『デンジャー・ゾーン』『マンハント ユナボマー』 | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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▼2021年4月3日
 Netflix映画『デンジャー・ゾーン』

ネタバレ注意!!!

 私宮尾は本作が『進撃の巨人』になぞらえて鑑賞できるかのような、構造的な類似を観た。つまり『デンジャーゾーン』は、『進撃の巨人』ファンなら楽しめる確率が極めて高い部類の映画だと感じられた。
 舞台は2036年のウクライナ。ウクライナを統合したいロシアと、この支援で増長するウクライナ国内の反乱組織クラズニーと、これを鎮圧しウクライナの独立を支援し、これを平和維持活動と称しながら軍事介入し、同時にロシアの国力疲弊を目論む米国との東欧戦線。
 その仮想近未来の戦争では、人型自律兵器「ガンプ」が、生身の人間の兵士に混じって行動する。そして本作のサブ主人公たるリオ大尉もまた、軍事機密ながら最新鋭の人型自律兵器の1人だ。その人型自律兵器で象徴されるのは、超人的な戦闘能力、精度、持続力、耐久性、燃費効率、世論の反戦感情の鈍化、等。彼らは超人的な戦闘能力を有し、又基本的なメンテナンスさえ施せば半永久に活動し続け、又たとえ活動停止に追い込まれても同情の涙を向ける対象とは看做されない、つまり人類の戦争にとって都合の良過ぎる革新性と同時に、これを先鋭化させる愚劣さとを併せて背負わされた存在だ。
 そして勿論、核の脅威は依然、鑑賞者を取り巻く実際と同様に機能し続けている。
 大まかな粗筋。冒頭で軍規違反したドローンパイロットたる主人公ハープ中尉が、東欧ウクライナの内乱戦線のナサニエル駐屯地に転属させられたのは、米ソ冷戦後にロシアが隠したとされる、自動核報復システムとこの起動コードが、ウクライナ国内の反乱軍にしてロシア統合派勢力の長たるコバル将軍の手に渡ることを阻止する為の諜報作戦に随行させる部下として、リオ大尉からの指名があったから・・・の筈だったが、実は、この作戦、そもそも自動核報復システムの存在を示す証拠が集まらなかったため、既に捜索は打ち切られたが、リオ大尉の独断で極秘に継続されていた軍規違反行動だった訳で、つまりハープ中尉は、同じく軍規違反者という経歴と、この後の更なる軍規違反の上塗りを誘導された事によって、アンドロイドとしてのリオ大尉に対する認可権を「命令の逆説」で失い、言わば、アンドロイド兵器による人類への反乱のコマとして利用された道化に過ぎなかったのだ。その人類への反乱とは、永遠に繰り返される人類の戦争に、愚の象徴たるアンドロイドが終止符を打つ事であり、従って、米軍人たるリオ大尉自ら、自動核報復システムを起動させ、米国の首都に核弾頭を着弾させる陰謀の完遂だ。しかしそれは結局、ハープ中尉の「人類が善い方向に変われば・・・」という願望に基づく戦況判断によって阻止され、このハッピーエンドで物語が閉じられた。
 以上は、冒頭のハープ中尉の軍規違反に於ける「より少ない犠牲による、より多くの平和」という信念を、後のクライマックスで更に大きな規模で踏襲する形となったリオ大尉の謀略への阻止をもってする間接的な自己否定、或いはこれに象徴され得る、反戦への自戒といった思想性でもって、まず一義的に解釈されるだろう。現に、核弾頭発射の間際のリオ大尉の「邪魔するな、より大きな利益の為の犠牲なのだ」こそは、冒頭のハープ中尉の信念と一致している。だがそこには更に、リオ大尉が味方したウクライナやロシアに於ける戦争被害という、どこまでも米国の都合からみる限りの「より少ない犠牲」を、合衆国本土の「より大きな平和」の為に見捨てたとも解釈できる、ハープ中尉の、冒頭の軍規違反から一貫した自己正当化も同時に表現されている。更に、そもそも冒頭で語られたハープ中尉の「より少ない犠牲による、より多くの平和」の信念から結果された、2人の犠牲と38人の救出という実績そのものの是非については、ハープ中尉が前線に赴くことで痛感させられた「冷酷さ」への自覚が語られる程度で処理された後、結局は彼の「型に嵌らない」優秀な判断力によって、少なくとも合衆国の平和は守られたという形で、むしろ堂々と正当化されているとも解釈可能だ。要は、焦点とされるのは「より少ない犠牲による、より多くの平和」の信念の是非そのものではなく、このような大義を持ち寄って争い合わざるを得ない人類の限界に対する諦観である。つまり、そのような葛藤や矛盾の構造をテーマ性、粗筋共に含蓄させた『デンジャーゾーン』は、この結末に於ける表面上の予定調和とは裏腹に、反戦を標榜する人類の未来に対する楽観だけではなく、悲観、諦観をも同時に表現し、鑑賞者をして直感させる。現に、終止符が打たれなかった人類の戦争の更なる未来には、リオ大尉よりも更に高性能な次世代型の人型自律兵器の大活躍が、むしろ期待されるしかないという結末でもあったのだから。
 そのような人類の葛藤と矛盾に対する洞察が、物語構造や演出という形でしっかり昇華されている点こそが、私宮尾をして、まるで『進撃の巨人』の物語構造とも類似するかのようだと考えさせた。
 さしずめ、『進撃の巨人』で語られる、巨人の力が突出した軍事的脅威と看做されなくなる近代化の更なる延長線上で、実際の現代の国際社会秩序や、更なる近未来の戦争模様も語り得るといった具合か。勿論、始祖の巨人をはじめとする、巨人化の力や素質を持つ特定の民族や、これによる民族浄化の戦争の歴史などは、実際には存在しない『進撃の巨人』独自の架空設定だ。しかし、核の脅威と、自律型兵器という技術革新や、これを推し進める帝国主義的なものの考え方や、これを無自覚に日常に取り込むしかない衆愚化の素質や、或いは「地ならし」や「民族浄化」や「エルディア人安楽死計画」などに相当する、人類種の自滅的な未来の実現の可能性は、鑑賞者を取り巻く実際に於いても、既に何ら違和感なく、むしろ共感されるところではないか?
