこの原罪の所在を問う熱量の方向性は別として、これを包摂すると言っても過言で無い程に位置付けられるのが、私にとっての宮崎駿『風の谷のナウシカ』(※原作漫画版)である。
 尚、従って以上に於いて私は、作品の宗教描写の意義を敢えて強調したものの、だからといって決して宗教描写こそ創作の要などと考えてはおらず、つまりあくまでこれは私に於ける虚構構築の為に必要不可欠な要素の一つに過ぎないし、或いはこれを看過する作品群はこの程度としか評価できないという話でもある。
 私は映画演出史上の思想的系譜について完全無学で、これを今後恥じつつ自分なりに挽回したいが、とりあえず今の私に於ける映画の思想性とは、人類を客観視する洞察の構造及びこの規模こそ力みたいな所を意味し、これを土台とする作品評価のヒエラルキーが整然且つ雑然(どっち!?)と形成されてたりする。点数つけたり、逐一優劣比較評価を下したりな、過度に神経質な厳密さや、映画作品に対しあたかも定性評価が可能だと妄信する不遜さとは、常に距離を置きたいと意識した上での話である。
 以上は、既に約一月も間が空いた『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』初鑑賞の感想への補足である。
▼同日
 私にとって、スコセッシ監督とウィレム・デフォーとで構築された『最後の誘惑』でのイエス・キリスト像は、宗教道徳的な次元を遥かに超越した、より普遍的な何かでした。ホーソン『緋文字』映画化してくれないかな・・・。


▼2020年11月22日
 『鬼滅の刃』原作未読のまま、アニメから観始めた。手軽なNetflixは偉大。

 ここ三日で14話まで観た。訴えるテーマが多岐に込められ、秘めるべきは秘め、語るべきは丁寧に語る。

 3DCG(モブ・車両アップ・主観視点背動等)と手書きアニメの巧みな配分がアニメ全体の魅力、完成度に、最大限に貢献している印象。
 ・・・正直、面白い!!!

