突然こんなことを言われても「は?」となると思いますが
「愛は人類を滅ぼす」のは間違いない、
少なくとも、現代社会で考えられている「愛」によって人類は将来、壊滅的な打撃を受けると思われます。
これはどういうことかと言いますと、
「闇が深いほど、光は輝く」
という有名な言葉がありますが、これは同時に
「光が輝くほど、闇も深くなる」
ことも意味しているわけで
つまりは、現代社会において光であると思われている「愛」こそが同時に「最大の闇」になるということです。
たとえば、誰からも否定されない最高峰の愛の例を挙げるなら
キング牧師の奴隷解放
が挙げられると思います。
マーテイン・ルーサー・キングJr.は黒人差別を無くし奴隷を解放した立役者であり、「I have a dream」で始まる有名な演説
「私には夢がある。いつの日か奴隷の子と、以前奴隷を所有していた者の子が兄弟のように同じテーブルにつくことを――」
これは本当に素晴らしいです。
なぜなら奴隷の所有者である「白人」を「あいつらムカツクから殺せ」と言うのではなく、
「同じ木の下で白人と黒人が食事をする日を夢見る」
と言っている。
つまり、白人に対する愛があり、だからこそ彼は白人たちをも説得し、世界に「平等」をもたらしました。
彼の行動は「光」であることに(現代を生きる僕たちにとっては)疑いありません。
しかし、冒頭の「光が輝くほど闇は深くなる」にあてはめて考えれば
キング牧師の行為こそが「最大の闇」になる。
では、一体、彼の行為のどこに闇となり得る可能性があるのかというと、それは、たとえば、彼の愛によって
「個人の消費量が劇的に上がった」
ということがあると思います。
差別のあった世界においては、ほとんどの人が満足に「消費」できませんでした。
食事も満足に取れない、いや、食事だけではなく、衣服、電気、水、多くのものを消費することができませんでした。
しかし「平等」という概念が広がったことによって、
生涯で食べる食事の量、資源の消費量……個人の消費量は格段に上がり、
その結果、たとえば地球の資源が足りず、食料が足りなくなり、食料を奪い合って戦争が起き、そしてその戦争は過去あったものとは比べ物にならにほど人類に壊滅的ダメージを与え、
しかし、その戦争のきっかけとは、人類が「平等」を目指したから、つまり「愛」を目指したから、であり、その結果
壊滅しかけている未来の人類は現代人に対して
「昔のやつらが考えた『平等』という概念はなんてアホなんだ。サルだって序列を作って消費量調整してんのに、サル以下じゃねえか!」
となるでしょう。
僕たちが昔の人間に対して「『雨乞い』をしたり『生贄』を差し出すって超アホじゃん!」と同じレベルでバカにされることになるでしょう。
これまで偉大な業績を残してきたとされる人たち、坂本龍馬もトーマス・エジソンもウォルト・ディズニーも、彼らにとっては全否定の対象でしょう。
そもそも「偉大な業績」と僕たちが呼んでいるのも、ここ200年程度の出来事の中において「偉大」なのであって、
2000年くらいの単位でみれば「超アホ」となるでしょう。
では、
今、この場で、人類は「愛」に向かうのをやめられるかというと、それは不可能です。
それは、タバコを吸って悪ぶりたい中学2年生に「タバコは体に悪いからやめなさい」と言う教師のようなもので
中学2年生からしたら「うるせーよ、先コウ」となります。
実際に、今、「愛が人類を滅ぼす」という意見に対して「水野何言ってんの」「水野は差別を認めるのか」「水野は普通の考えと逆のこと言って自分に陶酔してるだけじゃねーのか」と考る人もいるでしょうし、それはきわめて自然なことです。今ここで言っているのは真実ですが、真実は真実だからという理由では受け入れられません。そんなことを世界は望んではいないのです。
「世界は神に創られた」というたとえ話を使って表現するのであれば、
神の望みは、いきなり真実を知ることではなく
「人類よ、愛に向かえ。そして手痛いダメージを受けよ。結果、『愛』に対する概念を変えよ」
となります。
将来的に、今僕たちが「愛」と呼んでいるものは愛ではなくなり、地球の資源を調整して消費することが「愛」と呼ばれる(いや、愛に対して、もっと違う、大きな変化があるかもしれません)。