 ところで、実際の香港、ミャンマー、台湾に続き、日本の尖閣、沖縄までが既に中華人民共和国の軍事的挑戦による版図拡大の射程圏内に収まっている反面で、新疆ウイグルに於ける人道侵犯への糾弾や制裁に連携合意できない日本国は、北朝鮮や人民解放軍の核の脅威ばかりか、その先の更なる、中華大陸に群生し侵攻しかねないイスラム系民族国家との紛争激化の可能性をも、国家安全保障上で決して看過できないという、又別の実情をも孕んでいる。つまり、そのように近未来の中華大陸の情勢がどう転ぼうとも、まずこの地域に於ける民主化だけは殆ど期待できず(※イスラムの伝統的精神文化は西欧型の近代的民主化精神から対極にある)、仮に中華大陸に於いて中国共産党一党独裁体制が軍事クーデターか何かによって解体でもすれば、たちどころに自主独立の情勢が、西側諸国の煽動支援も相まって進行せざるを得ず、ここにかつてのイラクのフセイン独裁政権誕生や、中華民国の四大国構想への後押しの状況(※カイロ、テヘラン会談)の謀略構造と同様に、中国共産党一党独裁体制による覇権台頭を封じ込める事のみを目標に結束した米国や西欧諸国の戦略的な思惑と工作支援によって、イスラム教を国境に定める国家が台頭した場合、このあたかも米ロ代理戦争としてのトルコ対シリアを彷彿させるかのような宗教戦争の色濃い代理戦線と向き合うことが、日米安全保障体制に於ける日本国にとっては、まず避けられない実際となるだろうという予測の話であり(※この場合、新興イスラム国家に対する米国とロシアとの主導権争いの結果次第で係争地点は如何様にも変わる)、いずれにしても、日本国独自の安全保障は、どこまでも大国の核の脅威を前にして、ひたすらおもねって立ち回るところでしか成立し得ないし、少なくとも戦後日本国の似非民主主義の堕落し切った精神性に於いては、それを拒絶するどころか客観視して向き合う自主性すら、決して発揮されることは無い。自ら失う事も、手を汚す事も、より少ない犠牲を覚悟する事すらも放棄し続ける限り、日本人は世界平和の為の軍事的な均衡や葛藤や矛盾を議論する当事者に決して成り得ず、むしろこれを只悪戯に阻害し、撹乱し、脈絡無く挑戦するだけの、せいぜい浮ついた道化であり続けるか、或いは自滅するか、こういった只ひたすら悲観的な未来しか望めまい。否、我らはそれをもはや悲観の対象とすら認識できないほどに、生存本能に対して極めて無気力で低脳な民族に堕ちて久しい。
 更に、そもそも人類の破滅的な本質こそは、地球という天体の寿命の尺度からすれば、むしろ有機生命体に溢れ過ぎた地表の負荷を途絶させ軽減させるという意味での、自然愛護の究極形態に他ならないとする人類観に立脚すれば、もはや敗戦日本に固有な、生存本能に只ひたすら愚鈍な国民性に対し、現実主義とか自律性の尊厳とかを啓蒙する営為の全ては一重に無駄としか看做せなくなるし、果たして、この亡国が経済的にも軍事的にも、一旦完全にリセット、滅亡した後に、又新たな入植者が迎えられ、極東列島の地政学的条件や土着性に根ざした独自の文化や歴史が、又イチから紡ぎ直されては、又程なくして大陸におもねっては滅亡しの繰り返しなんだろうな。
 私宮尾は、ショーペンハウアー的な仮象による実存観をもとに、ホッブス的な現実主義から、シャフツベリ的な自然観までのふり幅で、人類や地球生態系の本質の違いや葛藤と向き合って行きたいので、少なくとも、もう日本に於ける自主独立とか自主防衛への啓蒙とかどーでもいーやぁって感じだ。だからこそ、私宮尾にとって『デンジャーゾーン』『進撃の巨人』『風の谷のナウシカ』は、その境地を再確認させてくれる思想的な意義を持って、尚も大傑作であり続ける。
 ところで、最後に特筆しておきたいのは、『デンジャーゾーン』に於ける、リオ大尉というアンドロイドの精神構造と、この見せ方としての、鑑賞者に対する感情移入誘導からの騙し討ちだ。それは『進撃の巨人』に於ける、エレンやジークにも同様に施されていた作り込みと演出であり、しかし同時にそれらは等しく戦場を舞台に描かれており、つまり、人類の異質な本能と自然との葛藤とは、必ずしも戦場を舞台にする物語だけでしか表現できないものとは限らないという、更なる文学的な可能性の話である。

 

▼2021年3月1日

『マンハント ユナボマー』

【ユナボマーは、既存社会との権力闘争に敗れた「賊軍」にして必然的な「被疑者」】