 3、4話辺り多少ドラマの薄さに退屈した以外、基本的に熱中し続けられたのは、やっぱ画面がほぼ隙無くまとまってる以上に、全てのキャラに、愛溢れる作画の執念が行き届いてい印象の故、私はこれにめっぽう弱い。特に今んトコは朱紗丸へのそれが最も印象的だった。後、伊之助萌え///w
 等身が低いキャラばかりの世界観だから幼児にすら受け易いヴィジュアルなのかも?故に首や血が飛ぶ描写は親子一緒の鑑賞シチュが求められ、或いはこれが広い世代層に受けるきっかけにもなった?重層的に込められた諸テーマは、子供向けレベルには説明的で優しく画面演出や台詞で語られ、しかし大人に向けて訴えようとしているのであろうさり気なく秘められたかのように伝わってくるテーマも、しっかりと併せ持っている。ジャンプが時間を掛けて練った原作企画だったという噂話に勝手に納得している。
 因みに「子供向け」は、鬼に象徴される脅威と異物の二面性によって、自衛の勇気と、他者への慈悲とを同時に客観視させ、更にはこの二つの美徳同士が相反せざるを得ないからこそ人間の争いの現実すらも解決困難にする・・・といった類のテーマ。鬼キャラも魅力的なばかりか、無惨は人間の妻と娘の家族を持つと来た。又、「大人向け」は、10話珠世の「鬼が群れて逆襲できないよう仕組んだ無惨は、心が弱い」に多分秘められているであろう、では徒党を組む敵を恐れ、これに手段を講じる事が、果たして本当に心の弱さを証明する、悪キャラとして浴びせられるべき恥足りえるのか否かという問い掛け…といった類のテーマ
 私は、ジャンプの連載漫画がそこまで構造的にまとまった原作力を持つ事は本当に稀なんじゃないかと、かなり驚いている。勿論、例えば響凱の最後の台詞は「私の血鬼術は認められた(涙)」じゃなく「私の血鬼術は・・・酷いものだった(涙)」であるべきだったとか、釈然としない部分は多くあるには、ある。又、6話の和巳と炭治郎の別れ際のやり取り、台詞等は、せめてもっと心をこめて処理できなかったものか(※これは多分、アニメじゃなく原作への批判)と、こーいうお話の作り方を平気でやってのけるジャンプはやっぱどこまでもジャンプ、みたいな諦観がどこまでも土台に敷かれた上での、前述感想である。
 が、そういう批判の感想は極部分的で、総合的な印象は、まだ半分しか観終わってないけど、「ジャンプ原作にしては」をもはや遠く忘れさせ、何より『鬼滅』の功罪両面を踏まえた上でもこれに出会える今の子供世代には幸運が優ると確信させる位に、作品の完成度、見応えは、私にとっては、かなり高い!
 只正直、絵を動かす演技面は大して評価も、そもそも期待すらせず鑑賞が続いてたが、14話「素手でやり合おう」から伊之助が両脚で回転しながら襲い掛かり、これに同じく回転でいなし撃退に転ずる炭治郎の格闘カットが見事過ぎて興奮した!!!『鬼滅』は見所が豊富だと期待が改められたきっかけのカット。
 繰り返し強調したいが、伊之助が魅力的過ぎて困る。只、あの底無しのお馬鹿設定は見ていて不憫で、今後が心配である。否、そのお馬鹿設定は今後の物語展開の必然の内の一つだと信じたい!声優が松岡禎丞さんだと知ってスゲェと思った!朱紗丸の作画もつくづく愛に溢れていて見事だったなぁ、本当に!
▼2020年11月26日
