これは、僕がひょんなことから所属することになってしまった大学サークル

 【リラックス研究会】 

 で経験した不思議な出来事の話だ。
 リラックス研究会(通称・リラ研)は、言わば奇人・変人の巣窟であり、彼らとの関係の中で僕は一時たりともリラックスできた記憶がないけど、彼らに教えてもらったことがもしかしたらあなたの人生に大きな意味を与えるかもしれない(実際、僕にとってそうだったように――)。

だから僕は、この話を、あなたに届けたいと思う。


 あの日、また会社の面接に落ちた(厳密に言うと面接会場まで行けなかった)僕は、午後の授業を受けるために大学にやってきていた。
すごく疲れていた。
それに、できれば誰にも会いたくなくて、特に内定をもらったクラスメイトに会おうものなら平常心を保っていられないのは間違いないので、人目を避けるように校舎の奥の方へふらつく足を向けていた。
 人気ない場所にベンチを見つけ、そこに腰かけようとしたときだった。
どこからか微かな音楽が流れていることに気づいた。チェロの音色だったように思う。すごくリラックスした気分にさせてくれる音楽で、しばらく音楽に耳を傾けていた僕は立ち上がり、なんとなく音色の聞えてくる方に向かって歩き出した。
 
(こんなところに校舎があったんだ……)
 大学三年に入ってからこの校舎に代わり、通い始めて一年以上経つのにまだ見たことのない校舎で、外壁は汚れが目立ち、まるで廃屋のようだった。
 いつもの僕だったらこんな場所には足を踏み入れなかったかもしれない。
 でも、肉体的にも精神的にもへとへとになっていた僕は、なんとなく音楽に導かれるかのように校舎に向かって歩き出した。
1階の廊下の奥から音楽は聞こえていた。その部屋の扉は開いていて、僕はそっと中をのぞきこんだ。

 (え―――)

 そのとき自分の目に飛び込んできた光景に、僕は思わず声をあげそうになった。その光景を今ここで説明したところで信じられる人なんてほとんどいないだろう。何よりそれを目の当たりにした僕ですら、自分の見たものを信じることができなかったのだ。


 そこにあったのは――銭湯だった。


 目の前の壁はタイルに貼り換えられ、そこに富士山が描かれていた。
 そしてその前の湯船に、男が一人優雅に入っていたのだ。
 (ど、どういうことなんだ……)
 もう一度扉からそっと中をのぞく。
 間違いない。男が風呂に入っている。
 (他にも、人がいる)
部屋の中を見渡すと何人か男がいて、一人は部屋の中に吊るされたハンモックの上で寝転んでいた。ひたすら菓子を食べている男もいたし、不思議なポーズを取ったまま固まっている男もいた。
 僕は、何か見てはいけなかったものを見てしまったような気がしてそのままその場を後にしようとした。そのときだった。

「おい」

 部屋の中から声がして僕はビクッと体を震わせた。
 「君だよ。リラックスから最も遠い格好――スーツで身を固めている君だ」
 そして、ザブン!と勢いよく水が弾ける音がした。男が立ち上がったのだ。
 全裸だった。
 男は巨大な体をのしりのしりと動かしながら、完全なフルチンのまままっすぐに僕に向かってくると、びしゃびしゃの手を僕のスーツの肩に置いて言った。
 
 「君は今、――緊張しているな?」

 (そりゃ緊張するだろ!)
 心の中で叫んだ。
 全裸の男に肩を掴まれている。この状況で緊張しない人間の方がおかしい。
 しかし、男は、今度は僕の手首を触りながら言った。
 「脈拍が早い。交感神経が優位になっている。君、そんなことではとてもとてもリラッ――」
 その瞬間だった。
 突然男が僕に抱きつくように身を預けてきたのだ。
 「ちょ、ちょっとちょっと……」
 僕は男を引き離そうともがく形になったが、そのとき部屋の中にいた男たちが一斉に声を上げ始めた。

 「出た! 会長の『即落ち』だ!」
 
会長と呼ばれた全裸男は、僕の肩に顔を乗せた状態で、すー、すー、と寝息を発し始めていた。部屋にいた男たちはわらわらとこちらに集まって来ると、全裸の男の呼吸を確認しながら「すげえ、これ完全に熟睡してるわ」「自分、初めて見たっす。やっぱ会長ハンパないっすね」などと口々に言い合っている。
 「あ、あの……」
 巨大な体を支えながら目線で他の人達に助けを求めると、男たちは会長と呼ばれた男を部屋の隅にあるシーツの上に横たわらせようとした。僕も一応その作業を手伝いながら
 (な、なんなんだこの人たちは。変な宗教でもやってるんじゃないか……)
 あまりの不可解さに身の危険を感じた僕は、会長を寝かせるとそのまま後ずさりして扉の方に向かおうとした。
 すると、それまで眠っていたはずの会長がむくっと起き上がり、突然声をあげたのだ。
 「飯沼ぁ、扉締めろぉ!」
 すると、ガリガリに痩せ細った色黒の男が素早い身のこなしで扉の前に行くと、ガチャリと鍵をかけ、合掌しながら不思議な立ち方をして言った「ヨガ・フレイム」。

 (おい。何のつもりなんだよ!)