 このドラマのテーマは、【そもそも何かしらの精神異常を抱える者同士で構成されている人間社会に於いて問題の本質となり得るのは、異常者か健常者かの判別とかこの曖昧な境界線の究明などではなく、只、圧倒的多数派によって支持される秩序の都合を阻む圧倒的少数派の都合を脅威と看做し排除し続ける他に、種の保存の為の最適解を導き出せないといった公共の精神の限界】みたいな所ではなかろうか。俗称ユナボマーこと被疑者テッド・カジンスキーはもとより、彼を追うFBIのジム・フィッツジェラルド、彼の妻、CIAとグルだったハーバード大学心理学の権威、幼少期のテッドを恋愛にのぼせて手酷く裏切った友人、・・・等、互いの立場の主観からすれば皆、相対的に精神異常の印象を放ち合う演出がなされていた様に、私には見受けられた。つまり異常者であろうが健常者であろうが、これらは皆例外無く「過剰社会」の産物に他ならないという意味では、テッド一人だけを精神異常者と断定するのは理屈に合わない。少なくとも『マンハント』の最終話の終幕で交差点赤信号を停車するシーンは間違いなく、ユナボマーが言わんとした所の「過剰社会」批判の視座を、鑑賞者をして問わしめている。従って、『マンハント』は、テッドの犯行や声明文が米社会から排除対象とされた理由を、これが他と比べて本質的に異常だったからではなく、本質的に圧倒的少数派に過ぎなかったからだと位置付けていると言えるし、つまり、テッドの犯行と思想は、公共の精神の限界からは間違いなく社会悪として断罪されるべきものだったのは確かだが、同時に、人類を生物学的により俯瞰する視座からは、必ずしも種の保存や繁栄の理に沿わないとも言い切れない、智恵の可能性の内の一つだったのかもしれないとも言わせんばかりの、鑑賞者の「見当識」を根底から揺さぶりまくる空恐ろしいテーマ性のパラドックスが秘められている様に、私には感じられた。
 で、さすがにこのままではユナボマーの思う壺みたいで居心地が悪過ぎたので、馬鹿な私なりに更に冷静に考えを巡らせた結果、映画『キングスマン』の悪役リッチモンド・ヴァレンタインが、地球温暖化を阻止すべくこの原因としての人口爆発とこれに伴う食糧問題の是正の為の人類大粛清を首謀していた事を思い出した(笑)。つまり実話に基づいた体裁の『マンハント』に於ける実在した凶悪テロ犯ユナボマーに対して、全くのファンタジーたる『キングスマン』に於ける悪役リッチモンド・ヴァレンタインの思想信条こそが、たまたま至極類似したものとして想起されたって訳で、結局リッチモンドはエグジーという主人公の「誰を殺して誰を生き残らせるかを勝手に決めてんじゃねぇよ」みたいな理屈の下、実力行使で計画を邪魔され退治されちゃってた訳で、つまり何が言いたいかというと、ユナボマーもリッチモンドも、たとえ産業社会化の阻止や人類大粛清などの思想信条これ自体に対する評価や自己承認を得る事で済ませていられたのならば何ら問題なかったであろうに、これを実際に実行に移してしまったら、少なからず「目には目を、歯には歯を」の報復律で、只では済まされない道理は当然覚悟されなくてはならなくなるし、これは言論の自由とか人権尊重とかの次元の議論ではなく、既に権力闘争の次元の議論上のテーマ性だった訳だから、ユナボマーも自身に分不相応過ぎる権力を行使してしまった事に対する、司法権力による報いを受けざるを得なかったってだけの至極単純明快な話に過ぎなかったのだと納得に至った。つまりもはや私にとって『マンハント』のテーマ性に於けるパラドックスの闇は綺麗さっぱり晴らされたのでした、ふぅ、あぶねぇあぶねぇwww!

▼2021年3月2日 追記
【『マンハント ユナボマー』のテーマ性の狙いとは、ユナボマー独自の思想への参照を契機として、文明発展史観への懐疑を問わしめる、この普遍的視座の提示】
 上述で私は、ドラマ『マンハント:ユナボマー』に於いてテーマ演出された、かつてテッド・カジンスキー(※筆者は、これが実在のユナボマーのモデルと同名か未確認)がしたためた「声明文」での「過剰社会」批判の普遍性を問うといったパラドックスとは、【「権力闘争」の次元の議論を度外視したテッドの分不相応な権力行使への報い】という、より根底の状況の把握でもって、単純明快に瓦解してしまう仕掛けだという趣旨を述べた(※この「瓦解してしまう仕掛け」という私の解釈は、本稿結論部にて見事に覆り、それこそ瓦解します)。では、その「根底の状況把握」とは何か?それはテッド独自の思想を利用して現代社会に壮大な価値転換のパラドックスの挑戦を仕掛けて来た大衆娯楽企画『マンハント:ユナボマー』に対する、馬鹿な私なりの、パラドックスをもってする意趣返しである。
 というのも、まずそもそもテッドは、先史から現代まで一貫して人類社会を根底から支配し続けてきた仕組みとしての、【権力闘争】や、更にこれ自体の根底で幅を利かせ続けてきた【暴力(※腕力・武力、そしてこれを統率する死霊崇拝・先祖崇拝・民族崇拝の沿革を持つ、土着性抜きには語り得ない国粋主義的精神の要たる建国神話、或いは国教という求心力)】という、この厳然たる自然摂理の一種について、まぁ当然把握はしていたのだろうが、彼の犯行動機の背景が実際にドラマで描かれた通りの、言わば先天性の意思疎通能力不全障害(※IQ167で2学年分の飛び級でハーバード入学できるほどの超優秀な頭脳だった「にもかかわらず」、否「だからこそ」?)