 「財政学」て意識一つとってもこれをアニメ表現として構造的に昇華できる優秀過ぎる原作者(※『カリ城』『紅の豚』『風立ちぬ』等)だからこそ、私は宮崎駿を評価するのであって、好きなアニメ作品に携わったアニメ監督にまで無条件に逐一関心が湧くとは限らないのは、そもそもアニメ制作構造上、当然。(※宮崎駿bot【大学の時に財政学の講義で、教授の名前は忘れてしまいましたけど、戦争経済がどれほど国民経済を破壊するかという話をね、熱烈に2時間滔々と述べられたことがあったんです。ものすごく感動しました。僕は「そうだったんだ!こんなもんくだらない!」と思って、溜めといた戦記ものの本を全部捨ててね】に対するリツイート)
 ベテラン級原画マンの独り善がりな癖を見越せたり、より映像作品としての完成度を高める確固とした独自のヴィジョン、技術的な思想性を持っている程度は、必ずしも私にとってアニメ監督を単独で評価する根拠足り得ないし、これは飽くまでアニメ作品への総合的な評価に包摂されるのが妥当だとも考える。

※つまり上を言い換えれば、私は飽くまで原作を一から作り出し脚本、絵コンテまでこなせるアニメ監督に関しては、更にこの作品思想及び物語昇華技術如何まで一定の納得、手応えを感じられた時点で初めて、必然と監督クレジット単独評価の対象となり、永く記憶に留めざるを得なくもなる、という事である。宮崎駿、高畑勲、庵野秀明、押井守・・・。
 因みに上述は、リツイート元の宮崎監督語録に加え、最近鑑賞し終えた『鬼滅の刃(アニメ版全26話)』への評価と、3話で中断中『呪術廻戦(アニメ版)』への印象を念頭してる。更に私は『鬼滅の刃』では、原作者>>>アニメキャラデザ>コンテ・脚本(監督?)>14話の例のカットの原画マンの順で感動を受けている。
 まず何よりも先に、私は『鬼滅の刃』原作漫画に於ける、吾峠呼世晴という漫画家の独自の思想哲学、この作品昇華力、美意識、笑いセンス、博識、更にこれらを過酷なジャンプ週刊連載で構成力豊かに披露するばかりか、見事潔く完結させた胆力まで含め、今のコロナ禍の劇場版興行収益騒ぎすらもむしろ調度見合うだろうと思えてしまうくらい位、これらの偉大さに感動している!!!
 次点で、吾峠呼世晴氏の木版画調の画風を、更に各キャラの個性を際立たせ、且つアニメ制作上制約「限り限り」に落とし込み、且つ原作ファン含めより大勢に歓迎される魅力を持たせたアニメ版キャラデザの偉業にも感動している!!!ふむふむ「思い切ってベルトの位置を高くして収まりを良くした」(※設定集から引用)。素晴らしい!!!!
 その次として、最も印象深い脚本(コンテ?)は、20話「寄せ集めの家族」で累の姉役の蜘蛛の回想に於ける一家団らん夕餉ごっこ、この原作に無い掘り下げのカット!!!原作愛に留まらぬ、もはやこれぞアニメ化の矜持、『鬼滅』を更に『鬼滅』足らしめんという意気込みの最たる物だった!!!22話柱合会議で禰豆子のプイっのシークエンス演出(連載形式⇒アニメ構成昇華)も偉大!!!
 話を戻すが、私にとっての宮崎駿とは、『鬼滅の刃』に於ける原作、アニメ脚本(コンテ)、秀逸な原画までの全てに相当する、あ・ら・ゆ・る・業をほぼ個の力でこなし主導できる、さしずめ無惨から鬼と恐れられる縁壱の如きもはやバケモノであるからこそ敢えて単独評価し得るアニメ監督である(※キャラデザと音響は別かもだけど)。