しかし、(ここは重要なのですが)環境保護者が「消費量を調整しろ」と言っているのは大きな間違いで、というか、その意見は必ず受け入れられないでしょう。
繰り返しになりますが、神が人類に望むのはあくまで
「愛に向かい、手痛いダメージを負うこと」
なのです。
「手痛いダメージを負うこと」の否定は、「経験」の否定です。
そして世界は「経験」こそを最重視しているので、どれだけ正しい意見でも、それが世界から経験を奪うものであるのなら
受け入れられません。
だから、僕たちは――現代という時間に生きる僕たちは、とりあえず「愛」に向かって生きるしかない。
それは、俯瞰して見れば「偽りの愛」に過ぎないのですが、いきなり正しい愛に向かうことはできないしそのことを世界は望んでいない。
そう考えていくと、「ああ、自分は結局、世界の単なる『歯車』にすぎないのだなぁ」と思います。
自分の意見も、作品も、仕事も、大きな川の流れに乗っている笹船のようなもので、
その川の流れとは現代社会の考える「愛」であり、
その流れから外れることはできません。
――話は少し変わりますが、
僕は過去に何度もこの問題に触れてきていて
「宇宙はピストン運動である」「神は葛藤を望む」
でもほとんど同じことを書いているのですが、
どうしてこのことを考えてしまうのかと言うと
自分の役割は「攻略」であり、そして攻略の究極形は「幸せの攻略」なので、ずっとそのことを考えているのですが
「幸せの攻略」という役割を担ってきた様々な【宗教】が提示してきた「幸せになる方法」に大きな欠陥があるからです。
そもそも、「幸せになる」というイメージに対して宗教が持っているのは
ある一点――それを「悟り」と呼んでもいいし「神の祝福」と呼んでもいいのですが
その一点に到達すれば、残りの時間は、ずっと平穏で幸せな気持ちでいられる
というものであり、宗教に救いを求める人はその状態を目指すのですが
その考えがどうもひっかかるというか、
一言でいえば、虫が良すぎるのです。
というのも、自然界を冷静に見ていれば、そんな虫の良い状況は成立せず、
「楽園」と呼ばれているような状況でも、常に、災害や敵の侵害の可能性をはらんでいる、
つまりは、「摩擦」や「葛藤」から逃れられない、
そして、「摩擦」「葛藤」とはすなわち「悩み」であり、
しかし、宗教の提示する「幸福」とは、「摩擦」と「葛藤」なき世界であり、
それは、「死」と同義であり「無運動」であり、
世界の本質と相入れないものではないか、
いや、しかし同時に、「人は幸せになれない、悩み続けなければならない運命である」という真理も人には受け入れられない、
なぜなら、その考えは人にとって魅力的な考え方ではないからです。
つまりは、人間にとって
「ある一点以降、ずっと幸せでい続けられる」という幻想を求めることこそが重要であり、(それはたとえば「お金持ちになる」とか、女性で言えば「理想的な男性と結婚する」だったりしますが)、
それはあくまで幻想であり、その一点に到達することは「新たな葛藤の始まり」でしかないのですが、
しかし、「ある一点以降、ずっと幸せでい続けられるのはあり得ない」という真理を完全に受け入れることも、同時に「死」や「無運動」であり、
人間は、この間を行ったり来たりすることを宿命づけられており
それこそが宇宙である、
ということなのです。
だから、「人が幸せになる方法」は存在しないことは理解しつつも、
僕は今後もずっと、死ぬまで、「こうなったら幸せになれますよ」という方法を提示することになるでしょう。
それは、大いなる矛盾なのですが、
同時に、その矛盾こそが、世界が運動し続けるために必要とされるのです。
となると
自分が書くべき「幸せになる方法」は、2冊セットになるでしょう。
そして、1冊目と2冊目で、逆のことを言うことになるでしょう。
そして、その2冊セットは、過去の宗教が書いてきた「一冊モノの経典(その代表は聖書です)」と反対するものになるでしょう。
仮に自分の書く2冊セットを「光」「闇」と呼ぶとしたら
「光」⇔「闇」
となり、かつ
「聖書」 ⇔ 「光・闇」
という構造になるでしょう。