だったとして、このどこまでも一身上のトラウマから造成されざるを得なかった社会に対する彼自身の憎悪の感情こそが、「過剰社会」化をより原始まで逆流させる事によって人類をより自由で豊かに解放させるといった、言わばルソー的な自然回帰の価値転換思想に於ける、思想的な整合性を著しく損なわせたという意味での実践的な判断ミス、この超天才らしからぬ超凡ミス、感情による理性の敗北、つまり、彼本来の思想的な前提に一貫して従うならば、暴力による権力闘争も当然含むと把握されるべき自然摂理への回帰を、真の自由や豊かさへの道だと既存社会に対して主張しておきながら、一方では、自らの腕力を鍛える意志は乏しく、武力は僅かな爆弾製造技術に留まっており、この更なる集結・組織化を図れるカリスマ的才能なんぞ迂遠もいいところな彼が、人工衛星と連携した核ミサイル発射技術を始めとする膨大な軍備や、これを支える産業構造や、これを担う民衆の精神的な秩序までもを統制する求心的な権威構造たる民主主義なり共産主義なり宗教的創世神話及び倫理道徳観念なり、そしてその永い歴史を掛けて既得権益との流血、無血を問わぬ権力闘争や利害折衝を経た結果としての、様々な権利を公平・公正に保障するというタテマエの法治主義、これまたやはり末端の地方警察等も含めたいわゆる暴力装置に裏付けられた武力の一環等、これら全てを備える既存の文明社会に対して、爆弾郵送テロによる産業科学技術専門の頭脳・人材に狙いを絞った粛清という、至極脆弱な形の武力行使でもって権力闘争を仕掛け、敵対するといった【無謀さ】もとい【思想的な自己矛盾】を招いたのだ。
 つまり以上を略述する所の、テッド・カジンスキーは、彼の超優秀な頭脳故の社会的疎外感に端を発した、自らの思想形成の根底の一部として疼く憎悪感情に対して、どこまでも自己客観視が叶わなかったが故に、自然摂理に於ける権力闘争の観点まで度外視してしまう冷静さの欠如の露呈にまで至り、結果、郵送爆弾テロという無謀な戦術を論理飛躍的に実行してしまうといった、独自の自然回帰の思想信条を自らの実践行動によって否定、或いは逆説的に反証せしめたという、この馬鹿な私なりの『マンハント:ユナボマー』という飽くまで実話に基づく体裁の「虚構」の筋書きに対する解釈を前提とする話として、私は更に以下に述べたい。
 そういった鑑賞者に於ける解釈の余地を残した『マンハント:ユナボマー』の筋書きの最終話の終幕に於いて、静寂の赤信号停車シーンをもってする「過剰社会」批判の普遍性を問わしめるパラドックス的な演出効果をぶち込んだ制作上の判断とは、果たして、テッド・カジンスキーという自己矛盾故の爆弾テロ犯、この如何なる観点からも決して正当性を見出し得ない「固有名詞」を、美化したり権威崇拝をミスリードしたりと、こう解釈されてしまうか否かのギリギリの所で、飽くまで鑑賞者の自主性を尊重する制作上の観点、この創作上の矜持故の、いわゆる「無駄な説明」を省き曖昧にぼかすべきは中立に描いたまま放置するといった制作意図を踏まえ抜いた上で、そもそも「ユナボマー」を取り沙汰すまでもなく、いわゆる「文明発展史観」に対する無垢で無批判な精神性こそは、究極にはテッド・カジンスキーと肩を並べられるほどに社会の脅威と成り得る、人類の本質的な愚かさとか、警戒すべき素質の一つとして捉える事も、又決して間違いではないよねと、要するに【物事の本質は単純化にのみ頼っていては決して触れる事すら叶わない】的な、創り手にとっても鑑賞側にとっても自律性は重要だといった風なメッセージ性とか気概とかを重々に踏まえられた、・・・いやしかし同時にやはりどこまでも超絶リスキィな制作判断としか言い様が無いし、だって実際の未だ歴史化すらしてない、不条理極まりない悪夢に巻き込まれた被害者が大勢実在したままの状況で、これに基づいた脚本にパラドックス効果をもって本質的テーマの昇華を狙うなんて企ては、端からだけでなく、多分、脚本家や監督や製作プロデューサー当人ですら誰一人の例外も無く、これが果たして創作表現として正当性を見出し得るのか、或いはどこまでも不謹慎とだけ断罪されても仕方の無い企画に過ぎないのか、永久に明確な答えを出せない、出資側も困惑しっ放しの・・・、いや、だからこそ少なくとも『マンハント:ユナボマー』を許容するアメリカ社会の文化水準は、少なくとも絶賛に値すると思うし、さて、以上の禅問答こそが、本稿の冒頭に述べた馬鹿な私の「意趣返し」である。
 従って、現時点で私は『マンハント:ユナボマー』に於けるパラドックス的なテーマ性の演出効果が、瓦解したとも、瓦解させるべきものとも一切感じていないし、むしろここから多くを学ばされた気分ですらある。つまり、先日の感想を述べた時点、そして本稿冒頭を述べた時点までの私に於ける『マンハント:ユナボマー』に対する読み解きは、至極浅はかでありました、ゴメンなさいというのが結論である。

▼2021年3月3日 追記

【統治権の根拠が失われた極限の社会状況に於ける、権力闘争上の暴力の正当性について】

 ところで馬鹿な私なりに、上述に於ける「権力闘争」の自然摂理について更なる説明を加えるならば、それはいわゆる「勝てば官軍、負ければ賊軍」といった、この暴力支配上の、どこまでも相対的な善悪規定の根拠によって、賞賛、或いは断罪の裁きが下され、更にはこの後の支配・被支配の秩序までもが規定されざるを得ないという、法思想の根底で機能し続ける自然法の一環、つまり、「統治権限を喪失した無法状態に於ける自然発生的な原始の秩序に対する人類自らの言述領域について」、とでもなろう。それを自明理に証明するのは、例えば、核武装によって辛うじて均衡が維持され続けている現代の覇権主義的な国際社会秩序だったり、或いは、戸締り用心の自己防衛意識を抜きにしては決して治安維持すら叶いっこない現代社会の公共秩序だったりと、この厳然たる現実であり、こればかりは誰も否定できねーよ。