※それは、宮崎駿が脚本を起こさず、イメージボードと絵コンテの並行制作から開始するって事実が何を意味するのか、理解できる人間には理解できるが、理解できない人間には全くもって理解できっこない、に通ずる話でもある。

 つまり興行収入面では『千と千尋の神隠し』を年内にも凌ぐ勢いの『鬼滅の刃・無限列車編』の監督名が世間でさほど取り沙汰されない現状こそは、しかし私にとっては何ら違和感が無く、極当然の成り行きとしか映らないという話だ。
 今、美術設定集【無限城アウトライン】を観、改めて感動。更にそれに色がつき、半分以上が漆黒の影、残りの画面中央が不気味に照らされ、極力繰り返しのパターン化を避けたともされる無限城のイマジネーションこそは、更に3D技術も加わり『鬼滅』アニメ化成功に計り知れなく貢献したんだろうなベベン!!
 このまま『鬼滅の刃・無限列車編』観に行くか躊躇し続けて、コロナ緊急事態宣言で劇場営業停止とかなって、後々後悔とかなったらマジ笑えん・・・うぅむ・・・・!!!

※結局未だ一度も劇場版観に行ってません(汗)。禰豆子が炭治郎に頭突きして流血し「んん゛ー!!!」と爆血モーニングコールかますシーンがどう表現されてるかが一番気になってるんだが・・・、うぅむ!!!


▼2020年12月1日
 私が半月前『鬼滅の刃』原作未読のままアニメからはまり始めたきっかけは、当時連日ヤクザ映画の夥しい流血描写に精神を摩り減らしてた反動から、Netflixのマイリスト整理も兼ね、別ジャンル鑑賞の息抜きをと思い立った刹那の衝動だった。劇場版興行収入記録更新がどうのなんぞ全くどーでもよかった。当時の私には、往年のジャンプ売れ線原作然りの、子供騙しの易い道徳押付け漫画の類といった先入観が『鬼滅の刃』原作に対しても根強くあったし、むしろ今をときめくUfotable独自のアニメ表現に触れるきっかにさえなってくれれば御の字くらいにしか期待はしていなかった。つまり、1話の触り程度を観終えたらNetflixマイリストから『鬼滅の刃』を即削除する気満々だったw
 だが、アニメ1話時点では、最近の日本アニメにありがちな妙ちきなタメ癖が目障りな映像的嫌悪感(※FGOはこの例外じゃなかった)も、作画の崩れも目立たず、より普遍的に表現したいという制作体制の意気込みを感じ取れはしたものの、やはり最も響いたのは、冨岡に禰豆子を刀で刺させた原作の筋書きの方だった!冒頭からヒロインを傷物にするだけの覚悟があるよと、或いはこれを必然と従わせるだけの相応なテーマ性を、他でもないジャンプ連載の制約内でやっちゃうよ!みたいな、前代未聞に恐れ知らずな挑戦の精神を匂わせた事こそが、私に『鬼滅の刃』アニメ鑑賞を続けさせた、全く想定外のきっかけだったw!
 又、炭治郎が家族の悲劇に直面し「っぁあ!!!」と叫んだ声優様演技にも「あ、何か別と違う熱入ってるなこのアニメ」と直感させられ、まぁそんな期待は大概、錯覚に終るのが常だが、こと『鬼滅の刃』に関しては全く逆で、むしろアニメ全話に引き続き原作漫画鑑賞が進む程、その上方修正は止まる事を知らなかった!
 只、確かに、『鬼滅』アニメ4話の修行エピソード辺りまでは、如何にもジャンプ的でドラマの薄さが目立ったものの、しかし、同5話の手鬼の回想を差し挟んだ辺りで私は「あ、これ原作が凄ぇパターンだ」と確信に至る!!!何が凄いか?真菰という美形幼女に愛着と憐憫を前もって誘導しておきながら、これを惨殺した異形(手鬼)に対してもこの贖いとそもそもの運命的不条理を前提とした感情移入を、読者をして間髪入れず促しめた筋書き上の演出と、これに滲み出る重厚なテーマ性が凄いのだ!!!つまり勧善懲悪構造の相対化、更に尚も迫られる有形無形の贖い、報いの辛辣さまでもをセットに表現する事で、昨今グローバリズム混沌社会に向けて真に語り得る道徳が内包せざるを得ない矛盾そのものを『鬼滅』はあろう事かジャンプ読者層子供向けに見事表現しきったのだ。それは私の『鬼滅』評の核心