 その男をどけようと伸ばした手が違う手に掴まれた。
 会長の手だ。まだ手は濡れていた。
僕が振り返ると、そこに立っていた会長は右手を差し出しながら言った。

 「僕はリラックス研究会・会長の園山流一(そのやまりゅういち)だ。君、ウチのサークルに入らないか?」
 
 「け、結構です」
 僕は扉の前に立ちはだかる色黒の男をどけて扉に手をかけた。しかし焦って鍵を開けることができない。
 背後からは会長の話声が聞える。
 「『人の生きる目的とは何か?』人類は有史以来ずっとこの問いを問い続けてきた。しかし私に言わせたら、こんな問いなど愚問だよ。人の生きる目的とは――リラックスだ。
 君は今、スーツを着ているね。ということは、今、就職活動中だ。なぜ就職活動をする?それは安定した地位と収入を得るためだ。ではその地位と収入は何のために? それは、『安心』するためだ。そして安心とは? そう、まさに、リラックスなのだ。何のために金を稼ぐ? 夢を追う?その先に幸福が待っていると想像するからだ。では幸福とは何か。それはリラックスに他ならない。ブッダも、キリストも、人類を幸福にする方法を追求したが、それもまた、『リラックス』を追求する旅だったと言えよう。まさに、人類は有史以来、ずっとリラックスを目指してきたのだ!」
 そして会長は



 「リラックース!」



 と、リラックスからは程遠い力強い声で天井に向かって絶叫した。
 部屋の中に部員たちのまばらな拍手が鳴っていた。しかし、僕にはそんなことはどうでもよかった。このときすでに僕の頭の中にはひたすら機械音が鳴り響いていて、首筋が燃えるように熱かった。
 僕は叫んだ。
 「と、とにかくここから出してください!」
 鍵を壊す勢いで扉を何度も引っ張る。
 僕の様子を見ていた会長の目つきがかわった。細くて何を考えているか読み取りづらい目だったが、真剣さが増したように思えた。会長はつぶやくように言った。