 従って、上述の『マンハント:ユナボマー』感想に於いて私は、テッド・カジンスキーが「超天才らしからぬ超凡ミス、感情による理性の敗北、戦術的無謀及び思想的自己矛盾」を犯した「権力闘争の敗者」と位置付け、これにより「いかなる観点からも決して正当性を見出せない存在」だと述べたが、同時に、決して私は彼に対して、既存の文明社会が備える倫理道徳観念の権威主義への、無批判に一方的な立脚だけをもってする善悪判断を下していない。つまり、少なくとも私にとってのテッド・カジンスキーとは勿論、既存の文明社会の法治主義によって被疑者と看做され、これに順じて公正に裁かれるべき凶悪テロ犯であり大量殺人鬼である事は、自然法的な観点からも確かだが、これは同時に、どこまでも思想犯とか「賊軍」とかとも呼び得る側面も持ち、もっと言ってしまえば、創世神話の神々やガイヤ説で捉えられる地球の意志などが設計をミスった事による出来損ないとかいう次元で意味される様な所の、つまり究極の悪、絶対的に否定、排除すべき悪とまでは、決して断定していないし、断定する如何なる権限も人類は、決して持ち得ないとまで考えている。つまり、たとえ究極には自然法的な観点から死刑の量刑が相当だと公正に裁かれこれが順当に執行された犯罪者であったとしても、つまり死刑廃止論に組みしない私の立場からも、同時に、どこまでも彼はその後の人類社会に何らかの参照材料として記憶、記録されるなどしてでも絶対的排除だけは免れるべき存在だと考えられるという事である。それについては、例えばあのサリン事件の首謀者が、決して社会から忘れ去られてしまってはならないという話でも納得できようし、この考え方が究極の根拠とする所も又同じ「自然法」という法思想の根っこなのである。
 もとい、私が本加筆の最も取り沙汰したかったのは、例えばキューバ革命でキューバ(一党独裁体制の社会主義)共和国を誕生させたチェ・ゲバラや、最近だと一国二制度廃止を強行する中国共産党に反対し続けた香港民主化デモ等に於ける、日本国民たる私の立場からでも語り得る限りの、この正当性についてである。
 ここで留意されたいのは、一党独裁の社会主義を生んだ革命家と、一党独裁体制の中国共産党に対する反対及び民主化デモとを、敢えて例えとして並列させてでも私が言わんとする「正当性」とは、勿論、一党独裁社会主義革命そのものや、民主化デモそのものに対する「正当性」であろう筈もなく、これは、場合によっては暴力手段を交える事も辞さない「権力闘争」に身も心も捧げる覚悟を持ち、実際に行動する局面の当事者らに於ける、言わば人類普遍の「正当性」である。つまり、一党独裁体制樹立の為の革命にしろ、これに反対する民主化デモにしろ、それぞれ政経思想的な志向性は真逆であるが、又これらは同時に、場合によっては暴力手段や武力衝突も避けられない、人類普遍的に当然の権利たる「自然権」の行使という点で共通しており、これこそ正に本稿のそもそもの発端だった『マンハント:ユナボマー』の感想に於いて取り沙汰した「権力闘争」の様相そのものなのだ。もっと言えば、暴力が伴うのは何も共産・社会主義革命ばかりとは限らないし、むしろ暴力が伴わなかった民主化革命の歴史を私は寡聞にして知らない(※ミャンマー民主化の歴史とか詳しく知らない)。少なくとも、暴力は市民革命の専売特許であろう筈もなく、むしろ民主化の歴史こそが古くはフランス革命からずっと暴力で彩られ続けてきた。
 さて、ユナボマーことテッド・カジンスキーはこの「権力闘争」に於ける無謀な武力及びメディア戦術を判断したが故に、自らの感情にも負け、既存の文明社会にも敗北し、「賊軍」と看做されざるを得なくなったという意味で「自然権」的な正当性すらも完膚なきまでに剥奪された(※厳密には、当然、黙秘権や公正な裁判を受ける諸々の権利は認められ続けた)。では、その理屈で言うと、仮にユナボマーが郵送小型爆弾の製造技術のみに留まらず、更なる装備、兵器、戦術幅ばかりか、独自のメディア発信拠点や資金や人材や、そもそもこれらを統率するだけの求心力たるカリスマ性としての意思疎通能力までもを兼ね備えるという意味での、更なる戦力の規模に恵まれていたのならば、そしてこれが実際よりもより長期に渡る米国社会に於ける内乱、テロ紛争、クーデター騒動、暫定自治政府発足からの独立国家樹立にまで至っていたのなら、果たしてユナボマーは歴史のどの時点で「被疑者」「凶悪テロ犯」「狂った思想犯」等から「敵性国家の元首」「革命思想家」「革命の英雄」として社会的認知が覆っていたとも限らないし、少なくとも彼は決して単純に精神異常の狂人だった事実だけで「賊軍」に成らざるを得なかった訳ではないので、もし敗因となった意思疎通能力だけでも、IQ167の突出した優秀さの反面で伴った乖離を埋め合わせるだけの水準で兼ね備えられていたとしたならば、郵送小型爆弾テロに依らずとも、或いは、CIA工作員洗脳機械化部隊のアドバイザー(『ジェイソン・ボーン』みたいなヤツ)とかベンチャー起業家とか自然保護国立公園の学芸員とか、他様々な分野の優秀人材として名を馳せたであろうし、当然その可能性の内の一つとして、革命的「権力闘争」で見事勝利を収めた「官軍」として新しい社会秩序の支配者とも成り得ていたであろうと、このような演繹的な考え方も充分可能であり、これはもはやパラドックスなどではなく、飽くまで「権力闘争」という自然権レベルの真実と向き合う議論の一環に他ならないのである。