 或いは『鬼滅』は民族紛争及びいじめ問題に於けるより冷静な議論土壌形成に資する情操漫画とも看做し得る。つまり、一定の秩序、伝統、尊厳を守る為にはこれ相応に、土着性に基づく価値観の相違や多様性との一定の距離が図られるべきだが、同時にこれは決して異物、周縁への無際限な無関心、無理解、警戒、敵視、排斥まで正当化される根拠となってはならないという、こういった相反する二面性の本質を『鬼滅』は隠喩によって雄弁に語りのけている!!!

 ところで少し話が細部に潜るが、サイコキャラ童磨(同情余地無し自然驚異の一部)を登場させ、且つこれを鬼殺隊側にも(『無限の住人』尸良的引っ掻き回し役の不在)ラスボスにも設定しなかった原作者のセンスは、『鬼滅』に更なる奥行きを与えると同時に重厚なテーマを飽くまで簡潔に表現せんという気概の表れと思う。正に策士策に溺れず!抜かりが無さ過ぎて惚れ惚れするわ!!!
 『鬼滅』アニメ23話柱合会議はこの筋書き上の必然として、鬼の禰豆子と主人公炭治郎を鬼殺隊の柱がよってたかっていじめる構図であり、これは読者をして『鬼滅』の勧善懲悪の構図や感情移入のやり場を掴み辛く困惑させ、これによってより俯瞰した視座の擬似的な獲得を迫る。更にそこには冨岡、しのぶ、甘露寺等、「正義の味方」同士の決して一枚岩でない人間模様も加わり、いよいよ『鬼滅』に込められた勧善懲悪批判が惜し気もなく披露される!すなわち『鬼滅』の柱合会議描写は、安易な勧善懲悪への批判であると同時に、これに助長される安易ないじめという現実社会問題への痛烈批判という、クリエーターとしてこれ以上に望むべくもない自戒と誠実さが滲み出た、原作者独自の思想哲学の結晶の最たるものと、私は見受けた。
 更に言い換えれば、私は、易い勧善懲悪を子供に売り付けアグラかき続ける怠慢への痛快過ぎるカウンターを『鬼滅の刃』から感じ取った。又、空前絶後の大ヒットジャンプ連載を単行本23巻分で完結させた原作者の勇気の偉大さも合さってこそ私にとっての『鬼滅』という物語。それに比べればコロナ禍での劇場版大ヒット騒ぎは、私にとってはおまけのようにしか感じ取れない(※勿論、後述の通りそんなおまけを「歓迎」こそすれども決して悲観なんぞしようもないってのが私のスタンスです!むしろ、興行収益でジブリが王座を奪われるなんて、こんなみみっちくて幼過ぎる、小さな小さな小さな小さな小さな話で悲観しちゃったりなんだったりできちゃったりしちゃってる「自称演出家」は、所詮その程度の尺度でしかアニメの価値を捉えられていない自らの精神性の乏しさを拗らせて、永久に自爆し続けてりゃいいんじゃwおみゃーか・お・な・し・かwww)
 更にその極めつきとして参照が前後するが、『鬼滅』アニメ10話で珠世の「鬼達が束になって自分を襲ってくるのを防ぐため」「操作されている」「あの男はただの臆病者」と、鬼を統括するラスボス鬼舞辻無惨を批難する台詞。珠世は、鬼が徒党を組み自身に襲撃するのを恐れる無惨を臆病者と(朱紗丸を煽って)評したが、ではこの群れる敵襲に臆病な悪役を批難する視点とは、果たして『鬼滅』の本筋から滲み出るテーマ性と照らせば、作品全体の中でどんな位置付けと成り得るかと考えた時、私の場合、必然とこれはテーマ性の反語的な昇華、すなわち往年の勧善懲悪的価値観を根底から覆す為に前もって意図された一時的な読者誘導、布石に違いないという解釈に至った。つまり、勧善懲悪なんて単純に割り切れる現実なんて何処にも存在しないし、従って善だろうが悪だろうが、徒党を組んで孤高の信念を打ち負かそうって発想や行動は皆例外なく卑劣だと、羞恥の自戒を促した上で、同時に、厳然たる因果応報の顛末(敵・味方関係なく、律すべきは律っし、贖うべきは贖い、報いを受けるべきは報いを受け、裁かれるべきは裁かれる)を見届けるに足る、人としてせめてもの思慮深さを迫る、より根本のテーマ性を、私は『鬼滅』から読み解くものである
 ところで私は、予てからの確固たる我流の虚構鑑賞スタイルとして、必ずまず制作者独自の思想テーマ、訴えが何かを見極め、これが私の好みに適いさえすれば、後はこの昇華技術が多少拙くても結末まで鑑賞を続け、絶賛し、或いは更に掘り下げ、執着(2次創作)し、果ては制作者の人格を探り尊敬するまで至る事も稀にあるし、又この逆は一切の沈黙、無関心で済ませている。私にとって『鬼滅の刃』は、今や沈黙どころか狂喜を伴う大絶賛、執着の的。
 因みに私は吾峠先生の画力に対しても大絶賛派!!!いや、そもそも、デッサンとかコマ割りとかに関しちゃ言うまでもなくフツーに滅茶苦茶上手過ぎだからwww!!!只一つ強調したいとすれば、それは、例えば宮崎駿『ナウシカ』漫画1巻冒頭メーヴェから飛び降りユパに走り寄るナウシカの右手の作画ミスを全く意に介さない類の、唯一無二なテーマ性に伴う画風の必然性こそを注視する評価基準に依っている。つまり吾峠先生の画風から滲み出まくってる自己プロデュース力こそは、彼(彼女?)の膨大な観察・洞察・画力研鑽・センス形成の遍歴の紛う事なき裏打ちとして直感させられざるを得ないって話で、これもやっぱ分る人間には分っても、分らん人間には全く分かりっこないって話なんじゃー!!!
 さて、話は別だが、コロナ禍で様々な閉塞感を耐え忍ぶ現在の子供世代にとって、『鬼滅の刃』大ヒットに沸く情勢こそは、たとえ作品の真価に触れないレベルの過剰なムーブメントであったとしても、むしろだからこそ【アニメがオタクのものでなく世間のもの】に成った束の間の瞬間として歓迎したいと、私は思う。
※勿論それは、上述の通り私が心底『鬼滅の刃』の原作力から滲み出る重厚な思想性及びこの作品昇華技術(あろう事かジャンプ週刊連載の制約内!!!)の偉大さにゾッコンだからこそ、初めて何の抵抗も無く言い放てる「歓迎」に他ならず、決して流行に押し流された思考停止、思想的妥協などではない。少なくとも私は『鬼滅の刃』を、どこまでも作品として評価している!!!!!!!!むしろ鑑賞以前まで私にあった先入観すらあっさりと瓦解させた『鬼滅の刃』の原作力こそは、私に於ける鑑賞のブラインドテストを完璧に突き抜けて行った超ど級の大傑作たる事疑いの余地無しなのである!!!!!!!!!!