 「君、もしや――『広場恐怖』か?」

 「なんですかそれ!とにかく、ここから出してください!出せって言ってんだろ!」
 もう、何も考えられなかった。僕はブレーキの壊れた列車のように、力任せに扉を引っ張った。
 「君!」
 会長は大声で叫んだ。
 僕は動くのをやめて会長を見た。目からは涙があふれ出て止まらない。
 「とにかく、ここから出してください」
 僕は懇願した。とてつもない恐怖に襲われていた。
 ――僕は、閉じ込められるのが苦手だ。いや、苦手なんてレベルの話じゃない。(ここから出られない)そう思うと、突然頭の中に機械音が鳴りだし、足が震え、どう表現していいか分からない恐怖が襲ってくる。就職活動を始めてからは、電車の中でもそれと同じ症状が出るようになってしまっていた。
 部屋には会長の声が響き渡った。
 「広場恐怖は、パニック障害の一種だ。だが安心しろ。パニック障害は恐怖を10分耐えればほとんどの場合静まる」
 「お願いです、出してください……」
 僕の変貌ぶりに不安になったのか、先ほど飯沼と呼ばれた色黒の男が扉の鍵に手をかけようとした。
 「扉を開けるな!」
 会長の大声だ。そして、続けた。
 「今、君を襲っているのがとてつもない恐怖だということは分かる。パニック障害の恐怖はそれを経験した者にしか分からないからな。ただ、必ず今の状態から脱出させてやる。私の言葉に意識を集中しろ」
 僕は涙を流しながらうなずいた。
 会長は、まっすぐに僕の目を見ながら語り出した。
 「ジェンドリンという心理学の博士が患者を癒す究極の方法を探そうと優秀なカウンセラーたちのカウンセリングをビデオを撮った。しかし残念ながらカウンセラーたち手法に共通点はなかった。しかしジェンドリンはその過程で重大な発見をした」
 すると、部員たちが「やっべ、会長のガチ講義だ。録音しないと。やっべ」とテープレコーダーや携帯を手に持ち会長の口元に近づけた。それはまるで国会を出てきた政治家に記者が群がるような姿だった。
 会長は話し続けた。
 「ジェンドリン博士が発見したのは――成功したカウンセリングには、カウンセラーではなく患者たちに共通点があったということだ。そして患者たちはカウンセラーに対して『それは……なんというか……苦しいと言うより、寂しいというような……』と言いよどむ時間、自分の心の感じを言葉にする時間があった。つまり、自分自身と会話する瞬間があったということだ。この経験からジェンドリン博士は、カウンセラーの助けなしで自分自身で苦しみを楽にできる方法としてある手法を開発した。それが――『フォーカシング』だ」
 そして、会長は「今からフォーカシングを簡単に説明する」と言って一歩前に進み出た。
 フルチンのまま進み出た。それを見かねた部員の一人がそっと会長の腰にタオルを巻いた。
 会長は僕の二の腕に触れると言った。
 「今、君が感じている恐怖にフォーカスしろ。つまり、注目しろ。不安から逃げるのではなく直面するんだ。――今、どんな気分だ?」
 「怖いです、すごく怖い」
 「もっと具体的に。たとえば体はどうなっている?」
 「首筋がすごく熱いです。背中も熱い。手が震えています」
 「もっと他にもあるだろう」
 「……呼吸が早くなっています。心臓もバクバクしています」
 「いいぞ。その調子だ」
 「でも不安は収まりません」
 「いいんだよ。収まらなくていい。とにかく、今自分がどういう状態にあるのかその客観的な状態をどんどん言葉にしていけ」
 「分かりました」
 そして僕はできるかぎりの自分の状態を口にしていった。すると会長は言った。
 「では、次の段階だ。次は、その不安と『対話』するんだ」
 「どういう意味ですか?」
 すると会長はうなずいた。
 「今、君が感じている不安は、君を苦しめたくて存在しているのか? 違うだろう。君を苦しめたいんじゃない。何か、大事なことを伝えようとしているんだ。『自分は部屋に閉じ込められた。部屋の中にいたら危険だ。早く逃げないと身が危険な状態になる』そう君に伝えようとしている。いいか? 不安は君を苦しめようとしているんじゃない、助けようとしているんだ。しかし、君はその不安の声を無視している。無視するどころか嫌ってすらいる。『自分がこの状態にさえならなければもっと力を発揮できるのに』そう思って、不安を遠ざけようとしている。だから不安もまた、強く訴えてくる。『この人は分かってない!』。たとえば『痛み』はそれ以上活動すると体に異常をきたす『信号』だ。その信号が主人に無視されると体は活動を続け回復不可能になるかもしれない。だから訴え続ける。それが不安の正体だ」
 会長の隣では部員の一人が猛烈な勢いでメモを取っていた。そのメモを取る音がさらに会長を調子づけているような感じがした。
 会長は言った。
「不安と対話をしなさい。不安にたいして『君は僕に大事なことを伝えようとしてくれていた。僕を守ろうとしてくれていた。それなのに僕は遠ざけようとしていた。本当に今まで申し訳ないことをした。君が僕のために存在してくれているのは良く分かったよ』そうやって何度も心の中でつぶやくんだ」
 僕は言うとおりにした。
 僕を襲う巨大な恐怖に向かって、何度も何度も言葉を繰り返した。ごめんなさい、ありがとう、そんな言葉を何度も繰り返した気がする。
 それから何分経っただろう。
 時間の感覚は歪み、それは1時間にも、また数分にも感じられた。
 だが、先ほどまで僕を襲っていた不安は、ウソのように跡形もなく消えていたのだ。
 まるで自分が不安を感じていた事実すらなかったかと思うくらい、心が軽くなっていた。
 今までこんな経験はなかった。まるでずっと僕を縛り続けていた鎖が外された思いがした。
 「あ、あの……」
 僕が口を開くと、それをさえぎるように、会長はもう一度右手を差し出して言った。
 「私の名前は、園山流一、リラックス研究会会長だ」
 会長の姿は――その腹はたるんでおり、完全に銭湯上がりのおっさんの姿そのものだった。でも、このとき僕は、目の前にいるこの人から、何か人生にとって大事なことを教われるという直感があった。

 「僕、今、大学4年なんですけど、今からでもこのサークルに入れるんですか?」

 すると園山さんは「問題ない」と言ってこう付け加えた。
 「ここにいる連中はみんな留年しているから大学6年以上だ。私に至っては、すでに大学を卒業したOBだよ。今日も仕事を抜け出してこの部室に遊びに来ている。今から会社に戻って上司から大目玉を食らう予定だ。だが、何の問題ない」
 「どうして問題ないんですか?」
 驚いてたずねると、園山さんは言った。

 「それは、私が『リラックス』を極めているからさ。上司の説教を前にしても、私はリラックスし続ける」

 そう言って満面の笑みを浮かべる園山さを見ていると、僕は頭の中には

 (そういえば「教わる」と「襲われる」って少し似てるな)

 という考えが思い浮かんだ。

 
 (つづく)


 
参考文献 「うつからの脱出 プチ認知療法で『自信回復作戦』」日本評論社 下園壮太著


※ 「ウケる日記」は来週火曜日更新です。


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