 そこから続く話として、先に私が何故チェ・ゲバラを「権力闘争」上の正当性を語る上での例えとして挙げたかについては、敢えて説明を重複させるまでもあるまい。つまり、テッド・カジンスキーは、言わばチェ・ゲバラに成り損ねた「権力闘争」の敗者なんであって、究極には善悪判別の尺度だけでは決して図り切れない批判対象だという事だ。

【土着性及び地政学的条件と不可分な権力闘争の勝敗によって規定される、新平和の法的秩序の必然性について】

 又、チェ・ゲバラによるキューバ革命こそは、キューバの地政学的な必然性により、キューバ独自に判断され受け入れられざるを得なかった自主独立の近代化の固有の形だったとしか言い様があるまい。それは私のアンチ覇権主義、多元主義的国際秩序構想に立脚する、土着性の保守と自主独立の近代化とを不可分な尊厳と捉える価値観に論拠している。つまり私は、どこまでも土着性や地政学的条件と不可分な形で展開せざるを得ない「権力闘争」という自然権の行使の必然的な結果としての、時代や地域ごとの秩序の様相は、善悪以前の固有によって構成された多元な群として俯瞰され、人類平和に寄与する最善の秩序として均衡維持されるべき尊厳だと考えている。
 そして香港民主化デモに於いてもそれは同様で、つまり、まず言えることは、香港民主化デモとは、民主化を望む民衆と一党独裁体制を強要する中国共産党(とこれに屈した香港傀儡政府)との間で交えられた、紛う事なき「権力闘争」だったのだから、これは同時に自然権の発動が利害衝突上の本質的な根拠となっているとも言えるので、従って双方からの暴力の発動が伴った内乱の実際(※報道に乗ったものも乗らなかったものも併せ全て。つまりそれには当然米中冷戦構造下の代理戦争的側面の一環としての米中情報工作戦争、メディアや学生への煽動工作要員の暗躍等が想定される)は必然としか看做し様がないのであり、従って、中国共産党軍の香港治安部隊への武力支援及び香港市民に対する武力制圧はもとより、一方の香港市民による暴力的示威運動の悉く全ても又同様に、「権力闘争」上の自然権の行使の下で、等しく正当化されざるを得ない。否、そもそも正当化する、しない以前の問題として、一党独裁体制と民主化示威運動とが相容れぬといった極限のカオス、統治体制崩壊の内乱に於いて実質的に統治権限の法的根拠が雲散霧消した無法地帯では、「権力闘争」に勝った者だけが新たな支配勢力となれる自明の理に従って、何人たりともこの無法に於ける闘いを決して否定する事は出来ない、人類が人類であるが故の極めて根源的な、すなわち自然権の話に過ぎない。平和の歴史の始まりとは、常にその都度の権力闘争によって勝ち取られてきた勝者の正義とこれに対する敗者の服従で支えられた、血の犠牲を払った新秩序の発足に他ならないのだ。
 確かに、香港民主化デモとは、かつての一国二制度体制という香港返還当時の英中共同声明を実質的に反故にした中国共産党とこの働き掛けに屈した香港特別行政区政府に対する香港市民の(言論の自由どころか基本的人権まで制度的に制限され喪失するという日常的脅威への)怒りの表れであり、では、この事態が只、約束を破った側が糾弾されるのは当然の報いだとか、民主化及び民主主義は絶対的な善であり、一方の一党独裁の非民主化は絶対的な悪なのだなどという観点だけで分析される事で本質的な問題解決に向かうのならば、こんな楽な話はないが、実際の情勢はむしろ民主化デモが虚しくも制圧され、「一個中國」が目指す「一帯一路」計画に香港はもはや吸収されてしまった(※【香港警察、民主派47人を「国家転覆罪」で起訴】)。その「権力闘争」に於ける善悪をはっきりと規定し得る何らかの世界人類共通の普遍的な尺度や権威が存在したのなら、この通りに実際の情勢も動いていた筈だが、現実の結果は香港に於ける一国二制度統治体制の反故、瓦解、形骸化、つまり非民主化である。そこには当然、公けにはならなくともCIA工作煽動要員に留まらない西側諸国の元首による声明公表や現地メディア支援等、相当な規模の香港民主主義体制維持、非民主化反対への働き掛けはあった筈にも関わらずである。つまり、説明が重複するようだが、「権力闘争」に於ける善悪規定の根拠は、どこまでもこの結果としての勝敗にあり、香港市内という言わば戦場に於いて、民主化デモ当時(2019~2020年)に投入、展開可能だった戦力は、結局のところは中国共産党及び香港傀儡政府側が圧倒的に優っていた結果、無慈悲にも、中国共産党側が勝者となり、一方の香港民主化を望む民衆側が敗者となったのであり、従って、中国共産党及び香港傀儡特別行政区政府という官軍に対し、民主化を望む多くの香港市民が賊軍に下ったと説明する以外にないのが実際の本質なのだ。

【地球惑星という一元的な土着性による、人類史の帝国主義的な主流傾向、この必然性を「諸行無常」と捉える諦観の視座について】
 それは、更に俯瞰し捉え直すと、米中冷戦構造に於ける中国側の勝利に留まらず、国際社会に於ける中国覇権台頭による国際秩序の改変に対する、西側諸国一斉による封じ込めの失敗とも解釈できるが、さて、そもそも本稿に於いてより本質的に捉えられるべき焦点とは、「香港民主化運動の敗北」でも「中国覇権台頭による国際秩序改変への動揺」そのものでもなく、そういった【「権力闘争」の必然的な勝敗結果の連続した歴史の積み重ねの中に、当事者感覚だけでは決して抗う事も、推し量る事も叶わない、善悪判別を超えた、多元的国際秩序に於ける言わば「諸行無常」とも呼び得る、流動的な変遷の様態を見出し得るのではないか】という論点である。
 つまり、確かに香港市民の多くは一党独裁を拒み民主化を叫んだが、これが実現するほどには、香港を「一個中國」に巻き込もうとする中国共産党の覇権的経済力及び軍事力に対抗しこれを押さえ込もうといった、例えば中国に対する経済制裁の国連決議や香港特別行政区域への多国籍軍派遣、駐留基地の施設、香港暫定独立自治政府発足への支援・・・等の動きが無かったのも又、歴史的な現実であり、従って結局のところは、香港の非民主化を決する大きな分岐点に於いてすら、これを国際社会ぐるみで見過ごす他なく、中国覇権台頭に物言えないといった実際があった訳で、要は、国際規模の「権力闘争」の現実に於いては、民主主義が善で一党独裁が悪であると断定する政経学論上の勧善懲悪モラルなんぞは飽くまで二の次に追い遣られる、言わば戯言に過ぎず、常に最も重要視されるのは経済的且つ軍事的に見込める勝算を基準とした国それぞれの思惑で構成された勢力図の変動への絶え間無き見極めなのであり、つまり、こうやって紡がれる他無い人類史上の帝国主義的な主流傾向に於ける必然性こそを、もはや他でもない多元主義的国際秩序の一環、一断片として捉え直し、これぞ「諸行無常」への立脚となす他無いのではないか。それをやや乱暴に言い換えると、人類史に於いて、土着性や地政学的条件と不可分な固有の近代化の形が多元に組み込まれるべきとする多元的国際秩序構想を一つの理念とか選択肢として踏まえられていても尚、覇権主義的国際秩序に繰り返し流れ続けてきた人類史とは、つまるところ、これそのものが既に、地球惑星という最も大雑把に捉えられる一元的な土着性から必然され続けてきた、これ以外の実現は望み抗いようも無い、只、地域的な多元ではなく、変遷し続ける歴史的な多元という意味に於ける、結局のところの「多元主義的国際秩序」という呼称に収まる自然摂理の一環なのかもしれないし、こういったあらゆる事態を許容する他無いと開き直る視座こそが、正に諸行無常という日本でも伝統的に受け入れられ続けてきた究極の美意識への立脚だったりもする。
 そもそも、気候変動に煽られ生存圏を移動しては入植を繰り返し、被支配層を従えて奴隷経済を限りなく膨らませる為には、奴隷を生殺しで飼い馴らし続ける基本を破らない範囲でなら手段を選ばない様な、過酷な土着性由来の民族性が、新大陸を原住民から奪い、ここを拠点に一時は世界覇権を握り、この最盛期に自ら終止符を打つが如く国際的ネットインフラ普及の後の金融帝国主義の無際限の輸出と更なる暴発の加速を招き、果ては覇権を喪失するばかりか、歴史的伝統性からの民主的な慈悲や葛藤すらない根無し草の多国籍金融覇権企業の乱立とこの極限までの収斂を結果させた。それは更に未来に於ける世界統一政府の前身とも予想される、民主主義も社会主義も共産主義も悉く取り込んでは破滅させ続けて膨張した、いわゆる「創造的破壊」を志向性の核とする資本主義の成れの果てであり、しかしこれすら結局は、地球という生存権に於ける土着性に起因した民族性まで遡れる自然の産物の一つに他ならない。
 つまり、推論に継ぐ推論でいよいよ私自身もどうかなっちゃいそうな訳だが、要するに、人類を最も根源的に支配し続ける「権力闘争(暴力による支配)」の自然の摂理を踏まえると、必然的に、「創造的破壊」たる資本主義の無際限の膨張の成れの果てによって支配されるであろう人類史の行き着く先すらも諸行無常に立脚して許容するかの如き、決して終末論と悲観するに留まらない、言わば人類史の物語が読み取れるかもしれないという話だったのである。

【諸行無常の人類史観に立脚した上で尚私が貫きたい、土着性に自覚的な表現姿勢について】
 勿論、そのような思想的な一定の結論を得た上では、私自身に於いては尚一層、自らの手触り感覚に於けるアイデンティティや土着性への自覚化の意識を張り巡らし、私独自の土着性への誠実さを形として表す生き方に邁進したいと、心を改めるものであり、しかしこれを根無し草の強欲の亡者によって、たとえ完膚なきまでに蹂躙され、覆されるような事になろうとも、決して悲観して立ち止まる事の無いよう、諸行無常の達観への背伸びも意識し続けるしかあるまいと、覚悟に至った次第である。
▼2021年4月1日 追記
【エコロジー思想と破滅的人類との究極的且つ本質的な一致と、これを踏まえる人類観を表現する意義について】
 テッド・カジンスキーの郵送爆弾テロとは、彼にとっては自然権の行使か、或いはそれ以前の、自然回帰、自然への還元を志向する社会福祉的行為、自然への服従の精神の現れ、みたいな位置付けだったのかもしれない(※勿論、人類本位の価値観からすれば狂いまくってる)。だとすれば、テッドにとって、郵送爆弾テロとは、少なくとも暴力原理の権力闘争といった自然摂理を度外視した自己矛盾などではないとする、彼なりの自己客観視というか自己正当化が済まされていた可能性も充分想定できる。つまり、そこで重要な焦点とは、テッドの郵送爆弾テロの位置付けを解釈する前提を、どこまでも人類本位な自然権や暴力や自己・種の保存のみに傾倒する、言わば自意識過剰な本能に置くのか、或いは、飽くまで自己・種の保存とは又別に並存する根源的衝動としての自然還元・協調、すなわち自滅願望という類の本能に置くのか、これらいずれかの視座に立脚するかで、少なくとも人類本位の善悪判断基準から一定の距離を置いたところに於ける、推論の幅が段違いに啓けるという議論だ。
 いや、更に極論を進めると、たとえ、地球生態系にとって人類はがん細胞の如く宿主を貪り食い滅ぼすだけの害悪に過ぎないとか、むしろこのような人類とは地球生態系を滅ぼすために生まれた生物で、これは端から地球生態系リセットを志向する特殊な生物と看做すことも可能で、地球の寿命の尺度でみれば惑星活動の負荷を一時的に途絶させ小休止させる、数ある節目の役割の内の一つに相当し、つまりこのような人類による生態系破壊の宿命すら本質的には自然愛護とか自然協調として看做せてしまうし、だとしたら、もはや「過剰社会」を先鋭化させる一途の破滅的な人類と、これを批判するテッドの過激な自然回帰論とは、究極には対立せず、つまり、両者とも自然協調・還元を志向する点で一致しているし、ならばそこに於ける相違点とは、テッドの自然回帰論はどこまでも人類文明の尺度、せいぜい約1万~数万数千年の尺度で捉え、展開されており、一方で私宮尾が挙げた人類の破滅的自然還元論はどこまでも地球惑星の寿命、現在の年齢とされる約46億年~100億年かこれ以上とも推測される規模の尺度で捉え展開されたもので、この相違の遥か先で、両者の志向性はエントロピー縮小で尚も一致している。つまり、テッドの過激な自然回帰論はどこまでもエコロジー思想の範疇で、しかしこれは地球の寿命の尺度からすれば、究極には、彼が批判対象として敵対した筈の、「過剰社会」の人類文明の破滅志向と同類として看做せるという話である。つまり言わんとすることは、以上は間違ってもテッドと私宮尾との思想的な一致に留まる矮小な話ではなく、これは、エコロジー思想とこれが批判対象と看做す筈の人類文明との志向性の、究極的な一致という結論である。
 そしてそれをもって、私宮尾は間違いなく、テッドと人類文明との双方から、それは詭弁だ!と批難されざるを得ない立場を獲得する。そりゃ勿論、私宮尾だって馬鹿なりに、人類文明や地球の生涯の物語の不確定性を、あたかも度外視するかのような上の結論もまた、所詮は人類本位というか私宮尾本意の独善とか自意識過剰なエゴの範疇を決して超えない類の推論に過ぎないと自覚がある大前提での話である。私的な創作の延長の妄想、独自の物語、虚構の構築の一環。
 更に言えば、その結論を踏まえる価値観から物語られ得るものとは、融和・協調と自主独立・住み分けとの思想的な両立である。もはや予定調和のみに偏重する単純な物語構造は、虚構としてすら看做しえないゴミ屑である。勿論『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『進撃の巨人』『デビルマン』『エヴァンゲリオン』・・・や、これらと水準を比肩するレベルの洞察の産物としての物語作品は、本稿の結論に立脚した上でも尚、むしろより一層に大傑作であり続ける。
 さてここで更に浮上する論点とは、そもそも人類本位の善悪判断基準たる人類種の存続の本能、人類文明と自然との協調を尊ぶ価値観などから距離を置いて、ともすればこれを自然優位に偏重する立場から文明終末歓迎論を唱えることをもってする形の全否定まで到らなくとも、上述したような人類の破滅的な地球還元論などが、果たして、人類自身による文学的なテーマ性の一つとして捉えられる意義や正当性の根拠は、どこから見出され得るのかという疑問である。これに対する私宮尾の答えは、創造・協調と破壊との間で右往左往する愚劣さや矛盾や葛藤としてだけでなく、これが又一つの自然の中で必然的に要請され組み込まれ機能しているありのままとしても捉え得るという、人類の本質に対する視座の更なる補強、言わば文学的な突破口としての意義は、あるっちゃあるかもしれない、である。